癒やしのライ麦パン

増田朋美

癒やしのライ麦パン

暖かくひがさして、のんびりできそうな日であった。こんな日は何処かへでかけたくなってしまうものだろう。そういう感情は、誰でも平等に訪れる。そんな、誰でも気軽に入れるという発想がある施設がまだまだ少ないのが、日本の現状だと思う。

その日、パンの店阿部に一人の女性が訪ねてきた。なんだかちょっとというか、いかにも訳アリそうな感じの女性であった。店主の阿部慎一くんが、ちょっと変だなと思って、女性になにか欲しいものはありますかと声をかけると、

「すみません。こちらの店は、ライ麦のパンを中心に販売しているのでしょうか?」

と、女性は訪ねた。

「はい、この店は一般的な小麦でできたパンではなく、ライ麦で作ったパンを中心に販売しています。」

と、阿部くんが答えると、

「例えば、おかずパンのよう物は売っていないのでしょうか?」

女性は聞いた。

「サンドイッチとかもありますよ。」

阿部くんが答えると、

「そうですか。それでは、そのサンドイッチを、一切れいただけないでしょうか?」

そういう彼女に阿部くんは、こちらになりますと言って、サンドイッチを売っている売り場へ彼女を連れて行った。たまごサンドに、ツナサンド、ハムカツサンドなどあったが、彼女はハムカツサンドを取った。

「はい、ハムカツサンドですね。350円になります。コーヒーなど、飲み物もご入用ですか?」

阿部くんが聞くと、

「いえ、それは大丈夫です。とりあえず、パンだけください。」

と、女性は答えた。

「良かったあ。こちらにもライ麦パンの専門店があって嬉しいです。東京ではよくあったんですけど、こっちへ越してきたら、パン屋は星の数ほどあるのに、ライ麦のパンを売っているところは全く無くて。ほんと、この店は、救いの神様みたい。これからも定期的に来ますから、よろしくおねがいします。」

「どうもありがとうございます。パンはこちらになります。どうもありがとうございました。」

阿部くんは、女性にパンを袋に入れて渡した。

「こちらこそ、ありがとうございました。」

女性は、それを受け取って、店の中を見渡した。

「あら、こちらは、パン教室もやってらっしゃるんですね。どんな人が入会しているのか、とても気になりますわ。」

「ええ、簡単な教室ですが、店が休みのときは、レッスンも行っています。受講生は少ないので、いつでも新規入会者を募集しています。」

阿部くんが言うと、彼女は、

「じゃあ、申し込んでもよろしいでしょうか。ぜひ、パン作りを習ってみたくなりました。」

とにこやかにいうのだった。

「体験レッスンのようなものがあれば、ぜひ、参加させてください。」

「わかりました。体験レッスンは、今度の日曜日、午後二時からになります。ご都合がよろしければいらしてください。」

そう言うと、女性は余計に嬉しそうになって、

「ありがとうございます。ぜひよろしくおねがいします。」

と阿部くんに頭を下げた。阿部くんは、それではと引き出しの中から入会申込書と書いた紙を差し出して、それに名前と住所を書いてくれと言った。彼女は阿部くんから渡されたボールペンで、氏名欄に、岡田千代と書いた。

「岡田千代さんですね。わかりました。今度の日曜、この店に来てください。よろしくおねがいします。」

「はい、ありがとうございます。必ず参りますから、よろしくおねがいします。」

岡田千代さんは、にこやかに笑って、阿部くんに軽く頭を下げて、では、御免遊ばせと言って、店を出ていった。

「岡田千代。何処かで聞いたことのある名前なんだけどなあ。」

阿部くんは、そっと呟いた。すぐに、別の客がパンを買いにやってきたため、岡田千代さんのことを考えるのは忘れてしまった。

そして、その次の日曜日。午後二時少し前に、

「こんにちは、よろしくおねがいします。」

と言って、岡田千代さんがやってきた。彼女の他に体験レッスンを申し込んだ者は誰もいなかったので、一対一でレッスンが開始された。阿部くんは、まず、パンこね機という道具の使い方を教え、それに材料を入れて、パンの生地をこねさせ、パタパタとなっていれば、生地はご機嫌であるということも教えた。彼女は生地の配分を、メモに書き、意欲的に学ぼうとしている。そして、パンをパウンド型に入れて整形し、最終発酵を経て、オーブンレンジで焼くと、なんとも言えないライ麦特有のいい匂いがした。

