45・未知の谷

 毎日、城に運び込まれていた年貢米が漸く一段落した。幸い、今年も平年並みの収量が確保された様だ。税を納め、門を潜って帰って行く民の表情は、容量の大きなレポートを提出した帰りの俺の様だった。


 今日は北の谷筋を偵察に行く。探索でも探検でも無い。偵察だ。面子は上之郷の忠泰叔父、落合の永由叔父、狭邑の行昌叔父の三人と俺、そして案内として狭邑郷の猟師である正助が付く。なんで若手の叔父ばかりなのかと言えば、道が険しいからだ。

 いつもの二人は置いて行く。かなり不満を漏らしたが、道中で谷を下って来る賊と鉢合わせる可能性だって有り得ない訳では無い。本当は俺が行く事だって避けた方が良いのだ。だが、この件に対する危機感が俺以外イマイチ薄い。その為、俺が行くしかないのだ。だから、道中の危険については二人以外には伝えていない。伝えて俺が行く事も止められると困るのだ。

 下之郷で集合した後、谷筋の右岸を登って行く。川を右に見ながら、石ころだらけの河原を歩く。

「正助はどの辺りまで行った事があるんだ?」

同行してくれた正助に聞く。

「へぇ、この先一刻程行った所で谷が急に狭くなります。その辺りまでです。」

「ではまず、そこを目指すとしよう。」


 谷の出口ではそれなりの幅が有った谷間だが、すぐに両側から斜面が迫って来る。東の稜線から太陽が顔を出す前だからか、谷間の気温はまだ上がっていない。大小の石に覆われた河原の幅は左右それぞれ五間(一間約1.8m)程か。

「ここの河原一杯に敵が広がって下って来ると大事だな。」

「それだけの兵が越えて来られればですが。」

永由叔父が言う、

「少なくとも少数でも馬を連れて越えて来たのだ。それを確かめに行くのだろう?」

「それはその通りだな。所で今日はいつもの二人はどうして置いて来たのだ?」

忠泰叔父が緊張感の無い声で聞く。

「この先どこで敵に出会うか分からんのだぞ。収穫を終えたばかりの時期だ。また賊が狙って来ぬとも限らん。叔父上達を三人も呼んだ理由を考えてくれよ。」

そう言うと三人の顔が険しくなる。その為に三人には槍まで持たせているのである。

「何かあったら俺は正助と左の山に飛び込んで、上之郷を目指して逃げる。三人も上手くやってくれよ。」

漸く緊張感が漂って来た。


 大岩が進路を塞いでいる。一度川を渡り大岩を避けてから、再度右岸に渡る。この辺りが物見小屋予定地の下辺りだ。谷の入り口から四半刻位か。物見の兵は木陰に隠れて下からでは場所がわからない。杖代わりに持って来た旗を広げて小屋に向けて振る。木の間から兵が出て来て旗を振り返す。

「成程、あれは下からでは分かりませんな。」

「うん、小屋も上手く隠れると良いのだがな。」

「しかし、見張りの場所を確認してどうするのです?」

行昌叔父が聞く。

「うん、どこまで見えるか確認して置こうと思ってな。」

「そう言う事ですか。」


 その後、もう一度川を渡る。河原の幅も半分程になっただろうか。まだ旗の合図は届いている。

「忠泰叔父上、あの尾根の形は夜野川の先に見える山だと思うがどう思う?」

左手の尾根を指差しながら聞く。

「そうだな。多分、山の向こうが上之郷だろう。」

上之郷の忠泰叔父もそう思うなら間違い無いだろう。

「ここまで一刻位か?」

「そうだな、そんな所だろう。」

「正助。お主が行った場所はまだ先か?」

「何分、随分前の事ですから…ただ、三分の二は来ているとは思いますが。」

「良し、もう少し頑張ろう。」

歩みは続く。


「正助、ここか?」

「へぇ、あっしが来たのはここまでです。」

目の前では、河原の斜度が急激に緩やかになって、河原の左右がマウンド状の高まりになって川に迫っている。高まりの上は低木や草が繁っている。河原の幅は左右合わせて一間程しか無い。旗の合図はもう届かない。

