32・三田寺

 三田寺の城が近付いて来る。山から少し離れた場所にある小高い丘の上に建っている。

「若様…」

後から義典殿が迷った様な声を出す。

「どうなさった。」

「私の後任となる小嶋孝政と言う男ですが…余り良い噂を聞きませぬ。心の隅にでも留めて頂ければ…」

苦々しい様子で言う。ふむ、後任は問題有りか…迷った末に身内の恥を忍んで最後の最後に教えてくれたのだろう。

「ご忠告忝なく。」

多くの言葉は不要だろう。簡単に返す。


 丘の麓まで来ると門の前で御爺が待っているのが見える。

「義典殿、下りて先に行きます。」

馬から跳び降りると、俺は丘を駆け上がった。

「御爺、正月以来だ。わざわざ迎えに出てくれたのか。」

「良く来た良く来た、また少し大きくなったな。道中如何であった?」

「うん、やはり平野は景色が違う。物の見え方が変わりそうだ。」

「そうかそうか、色々見て行くと良い。」

御爺がにこやかに迎えてくれる。

「殿、只今戻りましてございます。」

下馬した義典殿が追い付いて来て御爺に頭を下げる。

「義典、今まで長い間御苦労であった。思えば長い付き合いじゃの。これからはゆっくりしてくれ。今宵は宴を開く。泊まって行ってくれるのだろう?」

御爺が義典殿に労いの言葉を掛ける。傅役だった義典殿へは一方ならぬ思いもあるのだろう。


 三田寺の城はやはり規模が違った。大きさ的には先程通過した入谷の館と同じ位だが向こうは平地。こちらは丘の上で防御施設の質も段違いで、曲輪や堀が幾重にも巡らされている。何より長年使用され、しっかりと手入れされた歴史の重みを感じる。蔵の数、馬の数も我が家の数倍はあるだろう。これで大規模とは言え国人なのだ。大名は一体どんな規模なのだと言う話だ。


 夕方まで暫しゆるりと言われたので御爺に許可を取り門の横の物見櫓に登る。怪訝そうな顔の見張りに理由を説明し外を眺める。南一面に広がる芳野平野。遥か先は煙った様にぼやけている。ここから見ると平野にも小さな高低が意外と多くあることに気が付く。家々は高まりの周辺に建っていることが多く、高まりの上には疎らに木が生えている。正面の実野川を渡った先には明らかに巨大な平城が見える。周りにも多くの建物が取り囲む様に建っている。

「ちとお尋ね致すが、あの大きな城が守護代様の田代のお城であろうか?」

見張りの兵に尋ねる。

「左様です。」

ぶっきらぼうだな。まぁ、仕方無い。

「因みにここから海は見えますか?」

「朝や寒い時期等、空気が澄んでいる時なら平野の一番奥にほんの僅かに見えまする。」

僅かにか…明日の朝来るか、それとも秋に山に登って皆で見るか…迷うところだな。余り長居しても悪い。早々に引き上げることにした。


 夕餉の前には風呂が用意されていた。勿論、この時代の風呂は蒸風呂だ。現代日本で育った身としては湯船に浸かりたいのは山々だが、蒸風呂とて山之井には無い物だ。つまり若鷹丸としては人生初の風呂である。入口で用意された湯帷子に着替えて中に入る。御爺と義典殿、永由叔父も一緒だ。風呂も饗しの一つなのだ。

「若鷹丸は風呂は初めてか?」

御爺が上機嫌な様子で聞いて来る。

「うむ、話には聞いたことはあったが初めてだ。叔父上はどうだ?」

「恥ずかしながら、某も初めてでござる。慣れぬせいかなんとも変わった感覚ですな。」

「その内に体が温まって汗が出て来る。そうなると心地良くなるのよ。」

御爺の言にわかった様なわからない様な顔をする叔父。

 蒸風呂とは言ってみればミストサウナだ。温度は左程高くないが湿度が高いタイプ。ドライサウナが好きだった俺には少し物足りない感じがする。それでも暫くすると汗が浮き出てくる。

