48・田植え

 空の高さがすっかり低くなり、眼下に見える早瀬盆地に掛かった春霞で遠くに見える空と山の境目はぼんやりと霞んで見える。

 春も盆地から飯富の崖の上まで登って来て、山に咲く桜の花が散る頃。川を流れる水はまだまだ冷たく感じられるが、田植えを行う事になった。

 源泉の熱を浴びせた稲の苗がすっかりと育ってしまったのだ。とは言っても、これでも例年行われて来た直播の播種の時期と変わらぬ時期なのでなんとか育って欲しい所である。

 代掻き等せずとも、水を流し込めばいとも容易く元の泥田に早変わりするのが飯富の田だ。来年までには何とか改良したい所だが果たして…


 そんな田に泥濘み過ぎぬ程度に水を引き、そこに虚ろ覚えで作らせた、昔テレビで見た田に苗を綺麗に植える目印となる線を引く幅広の鍬の様な熊手の様な物で線を引いて行く。名前が無いと不便なので田植え鍬と呼ぶ事にした。

「おい、線が曲がっているぞ。」

「そんなにゆっくりじゃ日が暮れるぞ。」

田の泥濘に足を取られながら田植え鍬を曳く二人にそんな野次が飛ぶ。

 存外真っ直ぐ線を引くのが難しいこの道具を、そもそも歩く様な場所でない泥の深い田で曳くこの作業を競争にして楽しんでしまおうと考えたのだ。速さの割りに線がガタガタな者、線は真っ直ぐだが進みの遅い者、各々の性格も垣間見れる場面だ。

 田植え鍬はまだ二本しかないので一往復したら交代だ。女衆も含めて一人数往復すれば全ての田に線が引き終わってしまう。飯富の田はそれ位の広さしかない。

 それに形も歪なので隅のほうは線が引けない。そこいらは周りの様子を見ながら凡そで植える事になるだろう。


 昼過ぎには線を引き終わり田植えに移る。今日ばかりは村人総出で作業を行う。まるで滅多に無い事の様だが、良く考えればつい先日釣り大会で全員揃ったばかりだった。

「こんなにスカスカで良いんですか?」

初めての正条植えにあちこちからそんな不安の声が上がる。確かに今までの密集した作付けに慣れた目から見れば不安になるのも分からなくはない。

「大丈夫だ。大根や葱だってこの位の間を空けるだろう?それと同じ事だ。それに芽が出た後に間引いて間を空ける野菜だって多くある。」

そう身近な作物の事を引き合いに出しても不安そうな顔はそう簡単には変わらない。これは秋になって結果を見なければ変える事は難しいだろう。


「ぴぎゃっ!」

そんな悲鳴と共に寛太が顔から泥田に突っ込む。全身泥まみれの彼を見て笑い声が上がるが、我等はこの間までの我等ではない。

 そう、今の我等には風呂が有るのだ。仕事終わりに皆で有り余る湯で体を洗う事が出来る。

「良し、今日はこの位にしよう。明日も朝からやれば川向こうまで全て終わらせる事が出来るだろう。」

俺はそう声を掛け一日目の田植えを切り上げる。


 二日目の田植えは川を渡った西側を中心に行う。昨日やった東側は塩水選を行った種籾から育てた苗を。西側では特に選抜を行わなかった物を植える。

「確かにこっちの苗は昨日のに比べて育ちが悪い物もちらほら有りますね。」

稲を見た者からそんな感想が上がる。

 確かに昨日使った苗は全体的に高さが揃っていたが、今日植える分はちらほら背の低い物が混じっている。

 成程、塩水選と言うのはこの時点で違いが分かる程有効な様だ。自分でやらせておきながらも初めて見る途中経過にそんな感想が出るが心の内に仕舞っておく。

 昼過ぎまで掛かって田植えは終わる。村人総出とは言え、二日で田植えが終わってしまうのは食料生産の面からみて何とも厳しい。夏には必ず水路造りを始める、そう心に誓った。


 風呂で泥と疲れを落とし、お堂へ上る坂道の途中から田植えの終わった田を眺める。ここから眺めれば前世で見た田植え直後の田と同様に、苗が列を成して一列に並んでいる。

 田が歪だが、地形的な制約を考えれば杓子定規に四角く整形するよりも面積が広く取れるだろうな。そんな事を思いながら開墾の骨子を考える。

 機械化する訳でもなし、もっと広い土地を治め、年貢の徴収を効率的に行うとなれば話は別だろうが、ここは悲しいかな、山にへばり付いた狭い土地。そんな見栄えよりも実利が優先だ。

「大将、飯ですよ!」

物思いに耽っていると上から呼ばれる。

「すぐ行く!」

俺はそう答えると、少ない仲間の待つお堂への坂道を再び登り始めた。次は粟と蕎麦の作付けが待っている。

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