「ちょっと休憩するか。」

「そうしましょう。」

俺がそう言うと、永由叔父が答えた。

「この先はどうしますか?」

「まだ昼前だし、帰りは下りだ。もう少し進もう。今の段階では何も分かっていない。」

水を飲みながら話をする。

「そうですな、ひとまずこの隘路の向こうを確認しますか。」

そう言うと我々は前進を再開した。


 隘路は五町(一町約100m)程続いただろうか。その先は再び斜度を増し、石だらけの谷底に戻った。谷はほぼ真っ直ぐに北に向かって行く。

「取り敢えず、日が真後ろに来る頃まで進む。恐らく、それで昼位だろう。見たところ谷の残りはそう長く無い。」

時間の区切りを明確に付けたせいか反対は特に出なかった。

 そこから、谷の奥までは半刻程であっさり着いた。目の前の斜面は前実野の山々の鞍部に向かって登っているが、その頂点までの距離はそう遠く無い。山之井の東西の尾根と同程度に見える。

「若様、こちらを。」

正助が河原と斜面の境目で呼ぶ。そこには火を焚いた後が残されていた。恐らく我々から見つからない位置で夜を明かし、昼前に襲撃して明るい内に谷を上って逃げる気だったのだろう。昼間だったから気が付けたが、もっと早い時間や夜だったら防げなかっただろう。

「ここで、夜を明かしたのか。叔父上方、ここまで来たら多少遅くなってもあそこの山の上までは確認するべきだと思うがどうだ?仕切り直すと二度手間になるぞ。」

「たいした距離では無さそうだ。俺もその方が良いと思う。」

忠泰叔父が賛同し、他の二人からも異論は出なかった。

「正助、前を頼めるか?」

「へい、お任せ下さい。」

そう言うと我等は最後の登りに取り掛かった。


「これは…」「なんと…」

四半刻程で登り切った尾根の鞍部から見る景色に一同絶句する。登って来た斜面と同じ位の斜面を下った先には谷が続くが、その先にはたいした距離を置かず田畑が広がり始める。

「あそこの田畑の手前まで一刻もあれば行けてしまいそうだぞ…」

「丸一日あれば山之井まで来られてしまうではないか…」

「あの領地はどこの領地かわかる者は居るか?」

愕然としている叔父たちに聞く。

「横手庄に繋がっていると聞いたことが有ります。確かめたわけではありませんが…」

答えを持たない叔父達に代わって正助が答える。横手から山之井まで、朝出れば夕方には到着出来ると言う事実は、防衛上非常に重大な問題に成り得る。

「正助、ここで見た事は秘密にしてくれ。誰かに聞かれたら隘路の奥まで確認した事にしておいて欲しい。」

「は?へぇ、若様がそう仰るのなら…」

「叔父上方も他言無用だ。この道が既成事実化すると山之井が毎年戦場になりかねんぞ…」

「「わかりました…」」

「若鷹丸、殿には…」

「今、考えている…」

その後、心中は重いが足は軽く急ぎで谷を下った。


 日が沈む前には下之郷に到着出来た。正助には丁重に礼を言い、谷の出口で別れた。

「今回の事は父上には伏せておく事にする。」

「若様、それは…」

「わかっている。だが、あの道で横手に攻め込めると知れば父上は三田寺に伝えるだろう。三田寺からは守護代様だ。その結果、実野盆地の勢力から山之井が危険視されかねない。そして、山之井が直接危険に晒される可能性が増える。父上はそう言った事に考えの及ばぬお方だ…いずれ知られる事かもしれぬが、山之井の平穏の為に少しでも長く隠しておきたい。」

「わかった、隘路の先にまだ谷は続き、その先は険しい山がある様に見えた。そう言う事にしよう。」

忠泰叔父が言う。

「良いのか!?」

驚いて聞き返す。他の叔父二人も驚いている。

「お前が以前言っていた。山之井は小さく弱いと。その通りだ。それでも守らねばならぬ者は沢山いるのだ…大きな勢力に使い潰されない為には、時に口を噤む事も必要だろう。騙すのでは無い、言わぬだけだ。」

今年に入り行動範囲が増えた結果、会う機会が増えた落合と狭邑の叔父と比べ、忠泰叔父は前々から幾度も俺の相手をしてくれた。城の外に出たがる俺を連れ出してくれたのも忠泰叔父だし、話を一番聞いてくれたのも行連を除けば彼だろう。そんな忠泰叔父が俺の考えを汲んだ上で為政者としての判断も合わせてそう言ってくれたのだと思う。

「叔父上方、申し訳ないが俺の我儘に付き合ってくれ。」

そう言って頭を下げた。

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