40・早々

「ひゃあ!冷てぇ!!」

足を滑らせ川の水に足首まで浸かった茂平が堪らず叫び声を上げる。

「茂平、早くも落ちたのか。」


 日当たりの良い場所では雪も融けて地面が顔を出し始めた頃。それでも雪解けの水を多く含んだ川の水は身を切る様な冷たさだし、それが夜明けから左程も経っていない朝一番ともなれば叫びたくもなるだろう。

 春の田植えに向けてまず最初に始めたのは、田への水の流れを制御する事だった。田植えまでの短い期間にやる事が山積みな上、人手不足の為、茂平と千次郎の工作班も問答無用で借り出している。

 工作班は冬場にも作業を続けていたので少し余裕が有るのだ。逆に佐吉と八郎の輸送班は冬場の遅れを取り戻すべく毎日石切場へ向かっている。


 現在の飯富村の田は所謂深田で、自然堤防の切れ目から常に水が流れ込んでいる。要するにほとんど沼なのである。このままでは施肥をしても土に十充分行き渡る前に肥し自体が流れて行ってしまいかねないし、何より作業性が絶望的に悪い。

 そこで、切れ目の両側の自然堤防に少し土を盛って強化した上で、切れ目の両端に堰を作った時に使用した板状の三和土を縦に打ち込み簡易な水門を拵える事にした。

 作業自体はそう難しい物ではないし、秋の終わりからやっていた堰造りの経験も手伝って作業はかなり順調に進んでおり、今やっているのが三箇所目であった。作業をする男衆も自分達の作業の進みを見て、それなりの手応えを感じている様子だ。

 恐らく十反程と見積もられている村の田への水の流入口は全部で四箇所であるから後もう数日で全ての水門が完成するだろうと考えて居たその時、


"カーン…カーン…カーン"


と、村の入口の方から鐘の音が聞こえて来た。

 見張りに付いている菊婆が叩いているであろうそれは、ゆっくりとした拍子で鳴っている事から異常は有るが緊急では無いと言う意味だ。

 だが、あの鐘が鳴らされるのは俺があの場所に警報として鐘を設置してから初めての事だ。

 皆がハッとした様に入口の方を見る。

「智、宗太郎、付いて来い!様子が分かったらすぐに知らせる故、皆は取り敢えず作業を続けてくれ。」

そう言い置くと東へ駆け出す。

 田のある西の川の畔から、入口の門がある東の川の手前までは距離にして数丁、全力で走れば息が上がる前に着いてしまう。途中、丘の上からは柳泉が駆け下りてくるのが見えた。


「菊婆、何が有った!?」

門に着くなりそう聞くと、

「煙ですわ。」

菊婆がそう言いながら西を指差す。

 その先には確かに黒い煙が一筋立ち昇っている。喫飯のそれとは明らかに違う太い煙が立ち昇る場所は方角から見て恐らく早瀬七庄の内、一番近くに位置する平林だろう。

「火事か襲撃か…」

俺がそう口走ると、

「一本だからな。」

祥智がそう付け加える。

「うん、難しい所だな…」

どうするか、今の所差し迫った脅威とは思えないがあれが賊の襲撃に因る物かどうかだ。


「な、何事ですかな!?」

そこへ息を切らせて柳泉が駆け付けて来た。

「御坊、平林から煙が上がっております。今の所、火事か襲撃か分かりませぬが、差し当たり襲撃として対応致しましょう。」

俺がそう言うと、

「わ、分かりました。しかし、こんなに春も早々に…どの様に致しましょう。」

襲撃と聞いて引き攣った表情を浮かべながらそう聞いて来る。

「御坊は鐘を持ってお堂へ戻って下され。女衆に戦の支度を、子供達はお堂から動かぬ様命じたら、裏山に向かって鐘を鳴らして下され。緊急の方で頼みます。その後はお堂で取り次ぎを願います。」

「わ、分かりました。」

そう言うと柳泉は鐘を下ろしに行く。

「兄者、まだ判断するのは早いのでは?」

その様子を見ながら祥智が少し不満気にそう聞いて来る。

「何も無かったら、それで良い。むしろ実際の襲撃の前に皆に戦の準備の経験をさせる事が出来るからな。それより祥猛と弥彦を一刻も早く戻したい。あの二人が居ると居らぬでは話が全然違って来るからな。」

何もなければ避難訓練だと思えば良いのだ。

「そうか、そうだな。あの二人が居ないのは拙いか。」

祥智も納得した様だ。


「祥智、お堂で皆の戦支度を監督してくれ。」

「全部出して良いんですね?」

続いて祥智にそう指示を出すと、そんな事を聞いて来た。

「出し惜しみする程、量も質もありゃしないさ。」

「そりゃそうだけど、矢も中々補充が効かないんだ。慎重にもなりますよ。」

「確かにそうだが、それは生き残ってからの悩みだ。とにかく、割り当てた武器の取り合いになんてならんようにしっかり見張ってくれ。」

冬の間に合間合間に行った調練の内容から各々に持たせる装備は割り振ってあるが、極限状態だと出来るだけ良い物で身を守りたいと考えるのも人の性だ。

「分かりました。兄者の武具はどうします?こちらに運びますか?」

「いや、まだ時は有ろう。お前達の用意が終わってから上で支度しよう。子供等にも声をかけてやりたい。」

「では、急ぎます。」

そう言って祥智はお堂へ駆けて行った。


「菊婆、子供達を頼む。特に寛太を取っ捕まえてお堂に放り込んでくれ。」

次は菊婆だ。と言っても戦で御婆に頼める事は少ない。

「ひょひょひょ、確かに寛太の奴はそのまま飛び出して行きかねませんな。」

「左様、祥猛が何か言っても俺の厳命だと撥ね付けて下され。それからもしもの時は決めた通りに。」

考えたくは無いが負けた時の対応も皆に伝えてはある。

「そうならぬ事を願っておりますよ。」

少し達観した様に菊婆がそう答える。

「それは俺も一緒だ、頼むぞ。」

「はいはい。」

そう言うと菊婆は気負う様子も無くお堂の方に歩いて行った。

 門の前に一人残された俺は遠くに棚引く煙を一瞥した後、坂に設置した柵の様子を確認すべく門を潜って村の外に出た。

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