「先生。」

と、千代さんは、パンを焼いているとき、阿部くんに言った。

「パンこね機というのは、だいたいどれくらいの値段で買えるものなのでしょうか?」

「ああ、それなら、カタログをお貸ししますよ。」

阿部くんが、引き出しを開けてパンこね機のカタログを取り出すと、千代さんは、パンこね機の値段を調べ始めた。

「誰か作ってあげたい人でもいるんですか?」

真剣に調べているので、阿部くんが千代さんにいうと、

「はい。正確には、息子なんですけど。」

千代さんは答える。

「へえ、おいくつですか?」

「まだ、5歳なんですけどね。最近、大人のすることに口を挟むようになってきて、まあ、成長したということなんでしょうけど、ちょっと、憎ったらしく感じるときもあります。二人だけの家族ですけど、一生懸命生活していますよ。」

と、いうことは、母子家庭なんだろうか。阿部くんは、彼女を何処かで見たことがあるが、何処で見たのか思い出せなかった。

「そうですか。じゃあ、これからどうされます?定期的にこちらに入会してくださるのなら、生徒名簿に記入していただけないでしょうか?」

阿部くんは、画板を出して、生徒名簿と書いてある、一枚の紙を千代さんに渡した。千代さんは、すぐに生徒名簿に名前と住所を記入した。住んでいるところは今泉ということだった。そうなると確か、問題が多いとされる吉永高校が近くにあるなと阿部くんは思った。

「はい、記入しました。それでは、月一回、定期的にレッスンに来ますから、よろしくおねがいします。阿部先生。」

と千代さんは阿部くんに頭を下げる。

「了解しました。」

阿部くんはとりあえず千代さんの生徒名簿を机の引き出しにしまった。

「しかし、どうして、ライ麦のパンを作ろうと思ったんですか?なにかわけがあるのでしょうか?」

千代さんにそう聞いてみる。

「ええ、単に家の息子が、小麦のパンを食べられないので、それでは、ライ麦のパンでも作ってやろうかと思っただけなんですよ。それだけなんです。まあ、こんな事言っても、信じてはくれないでしょうけど、こういう問題がある子供を持つと、親としてなんとかしてやりたいって思うのは、いけないことなのかな?」

千代さんは、そう答えた。

「誰かになにか言われているんですか?」

阿部くんがそうきくと、

「ええ。どうせ、女郎屋勤めの女の話なんか何も信じてはくれないでしょうね。私は、女性というより、女郎よ。」

千代さんはそう答えた。

「そうなんですか。生きていくためには仕方ないことだってありますよ。息子さんを育てるために、そうやって体を売って生活をしているのでしょう?それは、仕方ないことですよ。」

阿部くんは、にこやかに笑った。

「そう思って、くださるんですか?」

千代さんは、小さい声で、一瞬ぽかんとした目で阿部くんを見る。

「はい。だって、仕方ないじゃないですか。うちの店に来る人は、皆訳アリです。皆小麦のパンを食べられない事情があって、この店に来ます。だから、息子さんにパンを作ってやりたくてうちの店に来た女郎さんでも、僕は偏見を持ちませんよ。」

「ありがとう、、、ございます!」

千代さんは、最後を力強く言った。

「実は、家の息子が、保育園でいじめられているそうでして。そりゃそうですよね。女郎の息子なんて、汚い仕事をしていると、思われてしまっても仕方ありません。だから、息子にパンを焼いてやりたくてそれで、この店にこさせていただきました。」

「そうですか。わかりました。僕は、何もいいませんから、どうぞお気軽に、パン教室に来てくださいね。」

阿部くんはにこやかに笑った。

「ありがとうございます!本当にありがとうございます!私が、女郎と言っても驚かないでくれたのは、初めての方です。ありがとうございました。」

「いいえ、大丈夫ですよ。じゃあ、レッスンの日程など決めさせていただきましょうか。いつもは店がありますのでお教室は、土曜日か日曜日が中心になるのですが?」

阿部くんがそう言うと、

「はい。いつになるかちゃんとわからないですけど、必ず月に一回来ますから。その都度予約を取るような形にしていただけませんでしょうか。」

と、彼女は言った。それはそうだなと思った阿部くんは、それ以上、レッスンのことを強要しないことにした。

「それでは、LINEとか、メールなどで繋がらせてもらえませんかね。連絡は取れるようにしておきたいので。」

と、阿部くんがそう言うと、彼女は、スマートフォンではなくて、携帯電話を取り出した。そして、メールアドレスを出して、それを紙に書いて阿部くんに渡した。阿部くんも、自分のメールアドレスを書いて彼女に渡した。今どき、スマートフォンを持っていないというのも珍しいが、阿部くんはそれをあえて口にしなかった。

