2・霧丸

 田植えから暫く経ち、川沿いでは菖蒲やあやめの花が咲き誇っている。田んぼでは稲が芽を出し水面から鮮やかな緑の頭を風に揺らしている。先日は紅葉丸との約束の通り、母も誘って川沿いまで出掛けた。紅葉丸の喜びようは大変なものだったし、母も喜んでくれたようだった。


 今日は常聖寺で和尚から手習いを受ける日だ。朝餉の後、中之郷に向かって歩いている。道すがらこれまでの日々を振り返る。

こちらの世界にやってきた頃に立てた当面の目標の内、人間関係の構築についてはそれなりに成果が出ていると思う。

 しかし、食住環境に改善については殆ど進んでいないと言っていい。住環境については蓑の調達以降目ぼしい成果はなく。タンパク質の調達については山之井川での鮎釣りを試みてはいるが週に二、三匹釣れれば御の字と言った塩梅だ。鮎がもう少し安定的に確保出来るといいんだが。小さな川だ、資源の枯渇も考慮するべきか?となると網での漁は宜しくないか。罠かな。入り口が段々狭くなって入ると出られなくなる魚捕りの罠があった気がする。竹か何かで出来ていた記憶がある。いや、あれは鰻を取るための仕掛けだったかもしれない。帰ったら源爺に聞いてみよう。


 等と考えていたら寺に着いていた。寺は集落を越えた東の尾根の西面に建っており、石段の上に山門が建っている。この世界で今のところ唯一見た階段だ。それどころか領内唯一の可能性も捨てきれない。

 山門を潜ると境内で和尚と誰かが話をしていた。その脇には俺と同じような背丈の者が一人。

「和尚、おはようございます。本日も宜しくお願い致します。」

俺は和尚にそう声を掛け、頭を下げる。

「若様、お早うございますな。」

「これは、若様。暫く振りでございますな。」

和尚ともう一人は中之郷の誠右衛門せいえもんだった。

中之郷の名主は名目上父であるが、実際に農民達のまとめ役はこの誠右衛門である。

「誠右衛門か、今年も田植えが無事に終わって何よりだ。」

領主の嫡男として少し他所行きの受け答えをする。

「お陰様で去年から弟達も城から戻ってくるようになりましたので大分楽になりました。若様の働きのお陰ですな。」

「櫓の上で田植えを眺めていただけだがな。」

ハハハ、和尚と三人で笑う。

「そうそう、若様とは初めてお会いします。我が家の七男の霧丸きりまるでございます。」

誠右衛門がそう言って後ろに立っていた子供を俺の目の前に引き出す。

背は俺より少し低く、かなり痩せている。そして表情の乏しい顔で頭をペコリと下げた。

「これ、しっかり挨拶をせんか。」

誠右衛門が叱る。

「気にしなくてよい。しかし誠右衛門、七男とは城でもそんなに沢山の男は面倒を見られんぞ。一体何人子供がいるのだ?」

「他に娘が三人ですが、次男と五男、それに三女は幼くして亡くなりましてな。今は全部で七人ですな。霧丸が一番下になります。」

「充分に子沢山だな。…まさか霧丸のきりはこれっきりのきりではあるまいな?」

和尚がそっと目を逸らす。

「…和尚…お主…」

「さ、さぁ、今日も手習いを始めましょうかな!」

「そ、そうそう、若様は算術をあっという間に修めてしまったと和尚が驚いておりましたぞ!!」


 二人が慌てて話題を変える。霧丸…可愛そうに…しかし、算術か…これでも文系とはいえ一応大学まで通ったのである。正直、四則演算なんて今更過ぎるのだが、そんな背景を知らない和尚は余りに簡単に計算を解いていく俺を見て腰を抜かさんばかりに驚いたのだ。お陰で最近俺はちょっとした神童扱いなのだが、やり過ぎはよろしくないので程々に収めるよう努力している。


「では、若様始めましょうか。」

和尚がそう言って俺を本堂へ誘うと、

「それでは、我等はこれにて失礼致します。」

誠右衛門がそう続けた。霧丸もその隣で頭を下げている。その表情にどこか影を感じた。


「霧丸。お主、手習いに興味はあるか?」

ふと、そんなことを聞いていた。

「え?」

何を言われたのか理解出来ていないような表情で霧丸が此方を見る。

大人二人も怪訝そうな顔だ。

「いやなに、俺の周りには同じ年頃で勉学に励む者がいない。弟の紅葉丸はまだ小さいし、大叔父の所の忠泰兄にはまだ子がおらん。爺のところも同じだそうだ。狭邑の跡継ぎは先頃男子が産まれたそうだがまだ赤子。それ故、俺の勉学の相手としてどうかと思ったのだ。誠右衛門は中之郷における父の名代、その息子であれば立場としても不足はあるまい。」


「成程、拙僧は良き御思案かと思いますが、誠右衛門殿は如何ですかな?」

「霧丸はこの通り、何を考えているか親にも分かり難い者故に、若様の御相手が務まりますかどうか。」

誠右衛門は霧丸の性格に不安があるようだ。

「霧丸、お主はどうだ?」

霧丸は父の様子を上目遣いに伺った後、

「や、やってみたい…です…」

小さな声でそう言った。


「よし、決まりだ。早速今日から一緒に始めよう。」

「霧丸、本当に大丈夫なのか?迷惑をお掛けするんじゃないぞ。」

誠右衛門はまだ、不安そうだ。


「和尚、早く始めよう。」

「左様ですな。では、参りましょう。」

「若様、和尚宜しくお願い致します。」

初めての友達が出来たかもしれない。

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