「確かに体の奥が温まる感じがしますな。これはなんとも言えぬ心地ですな。」

「そうであろう。汗が出ると垢が浮いてくるでの、こっちに移動だ。」

御爺が湯の張った大きな盥の前へ移動すると、赤黒い一尺程の物を手に取る。

「御爺、なんだそれは?」

例えるなら捻れた豌豆えんどう豆の莢か?色的には巨大な唐辛子かもしれん。

「これは皀莢さいかちの実よ。こうして湯に浸けて揉むと泡が出る。これで体を擦るのだ。」

無患子むくろじは聞いたことがあったが、皀莢は初めて聞いたな。要は石鹸の代わりだな。御爺に倣い皀莢の実で体を擦る。

「御爺、湯帷子は脱いでも良いのか?洗い辛くて敵わんぞ。」

「体を洗う時は脱いでも良いぞ。」

よし、さっさと洗ってしまおう。しかし自分でも引く位垢が落ちていく。

「我ながら酷いな…叔父上、山之井にも風呂は要るのではないか?」

「某は更に酷いですな…確かに山之井にもあるといいですなぁ。しかし、これは金が掛かりそうですぞ。」

確かに産まれて二十年近く風呂に入っていなかった叔父は凄いことになっている。

「御爺、風呂に掛かる金は基本的には燃料だけであろう?」

「まぁ、建ててしまえばそうだの。燃料が中々掛かるがの。」

「なんとかならんかな…燃料は領内で炭焼を増やせばなんとか…」

「随分御執心ですな。そんなに風呂が気に入りましたかな?」

義典殿が意外そうに聞いて来る。

「それもある。あるのだが久方振りに風呂に入ってどう思われた?」

「ふむ、やはり良い物ですな。」

「で、ありましょう?このままでは母上は三田寺へ帰ってしまうやもしれん。」

一大事だ。

「ワハハ、風呂が無いから実家に帰って来るか。それは傑作だ。」

御爺が爆笑する。

「御爺、笑い事ではないぞ。母上はまだお若いのだ。垢まみれはお嫌であろう。いっその事、偶には風呂に入りに三田寺に帰って頂いた方が良いかもしれん…」

真面目に悩む俺を囲む大人は皆笑い転げていた。


 風呂の後は夕餉だ。典道叔父や初めて会う祖母、他の兄弟も顔を揃える。膳には夏野菜を中心に鯵の干物まで並んでいた。

「やはり、海の魚は違うな。川の魚も悪くないが味が濃い。」

「喜んで貰えて何よりだ。」

御爺が微笑みながらそう言う。

「山之井では祝の席位でしかお目に掛かれんからな。三田寺では簡単に手に入るのか?」

「いや、流石にここではそうは手に入らん。田代の町まで行くのよ。あそこは十日に市が立つでの。」

「守護代様の城下でも市が立つ時しか手に入らぬのか。」

考えていたよりも流通が発展していないな。三田寺は兎も角、田代なら每日市が立つ程度には発展しているかと思っていたのだが…


==三田寺政道==

 若鷹丸が考え込む様に黙る。この子供は時折この様な様子を見せる。伏せ目がちに子供らしからぬ冷静な目をして考え込む。それはまるで戦況を読む軍師の様にも見える。

「若鷹丸殿、お箸を咥えてはいけませぬ。お行儀が悪いですよ。」

そこへ、妻がそう声を掛ける。

「はっ、御祖母様、これは申し訳ありませぬ…」

恥ずかしそうに笑う様は年相応の表情を見せる。涼の嫁入りの時にすぐに懐いてくれたこの子の年相応の表情だ。二つの表情どちらが本当の若鷹丸か。いや、両方で良いのかもしれん。

====


 翌朝、義典殿は自分の領地へ戻って行った。館野の家は三田寺の中では東の山寄りの地域を本拠としているそうだ。

 その後、御爺の馬に乗せて貰い領内を回って貰う。今日は龍千代叔父も同行している。龍千代叔父は十歳の三男で最近馬の稽古を始めたらしくその一環も兼ねているらしい。尚、典道叔父は次男で母の上の長男は夭逝したらしい。

「御爺、平野はやはり木が少ないな。」

昨日から感じていた点を聞いてみる。

「そうよな、木は薪炭として生活に必要だ。他に城を建てるにも家を建てるにも木は必要だ。戦道具にも農機具にも必要だ。何をするにも必要なのだ。それ故こんなにも木が減ってしまった。新しい木を育ててみてはいるが一朝一夕でどうにかなるものでもなし、困ったものよ。」

成程、植林は始めているのか。だが、御爺の言う通り成果が出るには最低でも二十年は見なければなるまい。

「山之井は木には困らぬが他の山沿いの領地はどうなのだ?宇津の方は丸太を売っていると聞くが。」

「木を切り出して売っている所とそれ以外ではやはり木の数が大分違う。宇津の辺りは大分木が減っている。」

「やはり、違いは川か?」

「そうじゃろうな。宇津、石野、鴇田、丸太を売っている所はどこも川がそれなりに太い。」

山之井川も狭邑川も合流するまでは深さも幅も左程無い。丸太を流しても途中でつっかえてしまうだろうな。

「仮に薪炭だけでも山ノ井から運べれば三田寺の役に立つか?」

「それは、多いに役に立つが…それもある程度纏まった量が運べればという話よ。商人に頼むのか?」

「いや、それでは商人の利益が乗って結局民が苦しくなるだけだろう。出来れば民が冬の間に運べればと思うんだが…」

「民に任せるのか。それは無理があるのではないか?」

「いや、方法はこちらで考えるとする。それを教えれば良いと思う。まぁ、出来るかどうかはわからんがな。」

「若鷹丸、山之井はそんなに木が多いのか?」

龍千代叔父が聞いて来る。

「うん、叔父上は前実野の山の奥の方は見たことがありますか?」

「うん、北の山の向こうだろう?実野川沿いからなら見えるな。」

恐らく見えるのは一番高い辺りか。

「まぁ、人里の周りはそこまでではありませんが、そこの山の様に木の間から地面が見えるなんて事はないですな。少し奥に入れば叔父上の見た様な山と変わりませぬ。」

「それ程まで違うのか。ところで若鷹丸、叔父上はやめないか?」

叔父が顔を顰めて言う。齢十にして叔父上は嫌らしい。

「む、叔父上でなければ兄上か?」

「それはいいな、兄上にしよう。」

叔父が顔を綻ばせて言う。

「御爺、俺にも兄上が出来たぞ。俺もずっと兄が欲しいと思っていたのだ。」

嬉しくなって御爺にそう言うと御爺も、

「ハハハ、それは良い。兄弟仲良くすると良いぞ。」

三人で笑いながら馬を進めた。

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