81・微風
※※※平林佳孝※※※
「親父!」
自室に長男の澄孝が駆け込んで来る。
「何だ、騒々しい。」
齢二十も大分越えたと言うのに、いつまでも落ち着きの見られない息子の姿に溜息を吐きながら聞き返す。
「梶原党が負けたらしい。弟達も親父に直ぐに来て欲しいと言っている!」
「何っ!?」
しかし、息子が続けて語った思いもよらぬ内容に思わず腰が浮き、脇息が大きな音を立てて倒れた。
「何処へ行くのだ!?」
「東の畑だ!奴等は東の森に沿って引き上げているんだ!」
館を飛び出すと、儂を急かしながら思わぬ方に向かって走る息子の後に続きながら息を切らせてそう聞く。
成程、午前に村の目の前を通る北敷道を揚々と通って行ったにも関わらず、こそこそと隠れる様にそんな所を通って帰る所から、息子達は負けたと見たのか。
しかし、儂ももう若くないな。前を走る息子の答えを聞きながら、息を切らせる己の体にふとそんな場違いな事を思う。
家々の間を抜け、畑の端に出ると次男の康孝、三男の実孝と何人かの領民が遠くを眺めている。
「親父!」
「何処だ?」
「あそこだ。」
こちらに気が付いた実孝に聞くと、右手前方を指差す。そこには確かに遠ざかり行く人の列が見えた。
「数がそう減っている様には見えぬが…」
「かなりの人数が怪我をしていた様子だった。それに康の兄上が荷を運んでおらぬと。」
「それに人を捕った様子も無かった。」
儂の疑問に実孝がそう答えると時孝がそう言い添える。
「成程。だが、追い返しただけなら負けとまでは言えぬのではないか?精々、勝てなかったとか引き分けたとか。」
「確かにそうだが、ここ何年も我等はそれすら…」
儂がそう指摘すると時孝は悔しそうにそう溢す。
「そうか…そうよな…飯富か、あそこは守るには適しておる故な。」
悔しそうな息子の声を聞いて儂はそう言ってやるのが精一杯だった。
何かが動き始めたのかもしれん…己の中に久しく感じる事の無かった感情が微かに動き始めた様な気がする。
※※※※※※
※※※梶原克時※※※
「ちっ、見ていやがる…」
態々目立たぬ様に森の側を通っていると言うのに平林の連中め、畑の脇まで出て来てこちらを伺っていやがる。
まぁ、あれだけ堂々と村の中を通って行ったんだ。帰りが気になるのは当然か…前を足取り重く行く正次に目を遣りながらそう思う。
帰ったらアイツを血祭りに挙げて、馬鹿共に俺の恐ろしさをもう一度思い知らさせてやる。いや、一人では足りないな。アイツの周りに居た奴をもう何人か殺そう。なるべく苦しませてからだ。楽には死なせん。だが、数が減り過ぎるのも問題だな…
それから、平林の連中にも思い出させる必要がありそうだ。だが、怪我人も多い。話が広がる前に黙らせるのは難しいか?
そう言えば正次は何処の村の出だったか。その村に責任を取らせるのも悪くない。奴は二親が死に村に居場所が無くなったとか言っていたか?つまり、正次を確と躾けなかった村の奴等が悪いのだ。それについて責任を負う義務がある。楽しませてくれよう。
そうだ、ついでに減った人手も補充するか。各村から何人か出させよう。正次の村への仕打ちを見て、尚ごねる様なら、そいつ等も分からせる。悪くないな。それなら弓の達者な者を要求しよう。さすれば今回の痛手を補って尚余りある。うん、悪くない。
先の秋以来、糞みたいな事ばかりだったが漸く楽しみが見えてきた。あの崖の上の連中と次こそは命掛けの戦が出来よう。まずは、高所からの攻撃を防ぐ術が必要だ。道はあの一本切りなのか?調べる必要があるな。
だが、あそこは常に見張りを立てている様子。見張りの目を盗んでやるには、こちらも相応に使える者を出す必要がある。しかし、使える者を返り討ちにされるのは上手くない…どうするか。久々に楽しくなって来た…
※※※※※※
※※※弥彦※※※
「お、こいつは…」
大将から猛様と智様、更に和尚様と共に後片付けを命じられ、崖下に下りた。
何もこの三人にお命じにならなくてもと思うのだが、大将は田の整備が最優先だからと皆を連れて行ってしまった。しかも、猛様と智様のお二人なら賊の持ち物の判断が容易だし、和尚様にはそのままお経を上げて頂けるから楽で良いなんて言ってだ。
そんな事で倒した賊の一人に近付くと、隣には見た事も無い様な立派な弓が転がっていた。黒漆の塗りが美しい大弓だ。
「どうした?お、こいつは中々…智の兄者、ちょっと来てくれ!」
俺の声を聞きつけてすぐ傍に居た猛様が俺の手元を覗き込んでそう叫ぶ。
和尚様と川下の方を片付けに行かれていた智様が軽い駆け足で戻って来られた。
「見てくれ。これは中々だぞ。」
「ほう、確かに。これはどこかの家から奪われたのだろうなぁ。小さな家だったら家宝にする様な代物だぞ。」
智様も俺の手元を除いてそんな事を言う。
そんなに良い物なのか。確かに見た事も無い様な見栄えで、握りに巻かれた糸も上等に見える。大将達三人も弓を持っているが、もっと地味で飾り気の無い物だ。特に猛様の物は日常的に狩りに持ち出しているし、俺の短弓と違って大弓なので森の中で彼方此方に引っ掛け易く傷だらけだ。猛様の新しい弓に良いかもしれない。
「弥彦、ちょっと引いてみろよ。」
そんな事を思っていると、猛様が思いがけずそんな事を言う。
「俺がですか?」
「そうそう、中々こんな良い物に触る機会は無いぞ。」
吃驚してそう聞き返すと猛様はニヤニヤしながらそう言われた。
「じゃ、じゃあ、失礼して…」
そう断って弓を構えた。
何度か、智様や大将の大弓を引かせて貰った事はあるが大きさの違いもあるのか今一しっくり来なかった。猛様の弓に至っては重くて満足に引けなかった。四苦八苦する俺を見て大将と智様は猛様のは引けないのが普通だと笑っていたっけ。そんな事を思い出しながら弦を引く。
「「ほう…」」
二人がそう声を漏らす。自分でも驚く程自然に弦が引けた。
「それは弥彦が使うと良い。兄者に許しを貰いに行こう。」
「そうだな。弓も喜びそうだ。」
二人はそう言うと片付けを放り出して坂を登って行く。
「まだ片付けの途中ですけど?」
慌てて俺がそう言うが、
「いいから早く来い!」
え?和尚様は?片付けを押し付けて行く気なのか?俺が泡を食っていると、
「早く終わらせて戻って来てから手伝いなさい。」
苦笑した和尚様が遣って来てそう仰る。
「いや、こんな立派な物使えませんって!」
「普段は飾っておけば良いさ。それに弥彦がその立派な弓を持っていれば敵は皆弥彦を狙うだろうから、俺達は楽に矢が射れるな。」
「それは確かに。尚更、早く兄者の所へ行かねば。」
慌てて後を追いながらそう訴えるが、二人はそんなとんでもなく物騒な事を言いながらどんどん登って行ってしまう。
「ちょっと、困りますって!」
崖下に俺の悲鳴と二人の笑い声が響いていた。
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