閑話・紅葉丸、海へ行く

’ザザーン……ザザーン……’

「おぉ…」

思わず声が漏れる…目の前に広がる海。これ全部水なんだ…その一部が連なって盛り上がり近付いて来ては音を立てて崩れる。きっとこれが波ってやつだ。海の中には島って言う小さな陸地が沢山浮かんでる。その遥か向こうにはまた陸地が見える。あれが余島かな?あれ?余島も島なの?目の前にある島とは全然大きさ違うけど。不思議に思って兄上を見る。分からない事があったらすぐに聞けって言われてるし。兄上は霧丸と松吉の向こうに居た。二人は目を丸くして驚いているけれど兄上はなんだか嬉しそうだ。驚いている様子じゃない。

「兄上、驚かないのですか?」

気になってそちらを聞いてしまった。

「ん?驚いているが、なんでだ?」

「えっと…嬉しそうだったから…」

「そ、そうかな、確かにずっと来てみたかったから嬉しいのは間違いないが。」

「確かに若は楽しみな時は分かりやすいからな。」

「なんだと?お前だってこの間新しい木刀を待っている間ニッコニコだったじゃないか。」

「そりゃあ楽しみだったからな。」

兄上と松吉がいつものように言い争いを始める。ここは向こうに余島が見えるけれど余島の向こうは空の下までずーっと海だって兄上も和尚様も行ってた。


 十歳になった兄上が前々から父上に頼んでいた海に行く事を認められた時、どうしても一緒に連れて行って貰いたかった。兄上は南の尾根から海を見る度に普段はしない顔をするのだ。羨ましそうな、寂しそうな、それでいて嬉しそうな不思議な顔だ。だから兄上にそんな顔をさせる海を俺もどうして見てみたかった。勿論駄目だって言われたけど駄々を捏ねて捏ねて捏ね続けて漸く認めて貰った。兄上は最初から反対しなかった。父上は割りと早めに諦めたみたいだけど、母上は絶対に認めてくれなかった。最後はご飯も食べずに駄々を捏ねてようやく認めてもらったのだ。

 連れてきて貰って良かった。目の前の海を見て本当にそう思う。途中で泊まった田代の街も大きかったし市の賑わいも凄かった。でも奥津の湊はもっと大きい。人の数も凄い、山之井のお祭りの時よりもっと多い。田代での月に一度の市の日と比べても全然多いんだからとんでもないんだと思う。兄上は海じゃなくて湊を見たかったのかなぁ?


「そうだ、海の水は舐めてみないとな。」

兄上が唐突にそう言う。

「そうだった、本当にしょっぱいか確かめないとな。」

松吉も楽しそうにそう答える。

 砂の上を歩いて海のすぐ傍まで近寄る。でも波のせいで行ったり来たりする水をどうやって舐めるんだろう。砂を舐めちゃいそうなんだけど…そう思っていると松吉が砂に膝を着いて頭を下げた。波が来るのを見計らって舐める気だ。

「お前、何してんだ?」

「え?」

霧丸が不審そうな顔で松吉に聞いている。兄上は笑わないように我慢している感じだ。

「まさか、直接舐める気なのか!?」

霧丸が驚いた様子で聞く。

「そ、そうだよ。他にどうするんだよ?」

狼狽えた様子で松吉が答える横で兄上が寄せて来た水に指先をちょっと浸けて、その指先を舐めた。

「あ゛…」

松吉が絶望した様な顔をしている。

「アハハハハ。」

兄上は大笑いをし、霧丸は溜息を吐いている。危なかった…俺もやるところだった。気を取り直して指を海の水に浸けて舐める。

「しょっぱい!」

思っていたのより全然しょっぱかった。なんで?

「兄上、どうして海の水はしょっぱいのです?」

前にも和尚様に聞いたけれど分からないと言われた。兄上なら知っているかな?

「さてなぁ…それはどうして風が吹くのかとか、どうして雨が降るのかのような疑問と一緒で誰にも分からんのじゃないかなぁ。」

やっぱり兄上にも分からないらしい。不思議だなぁ…言われてみれば確かにどうして雨が降るのかも分からないな。


 海を見た後は湊を見物する。海に行く時に通ったけどやっぱり凄い賑わいだな。迷子にならない様に兄上の手をしっかりと握る。嶺みたいになると嫌だからな。怖いから絶対に本人には言わないけど…

 魚が沢山売られている。色も形も少しずつ違うけど川の魚とそう違わないな。でも大きい魚が多いな。

「兄上、海の魚も鮎と似た様な形をしてるんですね。」

思わずそう聞いた。

「そうだな、山之井で見る海の魚は皆干物になっているからなぁ…でも囲炉裏で燻した鮎も似た様な形になるだろう?きっとそう言う事だ。」

あぁ、そうか。確かに秋から冬に掛けて余った鮎を囲炉裏の上で燻していると干物みたいになるな。

「それに山に住む人も海に住む人も同じ姿形をしているではないか。だから川に住む魚も海に住む魚も同じ事なんだろうよ。」

そうか、そうかも。だって、どっちも魚だもんね。全然違う形だったら魚なんて呼ばれないもの。


 色々な物が売られている通りを進む。布、鉄、紙、あ、竹籠もある。

「見たことの無い様な物は売っていないな。」

兄上がそう言った。

「そうですな。むしろ若様は、どんな物を期待していらっしゃったのです?」

「いや、分からんが大陸から来た何かとか?」

「ハハハ、そう言った物は中々ここでは見ませんな。そう言う物が欲しければ都や小海おみの湊へ行かなければなりませんな。」

兄上は珍しい物を探しているらしい。確か小海は秋津島と敷島の間にある海の事だったはずだ。どちらの都も小海から近い場所にあるから小海沿いにある湊は賑わっているのだと聞く。ここより賑わっているのだとしたら一体どんな様子なんだろう。


