87・清流

 眼下に見下ろす早瀬の景色を眺めながら一息吐く。盆地は大分暑くなって来たが、ここまで上がって来ると涼しいを通り越してやや肌寒い程だ。返坂関までは後少し、

「さぁ、もう一踏ん張りだ。」

俺は皆にそう声を掛けると坂道を再び登り始めた。

 後ろに続くのは俺と目的地を共にする仁淳と、湊へ向かう祥智と吉兵衛以下の北敷の男四人(あの後、残りの二人も見事に宗太郎に捻られたので吉兵衛以外は表情が死んでいる。)。そして、今回は佐吉と幸の夫婦を湊見物も兼ねて連れて行く。

 佐吉夫婦はその炭焼きの仕事内容から夜の番も必要であり、昼夜を問わず過大な負担が掛かっている。その為、炭の需要が低いこの時期に休みを与える事にしたのだ。

 まぁ、休みの内容が十日近く歩き続けて湊へ行くなのは如何かとも思うのだが、二人共殊の外喜んでくれたのできっと良かったのだろう。


「鷹山殿、久しいな。」

「暫く御挨拶にも伺えずに申し訳御座いませぬ。」

「何、弟御から忙しくしていると言うのは聞いている。お気になさるな。」

関ではお馴染みの才田弘兼殿と挨拶を交わす。

「今回は炭に加えて、少ないですが土産に海の魚も持って参りましたぞ。」

「何と、それは嬉しい。海の魚は代田でも中々手に入らぬのだ。こんな山の上では言わずもがなでな。」

そんな話しをしながら砦の中に通される。今宵はここで一晩宿を借りる。


「沓前は変わり有りませんか?」

夕餉の席でそう尋ねる。

「うん、有り難い事にな。だが、沓中の方は大分きな臭いらしい。対立が再び激しくなって来ている様だ。」

「やはり、猪俣様は介入される御積りは御座いませんので?」

「うむ、した所で得る物が無い。結果として沓中で多少の土地を得た所で土地の者の反発を招くだけだろうしな…」

「それは、まぁ…」

才田殿の顔は苦い。

 守護を飾りに追い遣り、守護代猪俣家がしっかりと国内を固めている沓前国に対し、東隣の沓中国は守護と守護代の対立に禅宗の古刹と新興の宗派がそれぞれに肩入れした結果、長年の対立が続いている。更にそれに嫌気の差した南部の国人衆が近年、南隣の明科国からの支援を受けて第三勢力として両者から距離を取る動きを見せているのだ。結果、三者の対立で国内は常に内乱状態と言って良い。

 そして、その対立はしばしば近隣の国々にまで波及し、沓前国も国境での争いに巻き込まれる事が珍しくなかった。それに対して猪俣家は国境を固め、侵入させない介入しないと言う方針を長年貫いて来た。

 その結果、近隣の脅威を背景に国内を一つに纏めることに成功し、国内の安定が維持された。更には、沓の国一帯で最大の湊である沓中国の比良上湊が荒廃した結果、曽杜湊がその地位を得るに到っているのだ。勿論、言い換えればそれは、常に隣に脅威を抱えているとも言えるのだが。


 山中から流れ出る小さく澄んだ流れを遡る。

「おぉ、これは見事な。」

後ろを続く仁淳がそう感嘆の声を上げる。

 底石に生える苔の流れに揺れる動きまで余さず見通せる程澄んだ水の中、鮮やかな緑の色を広げているのは山葵の群落だ。

 ここは代田盆地の北西の山間に位置する才田郷。その名が示す通り、才田殿の領地だ。今回ここへやって来たのは、以前より計画していた竜神池での山葵の生産の為に、才田郷の名産である清流で育つ山葵の株を幾らか分けて貰う為だ。

