一章其の弐 六歳、夏
22・山之井庄の夏
半月以上も続いた梅雨も終わり夏の青空が力強く広がり、畑では蕎麦が白い花を鈴なりに咲かせている。与平達が行商にやって来て暫くの後、山之井は梅雨に入った。梅雨入り前には野苺が沢山実り、紅葉丸と霧丸は大層喜んで苺を摘んでいた。
梅雨は、稲の為には無くてはならぬものではあるが、子供にとっては有り難くない存在だ。梅雨の晴れ間に筌を仕掛けたり稽古が出来る位で、雨の日や足元の悪い日は手習いの復習をしたり、紅葉丸の相手をして過ごしていた。
さて、前世の感覚だと夏は暑いが楽しい季節なのだが、この時代、夏というのは飢饉の季節なのだ。考えてみれば当然の事だったのだが、一年の内一番米が残り少なくなる季節は夏だ。おまけに食物が腐りやすく保存が効かなくなるのも夏である。春蒔きの蕎麦や雑穀が実るまでは我慢の季節が続く。ここ数年領内は不作にはなっていない為、領民達もやり繰りをして夏を越える事が出来ている。しかし、いつ不作や戦が起こるとも知れぬこの時代。夏は決して嬉しい季節ではないのだ。
とは言え、俺は楽しい夏の計画の根回しを進めている。あちこち出掛けたい場所があるのだ。まず上之郷で定吉達の話を聞きたい。ついでに大叔父の所に泊めて貰おう。狭邑郷にも行きたい。滝を見たいし海の見える場所にも行きたい。ただ、夏の山登りは厳しいかもしれない。狭邑郷には紅葉丸も連れて行ってやりたいな。それから、三田寺の御爺の所へ行くことも画策している。平野の暮らしを一度見ておきたい。
そう言えば、椎茸菌の培養は意外にも上手く行った。ハッキリ言って見た目は宜しくないどう見ても風の谷的なナニカである。知らなければ物凄くカビていると思うだろう。光には触るなと言ってある。中を見られたら捨てられてしまいそうだからな。
一番上手く増えたのは大鋸屑と糊を混ぜた物で続いて糊、大鋸屑だけの物は上手く行かなかった。大鋸屑だけのやつは糊だけの物に混ぜてしまった。
ただ木の乾燥がまだ足りないと源爺が言うので原木への植え付けは出来ていない、水と糊を足しながら様子見だ。しかし、何もしないのも面白くないので、裏山に転がっている何本かの倒木に穴を穿ち菌を詰めておいた。勿論、春に椎茸が採れた木は除外だ。余計な事をして今後取れなくなると困るからな。
今日は爺の所に行く日だ。今日からは下之郷から落合までは槍を担いで走る事にした。鍛錬の一環だ。
「…若…何もこの時期に走らなくても良かったんじゃないか?」
汗だくの松吉がそう言う。城の下まで出迎えに出て来てくれた爺と永由叔父も汗だくの我等を見て少し困惑している。
「戦が多いのは夏と冬だ。この時期に走れなくてどうする。」
「確かに、仰る通りですが。倒れぬ程度にして下されよ若。」
爺も心配そうにそう言う。しかし、俺はこの後素晴らしい計画を立てているのだ。
「叔父上、この間お願いした件宜しくお願い致します。」
「わかりました。」
永由叔父が苦笑しながらそう答える。
「む、永由なんじゃ。何をするのだ?」
爺には言っていないらしい。
「爺、講義は夕方涼しくなってからにしよう。俺達は叔父上に泳ぎを習って来る。」
霧丸と松吉の表情が、明るくなる。
「なんと、いつの間にそんな話を…」
苦い顔をする爺に、
「得意な者は具足を着けて泳げると言うではないか。やっておいて損はあるまい。」
そう言ってやった。さぁ、戦国スイミングスクール開校だ。
「流石若だ、こんな事まで考えてたのか。」
川に向かって田畑の間を歩きながら松吉が興奮した様に話す。実は落合の集落から川までは案外遠い。畦道を歩きながら話をする。
「松吉は泳げるのか?」
「ちょっとなら泳げるぞ。夏はいつも落合に近い辺りで泳いでたからな。二人は泳げないのか?」
「中之郷の辺りは流れも速いし深さも無いから泳げないだろ?だからやったことが無いんだ。」
「あぁ、確かに城の下で泳ぐのは無理そうだな。」
そんな話をしながら河原へ着く。
「やはり、ここいらまで来ると川が大きいな。」
山之井の城の下では二間少々(一間約2m)の川幅もここでは五間近いだろう。流れも明らかに穏やかだ。
「取り敢えず着物を洗おう。」
汗まみれの着物を脱ぐと川に入りザブザブと洗う。慌てて二人も着物を脱いで川に入った。洗った着物を軽く絞り河原の小石の上に広げて干す。石も温まっているしその内乾くだろう。
「さぁ、叔父上。始めましょう!」
「うん、では最初に泳ぐのに一番大切な事はなんだと思いますかな?」
「そりゃ、水に浮く事だ。」
松吉が当然の様に答える。
「左様左様、ではまず仰向けに浮く練習をしましょう。」
前世の俺は普通に泳げたがこの体は泳いだ経験がない。霧丸もいるしそこからがいいだろう。
結局夕方近くまで夢中で泳ぎの練習をしてしまった。所謂古式泳法と言うやつなんだろうが今日習ったのはなんの事はない、バタ足だった。まぁ、関節の動きは一緒だから出来る動きも一緒という事か。霧丸は力を抜けずに中々浮かなかった。最後はどうにか浮く様になった。
篠山城に戻ると既に日は沈みそうな時間になり、爺にこっ酷く叱られた…叔父が。講義も槍の稽古もせずに夕餉を食べ、三人あっさりと寝てしまった。
翌朝、なぜだか妙に厳しい槍の稽古を受けた後、泳ぎに行こうと思ったら講義も受けさせられた…結局昼過ぎから少し泳いで帰途に就く。帰る前に叔父に聞いてみる。
「叔父上、落合から下流には行ったことはあるか?」
「戦の折に何度かありますぞ。」
「近々、三田寺の御爺の所に行こうと思っているんだ。父上には俺から頼むから供を頼まれてくれないか?」
そう、頼んだ。
「某がですか?それは山之井の殿のお許しがあるのであれば構いませぬが。」
「そうか、ではその時はお願いする。」
父は計画をキチンと立てて話を持っていくと否定し難くなる傾向がある。先に周りを固めてしまおう。
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