 その時、目の端にキラっと光る物が目に入る。気になってそちらを見ると腰くらいの高さの台に綺麗な櫛が並んでいた。

「兄上、あれを見たい。」

俺が指差して言うと、

「お、櫛か。良いな、母上の土産に見てみようか。」

兄上も同じ事を思ったらしい。皆でその商人の元へ行く。近寄って来た我等に気付いて顔を上げた商人が我等を見てガッカリした顔をする。むぅ…子供だからかな。兄上はちゃんと銭を持っているのに…

螺鈿らでんか。手に取っても良いか?」

「買う銭があるならな。」

商人の言い様を気にする様子もなく兄上が櫛を手に取る。小さくてキラキラと光る白い細工がいくつか施されている櫛だ。商人はちょっと吃驚した顔をした。

「いくらだ?」

兄上の問いに、

「…八百文だ。」

商人がちょっと間を置いて答えた。

「与平、どう思う?俺はこの手の物には疎い、妥当な値か?」

兄上が少し離れて見ていた与平にそう聞いた。

「かなり高いですな。細工も小さいですし五百文が良いところでしょう。」

「あ、あんた、田代屋の!」

「与平、他に櫛を扱っている店は知っているか?」

「漆器屋ではここが一番大きいのですが、他にも何軒かございますよ。」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。田代屋さんよ、こいつらは何なんだ!?」

「あぁ、三田寺衆の山之井様のご嫡男ですよ。この間、八橋屋さんが買っていった塗り物もこの方を通して仕入れた物ですよ。」

「な、なんだって?こいつがあの山之井籠を作った奴だってのか!?た、確かに皆、腰に籠を付けている。」

与平の言葉を聞いて途端に商人が慌てだす。でも、山之井籠の事がこんなに知れ渡っているなんて。

「与平、この店にはもう塗り物は売らなくて良いぞ。」

あ、兄上が悪い顔をしてる…兄上は普段は優しいんだけど時々こういう悪い顔をするんだ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ、下さい。い、今のはお客さんかどうか確かめただけだ。田代屋さんの言う通り、この湊で家より良い品の揃った店はねぇ。家で買わなきゃ損だぞ。」

「ふむ、で、これらはいくらだ?いくつか欲しいのだが。」

「五、数を買ってくれるなら四百文で良い。」

「もっと良い物もあるか?」

「勿論だ。ちょっと待ってくれ。高い物は特別な客にしか見せないからしまってあるんだ。」

八橋屋と呼ばれた商人が慌てて建物に入って行く。

「霧丸、松吉、お前等も母御の土産に櫛を選べ。あ、松吉は御婆様にもだな。俺は光と落合の御婆様と、夕叔母にも要るか?上之郷と狭邑にも必要だな。一体いくつ必要なんだ?」

兄上が指を折りながら兄上が数えている。

「若、嶺には買っていかなくて良いのか?」

「ん?…嶺か…あいつには湊に行く事は言ってないし、別に良いのではないか?」

そ、そうかな…ほら、霧丸と松吉も微妙な顔をしてる。

「あ、兄上、買っていった方が良いと思いますけど…」

勇気を出して兄上にそう言ってみる。

「そ、そうか?じゃあ嶺にも買っていくか」

ちょっと驚いたような顔をして兄上はそう言った。兄上は時々凡骨だ…

 すぐに八橋屋は戻って来た。上等そうな塗り箱の中には、高そうな布に包まれた櫛が入っていた。棚に並んでいる物より細工も大きいし綺麗だ。

「良かったな紅葉丸。さっきの詫びにこれも四百文で良いそうだぞ。」

あ、兄上がもっと悪い顔をしている…

「いやいやいや、待ってくれ!!これは一貫だ、それ以上は無理だ!!」

大慌てで八橋屋が言う。悪兄上はチラっと与平を見る。与平は黙って小さく頷く。

「良し、では一貫で貰おう。他にもこっちの櫛は沢山欲しい。霧丸、松吉、決まったか?」


 布に包まれた櫛を兄上から貰った山之井籠にしまう。六歳になった時に兄上から譲って貰った宝物だ。

「良い土産が買えて良かったな。」

兄上が明るく言う。さっきの悪い顔とは大違いだ。

「でも、良かったのですか?本当はもっと高いんでしょう?あの商人潰れてしまわない?」

「ハハハ、まぁ、損はしておらぬはずだ。一個当たりの儲けは減っただろうが数を買ったからな。」

笑いながら兄上は言う。心配になって与平を見ると。

「若様は売るのも買うのも上手ですな。確かにギリギリの線ですが損にはなっていないでしょう。」

苦笑しながら与平がそう言った。そっか、じゃあ大丈夫だ、ちゃんと良い土産だ。



二章其の弐はここまで、お気に召しましたら☆やフォローして頂ければ励みになりますのでよろしくお願い致します。また、ギフトを頂いた皆様には改めて御礼申し上げます。

最近多忙でコメントへの返信が滞っておりますが全て目を通しております。

さて、次回からは戦国乱世の空気が山之井にも吹いてきます。

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