 本来であれば競争相手を増やす様な事は認められぬであろうが、今回は運が良かった。曽杜湊の地位が向上した事に因って単純に需要が増大したのだ。結果、才田殿自体が商人連中に増産を責っ付かれている背景があったらしい。

 しかし、そこは自然の物。山葵は野草と同じく山の恵であり、まだ育てて増やすなんて考えも手法も無い世の中。どうしようもなかった所に俺の提案が転がり込んで来たと言う事なのだ。


「底は砂?いや、細かい砂利か?」

「山葵は深山幽谷の日が余り差さぬ砂地に良く育つと聞きますな。」

俺が周りの環境を見て、そう尋ねると仁淳がそう答える。

「竜神池の底には砂地の部分があったかな?」

「殆ど砂地に御座います。湧水の周辺と池から小川が流れ出る辺りに植え付けてみようかと。」

既に植える場所の目算も付けてある様だ。あの池が覆われる位山葵が増えたらどの位儲かるだろうか。いや、一気に供給過多に陥って値崩れするかな?

 兎も角、それは育ってからの話だ。しかし、相も変わらず種を蒔くばかりの日々。収穫に至るのは一体いつになる事だろうか…


「祥治殿、重いです。」

「文句を言うな。俺だって持っているだろう。」

何が重いかと言えば山葵だ。正確には山葵を入れた桶に張った水だ。

 才田郷で株分けして貰った山葵は、なるべく生育環境に近い状態で運ぼうと、桶に張った水に浮かべ、それを天秤棒で前後に担ぐと言う方法で運ぶ事になった。個人的には濡らした布で根を包めば良い気もしたのだが、普通の植物でもやるやり方では水が足りないかもしれないと危惧する仁淳がこの方法を主張したので採用したのだ。そして水も冷たい方が良いと言うのであちこちの沢で入れ替えながら進む事にした。

 結果は返坂峠の登りに掛かると仁淳が重いと不満を漏らし始め、その後は少し進んではこの調子なのである。だが、この坂を上れば我等の飯富村。鬱陶しい仁淳の愚痴ともおさらばだ。


「御苦労さんでしたな。」

門で見張りの菊婆の出迎えを受けると、そのまま道を進む。

「仁淳、お主はこのまま植え付けに行け。」

「何ですって!?祥治殿は相手を思い遣る心すらお持ちで無いのか!?」

「何を言っている。時間が立てば山葵が弱るかもしれんぞ。って、あ゛?」

見事なお前が言うなの発言をする仁淳にそう言い返していると…

「随分と白くなりましたな…」

俺の視線を追った仁淳が的確にそう表現した。

 村を出た四日前は確かに三和土のブロックを積み上げた壁だったはずである。そう、長屋の外壁だ。それがどうだ。今ではブロックの継ぎ目すら見当たらない真っ白な壁に変わっているではないか…ここから見えるのは手前の側面だけだが、他の面はどうなっているんだ?いや、大体何が起こったかは予想が着く。着くのだが…

「あ、大将!お帰りなさい。」

長屋に近付くと、物音に気付いたのか反対の側面の影から千次郎が顔を出す。

「どうです?左官はあんまり得意じゃないんですけど中々な見栄えだと思いませんか?」

俺の返事を聞く間も無く、そう語り出す千次郎。


 話は五日前。つまり、吉兵衛が三人を連れてやって来た日に遡る。四人は海鼠と鮑の他に、以前から頼んでいた布苔が運ばれて来たのだ。布苔を使って何をしようと思ったかと言えば、石灰と混ぜて漆喰を作ろうと思っていたからだ。そして目の前の壁は明らかに漆喰で覆われているのだ。

「成程、中々の出来栄えだ…」

「そうでしょう!?漆喰の左官なんて餓鬼の頃にちょろっと…」

俺がそう答えると我が意を得たりとばかりにそう語り始める千次郎。

「お前、石灰は土塁の強化に使うから溜めとけって言っただろう!」

山間に俺の怒鳴り声が響くのだった。

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