90・涼
梅雨が明け、日差しの強さもより一段と強くなった。暑さは長くここに住んでいる者からしても早くも猛暑と言える段階に至っている。梅雨時にしっかりと雨が降ったのが救いだろう。
たっぷりの雨と日差しを受けて、野も森もこれでもかと言う程に緑を濃くし、下草は例年に増して背を伸ばしている様に見える。
多少マシになった暑さの中、吉兵衛達に夕方の稽古を付けていると陽炎の立ち昇る野原の向こうから馬を曳いた一団が進んで来た。蒼風を曳いた八郎を中心とした石灰の運搬班だ。梅雨時に底を着いた胸壁建築用の石灰を運んでいるのだ。
梶原克時の一団による襲撃は刈入れ後であろうと予想しているが、梅雨を越えて襲撃が多くなる農閑期に入った事は間違い無い。
それ故、胸壁の完成に向けて全力で石灰を運びたい所なのだが、輸送には半分の人員で当たり、残り半分は襲撃を視野に入れて門に近い場所で出来る仕事を割り振らざるを得ない状況なのだ。
石灰窯に荷を降ろした面々が汗みずくになって帰って来た。満助がすかさず蒼風の世話に飛んで行く。川の水でしっかり汗を流してから体を拭くのだろう。
人間は風呂だ。そう言えば競走馬が温泉だか風呂だかに入っていた映像を見た事があった様な気がする。温泉には猿やら鹿やらも入ると言うし、馬にも良いのだろうか…風呂場の下辺りに馬用の湯船も作ってみるか?いや、そんな余裕は無かった…湯の川と湯沢の合流地点に入れてみるか?いや、水深が足りないか。そんな事を考えながら皆の後から風呂へ行く。
「かぁっ!堪んねぇ!」
風呂に着くと八郎の声が響く。
先に入った運搬班の男達は早くも湯から上がって、湯呑みから蕎麦茶を飲んだり、今年も良い出来の四太の瓜を摘んだりしているのだ。
「冷てぇってだけでこんなに美味いなんてなぁ。」
「お前、一昨日も同じ事言ってたぞ。て言うか、一人一杯だからな。」
風呂から上がった利吉と竹丸がそんな会話をしている。彼等が口にしているのは冬場に造った氷室の氷で冷やした蕎麦茶と瓜だ。
この間の冬に雪が積もっている時期の仕事として氷作りは如何だろうと思い立ち、村よりも更に標高の高い竜神池の水を調べた。結果、一寸半ばかりの厚さの氷が張る事が分かった。もう少し厚さが欲しいと考えた俺は、池の辺に氷用の型を設置し、毎日少しずつ池の水を注ぎ足す事で池の氷より厚い氷を作る事にしたのだ。
作った氷を何に使うかと言えば食料保管用であり、暖かい時期には肉や魚を、秋には栗等の救荒食物を長持ちさせるのに役立つだろうと考えている。
その為には氷を収める氷室が必要になるのは当然であった。そこで池から一番近い、館跡の裏の斜面に横穴を掘り、氷室とした。距離的にはお堂の裏の斜面も同じ様な距離だし、我々の生活環境から考えればそちらの方が場所は良かったのだが、如何せんお堂の裏は埋葬地だ。食い物を保管するには適さないだろうし、そもそも下手に掘ると何が出るか分かったものではない。
現状では、本当に斜面を掘っただけの人工の洞穴なので、中は融け出した水で常に泥濘んでいる状態だし、氷も夏の初めにして既に粗方融けてしまっている。出来れば次ぎの冬には断熱、排水、補強の為に、三和土で室内を覆いたいと考えている。
「八郎さん、そろそろ代わって下さいよ。」
「えぇ、何でだよ。俺だって寝たばっかりだぞ。」
「そんな事言ったってそれしかないんですから。この間も代わってくれなかったじゃないですかぁ…」
「あー、無理。ちょっと起きられない。」
利吉が八郎とじゃれている。
彼等が取り合っているのは竹編みの長椅子に続いて作らせてみた藤の蔓を骨にした竹編みの寝椅子だ。イメージを工作班と竹細工の得意な女衆に話したところ、ちょっとお洒落なホテルのプールサイドに有る籐編みのビーチチェアを少々不細工にした様な物が完成した。正直中々の物だ。だが、材料が多く必要な点、構造が少々複雑な点、そもそもこんな物作っている暇が無い点から冬の終わりに二つ完成し、男湯、女湯の洗い場の隅に一つずつ設置したままだったのだ。
ところが暖かくなるにつれ、試しに風呂上りに寝転んでみる者が出始め、今では毎日取り合いになっている。しかし、二つ目が配備されるのは早くて来年の春だろう。それまでは熾烈な椅子取りゲームが続くのだ。いや、秋になって気温が下がれば終わるか。
「大将ー…」
利吉が情けない声で俺に助けを求めるが知らん振りだ。奴等はまだ知らない。夜中にそっと入りにくればその椅子は使い放題だと言う事を。
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