70・吉と出るか…
「来ねぇのかよ!」
門の前から祥猛と二人、早瀬盆地を眺めながら俺はそう叫ぶ。
朝晩の冷え込みが一段と厳しくなり、長屋の有り難味と苦労して立てた甲斐を皆が噛み締め始めた頃(尤も、長屋に囲炉裏を切った影響で寝られる面積が減った結果、我等兄弟は和尚と共にお堂の庫裏に弾き出される事になったのだが…)。空からは遂に白い雪が舞い始めた。低く垂れ込める暗い雲の下、早瀬盆地には生きる者等無いとばかりに茶色の大地が静かに広がっている。
何が来ないのか…襲撃である。いや、来て欲しい訳では決してない。話に聞く規模が正しいのであれば来られると困る。困るのだが、あれだけの挨拶をかましておいて結局何も無いと言うのは中々納得のいかないものがある。いつ来るかいつ来るかと作業の監督をしながら毎日気が気でなかったのだ。それは作業をしていた皆も同じであろう。
しかし、雪が舞った以上、今年の襲撃はほぼ無いと考えて良いだろう。早瀬では冬季の戦は困難だ。勿論もう暫くは、根雪が積もるまでは警戒が必要だろうが恐らく無い。行軍の途中で大雪に降られると進退窮まる可能性だって低くないのだ。向こうの頭を見る限りその辺の判断は出来る男だろうと思われる。
===梶原克時===
「ちっ、降って来やがった…」
やけに寒いと思って外に出てみりゃ雪がちらついていやがる。これであの村の連中で楽しむのは春に持ち越しになっちまった。
東の森の連中の生き残りを嗾けた後、俺はすぐにでもあの村を襲撃する気だった。だが、思わぬ所から邪魔が入る。手下共がこぞって反対したのだ。それも多くの者は面倒がっての事だ。
現状、この早瀬の地で一番の戦力を持っているのは俺達だ。勿論、村々が手を組めば簡単に戦力は引っ繰り返るが、現在の早瀬を仕切っている遠濱から来た連中には手を出さない様にしているから、奴等が音頭を取る事は無い。そして、元々ここいらに住んで居る奴等に村々を纏めて俺達に立ち向かえる気概の有る奴も居ない。
その結果、村の連中は俺達に食い物や娘を上納する事で目溢しを求める様になった。俺も戦い甲斐の無くなった連中と戦をする気が起きずにそれを受け入れた。だが、それは失敗だったかもしれない。何故なら、手下共は戦を嫌がる様になっちまった。
「どいつもこいつも食い詰め者だったんです。それをお頭のお陰で食える様になった。それなのに戦に行く気にゃならんのでしょう。それに今はここの蔵も一杯でさぁ。これ以上の食い物を分捕って来たって置き場がありゃしませんぜお頭。なに、春になって減った蔵の中身を補充しに行くって言やあ、連中だって嫌とは言いませんぜ。」
副頭領の重昌にそう言われては俺も引き下がるしかなかった。
確かに蔵は一杯だし、無理を言って手下にそっぽ向かれても困る。俺だって一人でこの家業が続けられるとは思っていない。一冬越えて奴等の食いでが増すかもしれないと考えてここは一度溜飲を下げるしかない。
俺は改めてそう自分を納得させて酒と女の待つ部屋の中に戻る。一冬待つ事が吉と出るか凶と出るか…楽しみにしておくとするか。
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「来ないならそれが一番じゃないか。」
そんな俺の不満を横で聞く祥猛が呆れた様に言う。
「それはそうだけどさ…分かってるよ。」
俺は少し不貞腐れてそう言い返す。
「それよりあれじゃないか?」
俺のそんな様子を気にする事もなく祥猛が左手の谷筋を顎でしゃくる。
それに釣られて視線を東へ移すと、返坂峠からの下り道を下って来る人影が遠く認められる。
「やれやれ、無事に帰って来たか。」
まだ、祥智達だと決まった訳ではないが俺はそう安堵の声を漏らす。
「一人多いな。」
人影を認めてから暫くして、祥猛がそんな声を上げる。俺にはまだ数人と言う事しか見分けられないが遠目の利く祥猛には判別が付く様だ。
「おいっ!あいつはまさか!兄者、選りにも選ってあの野郎を呼んだのか!?」
そして更に四人が近付いて、俺にも人影が大分はっきり見える頃になると祥猛にはそれぞれの見分けが付いたのだろう。一人増えた人影を見てそう叫んだ。
「ははは、吉と出るか凶と出るかだな。」
俺は笑いながらそう答える。
「笑い事じゃないぞ兄者!俺があの野郎にどんな目に合わされたのか忘れたってのか!?」
雪の舞う空に祥猛の悲痛な叫びが響き渡り、それが届いたのか谷間を進む人影がこちらに顔を向ける。
もう間違い無い、俺にも見分けが付いた。祥智達だ。大きく手を振っているのは小枝だ。収穫は有っただろうか。さてさて、本格的な冬の訪れと共に新たな風が飯富村にも吹いて来た。
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