37・糠雨

 暗く垂れ込めた雲から降る季節外れの糠雨が膝に近くなった深さの雪の大地を濡らしていく。明日には解けた表面が再び凍り付きガチガチに固まるだろう。

 雨はそんな中で立ち尽くす俺も外套をそして全身を濡らして行く。目の前には雪が退けられた地面と、そこに盛り上がる小さな土の小山。そこから目を逸らす事も出来ず俺はここにずっと立ち尽くしている。


 余りに急な事だった。三日前に急に高熱を出した稲はあっという間に逝ってしまった。手を施す等と考える暇も無く、本当にあっという間だった。

 前世の発達した医療でも乳幼児の突然死は一定数存在した事を知っているし、この時代の乳幼児の死亡率はそれの比では無い事は身を以って知っているはずだった。現に山之井に居た頃にも幼くして亡くなった子供は何人も居たし、旅の道中で行き会った事も一度や二度では無い。

 でも、何でこの子なのだろうか…他の子なら等とは決して思わない。思わないが、なんで稲がと言う思いばかりがグルグルと回り続ける。子を喪った親は皆こんな思いをしているのだろう。一度は枯れたと思っていた涙が再び頬を濡らす。


「兄者、皆もすっかり濡れている。もう戻ろう。」

祥智がそう声を掛けて来る。

「皆は戻ってくれて良い。」

「大将がそこでそうしていては、皆も戻るに戻れんのだ、兄者。」

そう答える俺に、祥智はにべも無くそう言い返す。腫れた目で振り返ると悲しみと不安に顔を曇らせた村の者達が並んでいる。

「それに兄者がそう泣いては利吉と美代が泣くに泣けんぞ。」

そこへ横から祥猛に苦笑しながらそう言われる。見ると、皆の中央で利吉と美代は悄然と項垂れている。

「そうか、そうだな…皆、すまない。戻ろう。」

そう言うと後ろ髪を引かれながらお堂へ戻る。その間、美代は何度も後ろを振り返っていた。


 お堂に戻ると火鉢と囲炉裏の炭を増やす。皆、濡鼠で冷え切っているからだ。

 当たり前だが結局の所、お堂で冬を過ごすには寺に一つしかなかった火鉢では全く足りなかった。それでも、今までに比べれば大分温かいと言って笑う皆の言葉には返す言葉を持たなかったのだが…

 そこで、佐吉に炭焼き窯の端で焼いて貰った素焼きの大きな鉢を火鉢の代わりとして加え、更に中央には囲炉裏を切った。

 誰も着替え等持ってはいないので濡れた着物を脱いで火に当り、白湯を飲んでなんとか暖を摂る。


 着物も粗方乾いて来た頃、利吉と美代が俺の所にやって来た。

「大将達が来てくれてから稲はずっと楽しそうにしていました。お米のご飯だって、綺麗な石を拾ったって、お餅だって。大将が来てからあの子は幸せそうでした。だから、」

目を赤くした美代がそう言う。それを聞いて感情が決壊する。

「そんな事は特別でも何でも無いのだ!そんな事が幸せだったなんて言わなくてはならぬのが間違っているのだ!あの子はもっと楽しい思いを沢山出来るはずだったのに…なんで…」

思わず大声を出し、そこからは言葉にならなかった。嗚咽を漏らす俺に対して皆は言葉を掛ける事も出来ない。村を預かる立場としてこんな事ではいけないのは分かっている。

「俺はこんな事で幸せを感じて貰う為にここに残ったのではない…」

そう声を絞り出す。

「それをこれから産まれて来る子供達にあの子の分まで見せてあげて下さい…」

俺と同じ様に搾り出す様にそう言葉を返したのは利吉だった。そのまま美代も含めて三人、また嗚咽を漏らす。

 そこにトテトテと近寄って来た糸が俺の膝にちょこんと乗る。そしてその小さな手を精一杯伸ばして俺の頭を撫でる。引っ込み事案でいつも稲の後ろに隠れる様にくっついていた糸の行動に両親の弥彦と月も驚いている。

「そうだな、糸の様に俺も頑張らねばいかんな。ありがとうな、糸。」

そう言って糸を抱きしめ頭を撫でる。糸はニッコリ笑って立ち上がると利吉の、そして美代の頭を順に撫でて回った。


 あれから一月程経った。稲を惜しむかの様に糠雨はあの晩から再び雪に変わって降り続いた。降り止んだ頃には積雪は膝の高さを越え、表での作業は困難になった。今は男は斜面の下側の細めの木を切り炭焼き窯まで運び、女子供はお堂でU字溝を作っている。

 当初選択肢に挙がっていた石灰石の運搬は積雪によって不可能だった。狭間を越えた先は北の山を回り込んで来る北風が吹くのか徐々に積雪量が増え、途中で腰の深さまで雪が達していた。今までは冬に何もない西側に行こうと言う人間は居なかったので村の者も西側の積雪量を把握していなかった様だ。

 珍しく晴れた空を見上げる。どこまでも高く青く澄み切っている。しかし、皆の心の内はまだまだ曇ったままだ。俺も悲しみの雲が晴れない中、雪で何も進まない現状に焦りを覚えるばかりだが、焦る事しか出来ないでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る