「ありがとうございました。先生。私の事を女郎さんとしないでくれたのが嬉しかったです。また、連絡できるときにしますから、よろしくおねがいします。」

彼女は、にこやかに笑って、阿部くんの店を出ていった。確かに、よく見れば可愛らしい感じの女性であったけれど、やっぱり女郎さんということもあって、着物の衣紋を大きく抜いていた。それは、女郎さんという職業ではそうなってしまうのだろうが、なにか可哀想な感じがしないわけでもなかった。

それから数日後。彼女、岡田千代さんは、阿部くんのレッスンにやってきた。その時は、すでに先に入会していた生徒が何人かいた。その中に、伊能蘭の妻アリスが来訪していた。

「それでは始めましょう。今日は、ライ麦パンの入門と言われるロッゲンミッシュブロートを作ります。材料は、、、。」

そう言って阿部くんは、ロッゲンミッシュブロートの材料を説明し始めた。そして、またパンこね機に材料を投入し、パンこね機を操作しながら、生地を作っていく。

「あなたは、初めてですか?」

アリスが、千代さんに聞いた。

「ええ。パン作りなんて経験が無いんですけど、頑張ってマスターできたらいいなと思います。」

千代さんはそう答える。

「そうなんですね。じゃあ、ご主人と一緒に食べるのかな?」

アリスがそう言うと、

「主人はいないんです。」

千代さんはそう答えるしかなかった。

「まあそうですか。それでは、まだ独身なのかしら?珍しいわねえ。一人暮らしなのにパンを作りたくなるなんて。」

アリスがそう言うと、講師の阿部くんが、

「アリスさん、そうやって誰にでもべらべら喋るのはよくありませんよ。」

と、アリスに言った。

「ああ、ごめんなさい。あたしは決して悪く言ってるわけじゃないわ。それは、ちゃんをわかってちょうだいね。あたし、誰かにあなたのことを話すとかそういう事は全くしないわよ。それはわかってちょうだいね。」

アリスは、にこやかに笑っていうのであるが、それはかえって千代さんに、いけないことを聞いているのではないかと言うような気がした。

「千代さんは、ちょっと事情があって、パンを習いに来てるんです。アリスさんが、いくら友好的に話しかけようと言っても、人からなんでも聞き出したり、プライベートなことまで話させるのは、良くないと思います。」

「そうなの?ごめんね。あたしは、何も悪気はないわよ。ただ、おしゃべりなだけ。それは生まれ持った性格だからどうにもならない。それはごめんなさい。許してちょうだいね。」

アリスはそう言っているが、千代さんは、注意してくれた阿部くんを、意外そうというか、尊敬というか、不思議な感情を持って見つめていた。それはきっと、自分を女郎さんといってバカにすることなく、アリスに注意をしてくれた阿部くんのことを、千代さんは好きになったということなのだと思う。

「それではレッスン再開しましょうか。じゃあ、次は整形です。オカリナのような形に生地を丸めてください。」

二人は、ハイと言って阿部くんの指示に従った。そして、何回か発酵を経て、オーブンレンジで焼成し、ロッゲンミッシュブロートは完成した。これからは、パンを試食しておやつタイムということになる。アリスは当然のようにパンを食べて、コーヒーを飲んで、阿部くんに最近あったことや、仕事のことなどを話していた。アリスは、本当におしゃべりな女性だった。それは確かに、外国人ということもあって、陽気な性格なのかもしれないが、千代にしてみれば、自分の生活よりも何十倍の豊かな生活をしている、アリスの話を聞くのは、たまらなく苦痛だった。

「それでは、終わりましょうか。今日は、楽しくレッスンできて良かったです。」

阿部くんがそう言ってくれたのがやっと、救いだったような気がする。

「じゃあ、次のレッスンの予約するわ。次回は来月の20日だったかしらね。あたしは定期的に4週間後に来れないかもしれないけど、一応予約はしておくわ。」

アリスは手帳を広げて、阿部くんに言った。

「あなたも予約しないの?あ、もうパンを作るのは嫌になっちゃった?」

アリスが、そう言ってくるのが、千代さんはとても嫌だった。まるで、自分がレッスンに来られないことを、バカにしているというか、嫌味を言っているような感じの言い方だった。

