バケツ一杯の月光を汲み込んで置く

 僕はあの頃、幼稚園児だった。年中さんか、あるいは年長さん。そんな年頃なら夜中はぐっすりと眠っていて然るべきだけれど、僕は夜に突然、目が覚めてしまった。理由は分からない。僕は布団に潜り直してぎゅっと目をつむり、再び眠ろうとした。でもこういうのは大抵、寝ようと思うほど寝られないものだ。僕はしばらくしてその試みを諦めて、あとは天井に微かに見える染みをぼんやり数えていた。

 それからどのくらい経った頃だろうか。染みを数えるのにも飽きてきたほどに、ふっと、天井を照らす青白い光が伸びてくるのが見えた。その光があまりに明るかったものだから、僕は思わず身体を起こす。光は部屋の奥、カーテンの隙間から溢れ出ているようだった。何の光だろうか。僕はまるで赤ちゃんのように――まああの頃だって赤ちゃんと呼べるかもしれないけれど――ベッドを四つん這いで進み、カーテンを開けた。そしてそこから、月が見えた。一片の欠けもない大きな満月だった。その月が、寝静まった街に、そして僕の部屋に、冷たい月光を零していたのだ。それは幼心にも神秘的な光景だった。僕はじっと月を見つめていた。

「楽人、何してるんや」

 そんな僕の意識の外から、ふいに声をかけられた。そして僕が振り返るよりも先に、兄が僕の隣に並んで座った。僕がごそごそしていたせいで起こしてしまったらしい。あの頃僕は兄と同じベッドで眠っていた。今では信じられない話だ。

「月、見てる」

 僕は、隣の部屋で寝ている母までも起こさないように、ささやかな声で返事をした。兄は一瞬こちらを流し見て、普段通りの音量で「ふうん」と言った。そしてすぐ窓の外へと向き直し、二人して夜の景色を眺めていた。しばらく、僕たちの間に会話はなかった。

「お父ちゃんな、船に乗っていなくなってしもうたらしい」

 兄がふと呟いた。兄はさっきと変わらない無表情のまま、月よりも下の方を見つめていた。その視線の先には神戸港があった。あの頃住んでいた、そして今も住んでいる坂の上のマンションからは、港の様子がよく見えた。

「お母ちゃんのこと嫌になったんやって。楽人は覚えてるか?」

 僕は首を振る。父が蒸発したのは、兄が当時の僕と同じ年齢だった頃、つまり三年前だ。幼稚園児にとって、三年というのは絶対的な時間だ。だから僕にとっての父親は、あくまで概念上の、一般的なイメージとしての父親しかなかった。テレビや絵本で見るような、優しくて力持ち、平日は家族のために働き、休日は車を出して色々な場所に連れ出してくれる。それがほとんど全てだ。当時の僕にとって父親の姿はそういったもので、だからこそ兄が時々言及する、母を嫌って一人でいなくなる父親というのは、僕のイメージする父親の姿とはすれ違っていた。

「なあ、楽人はお母ちゃんのこと好きか?」

 兄は視線を動かさないまま、そう訊いた。その視線の先では、港に泊まっていた船がゆっくりと方向を変えて動き始めていた。

「うん。好きやで」

「お母ちゃんに、いっぱい勉強させられてんのに?」

「小学校入る前に、お勉強しとかなあかんらしいから」

「でも、遊ばれへんのは嫌やろ」

「たぶん、それはしゃあないことなんやと思う。お兄ちゃんは嫌なん?」

「嫌や。お勉強すんのも、遊ばれへんのも。俺かて別にお母ちゃんのこと嫌いなわけやないで? でも、ずっと言いなりは嫌や。嫌いと嫌は違う」

 嫌いと嫌は違う。あの頃の僕にはその意味がよく分からなかった。返事に困って、僕は兄と同じように港の方を眺める。船はもう港を出ていた。船首を向こう側に向けて、暗い海をゆっくりと進み続ける。僕はその船の行方を目で追っていた。その内にふと、船が明るく照らされた。月の光だ。地平線の向こう側にある月が、その光を一本の太い筋として海へと投げ出していた。船はその方向をわずかに変え、最終的には月にまっすぐ向かう針路を取っていた。月によって照らされた光の道を、船はゆっくりと進んでいく。まるで月に導かれるかのように。

「楽人はさ、船に乗っていきたいと思う?」

 兄は訊いた。僕は一瞬頷きそうになったけれど、一度目を閉じてから、首を横に振った。

「ううん。たぶん、お母ちゃんがいいって言わない」

「思うだけなら、自由にしていいのに」

 兄は少し顔をしかめていた。でも、たぶんそうじゃない。僕は自由に選んだとしても、いや、自由に選ぶからこそ、同じ答えを出すだろう。言葉にするのが難しいけれど。僕はきっと母に従うべきだし、従うことを望んでいる。あの頃の僕にとっては、母親に反抗するというのは何だか恐ろしかった。そしてそれは、たぶん今も同じで。

 その後僕たちは、あの船が次第に小さくなって見えなくなるまで、無言でその様子を見つめていた。そして互いにおやすみなさいを言って、布団に潜る。今度はすんなりと眠りに就くことができた。その次の日からは、いつも通りだ。いつも通りの時間に起きて、いつも通りに幼稚園へと通って。本当にただそれだけの、ささやかな夜だった。それでもあの美しい月や、月に向かって進んでいくあの船の光景なんかは、僕の脳裏にこびりつき、ふとした瞬間に僕の心象に表れることとなった。

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