「嫌になったわけではありません。でも、どうしても用事があって、私は、次の予約ができないんです。」

千代さんは、正直に答えると、

「まあ、若いお母さんですから、育児のこととか、そういうことで色々ありますよね。いいですよ。無理しないで、来られるときだけ来てください。」

と阿部くんが優しく言ってくれたのだった。

「ありがとうございます。また、メールで連絡してもいいですか?その時に、今度の希望日程をお伝えできると思いますから。」

千代さんは、小さな声で阿部くんに言うと、

「ええ、大丈夫です。いつでも、お待ちしていますから、連絡くださいね。」

と言ってくれたので、千代さんは、阿部くんのことをじっと見つめた。アリスは、その見つめ方を、まるで江戸時代の文献に出てくる女性のような人ねと言ってからかったが、誰でもそういう事は、いつの時代でも変わらないのではないかと千代さんは思った。

「それでは、次回のレッスンでもよろしくです。今日はこのへんで、ありがとうございました。」

阿部くんがそう言うと、千代さんも、アリスも、ありがとうございましたと頭を下げる。本当はもっと長く、阿部くんの側に居たかったが、千代さんはこれ以上居ると、自分が女郎さんであることがバレてしまうのではないかと思って、すぐに店を出ていった。アリスがあのあと阿部くんになにか言ったかもしれないけど、自分は、もうあのパン屋さんに行くことは、できないのではないかと思った。それは何処かに悲しいところがあって、辛いものがあった。もうあの阿部くんには二度と会えないということか。それは、一言で言うと、寂しかった。本当に寂しかった。こんなに、彼のことを好きになったということを、千代さんは初めて知ったのであった。千代さんは、涙をこぼしながら道路を歩いた。できることなら、女郎なんて職業はやめて、もっとマシな仕事に就きたいと思ったことはいくらでもあったが、それまでは自分の力で思いを断ち切ることができた。でも、今回はそれができなかった。それほど、千代さんは阿部くんのことがすきだったのだ。

そうこうしているうちに、自分の足は、自宅へ戻っていた。とりあえず、女郎屋が用意している寮へ入るということはなく、安いけれど賃貸マンションに住めることは幸せなことかもしれなかった。理由は、息子が居るので、女郎さん同士の喧嘩が絶えない、寮に住むことは避けたかったためである。千代さんは、鍵を開けて、そのマンションの部屋にはいった。マンションは、立地条件が悪く隣の工場の匂いで充満していた。これが仁王なんて、相当工場も忙しいのかなと思った。

「ただいま。」

千代さんは、そう言いながら寝室に行った。本当は五歳くらいの子供であれば、もう子供部屋を作ってもいいと思われる年頃であるが、千代さんは未だに自分の布団の隣に息子を寝かせていた。そうしないと、息子の体調が悪くなったのを気付け無くなるおそれがあるためだ。

「おかえりママ。」

五歳の息子は、布団の上におきた。千代さんは、鼻水を垂らしながら布団に座っている小さな息子を見て、ああやっぱり、自分はパン教室なんかに通っていられる身分ではなく、彼のためになんとかしなければ行けないと思いなおした。

「ママどうしたの?なんで泣いてるの?」

五歳の息子は、そう聞いてくる。

「ううん、ごめん。ごめんね。なんでも無いのよ。それより具合はどう?何もなかった?」

千代さんは、息子の顔を見てそういうことを聞いた。

「大丈夫だよ。」

息子はそう答えるが、その答えは正確なものとは言い難かった。まあ確かに、五歳なんて、自分の病状を正確に言える年でもなかった。千代さんは、息子の額に手をやったが、やはり額は熱かった。

「大丈夫じゃないでしょ。熱があるから、おくすり飲んでおこうか。」

とりあえずそれだけ言って、息子に水のみを渡して薬を飲ませ、布団に寝かせた。こういうわけだから、自分は女郎さんを続けなければならないんだと千代さんは感じた。少なくとも、女郎屋が用意してくれる、寮に住んでいなくて良かったと思った。

外は桜が満開だった。ソメイヨシノという桜は、殆どが本物ではないという。人為的に作られた美しさであっても、桜はやはり美しいと感じてしまうのだった。そういうところが、うつくしさと儚さを持ち合わせているのかもしれなかった。


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癒やしのライ麦パン 増田朋美 @masubuchi4996

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