さだかでない話
尾八原ジュージ
杉山先生
紫と黄緑の頭がおかしくなりそうなペイズリー柄を見て、私は突然杉山先生のことを思い出した。
高校のときの古典の先生である。男、年齢不詳、なぜかいつも白衣で撫で肩。まつ毛が長くて口をもごもごさせて喋るので、一部の生徒から「ラクダ」と呼ばれていた。その先生がよく、これに似たサイケデリックな柄のネクタイを締めていたのだ。
杉山先生の授業は概ね退屈だったけど、たまに面白い時間が発生する。この人は妙な引きがあって、日常におかしなものがインしがちなのだが、それを授業の途中で「あのなー」と話し出すのだ。女子高生の私は、そこに妙に心惹かれたものだった。
「あのなー、最近おれんちのポストん中でコオロギが死んでてな」
その日もそんな具合に、先生はよくわからない話を始めた。
「その辺にペッて捨ててな、ほっといたらなくなってたんだけどその次の日な、今度はポストの中でアマガエルが死んでんだよなー。外傷とかなくてな、わからんけどそれもその辺にペッて捨てたらやっぱ鳥とか持ってっちゃうんだろうな、なくなっててなー。そんで次の日はスズメが死んでて、その次はこんくらいのドブネズミが死んでてな、もうスズメくらいからポストに勝手に入るものかだいぶ怪しいんだけど、でも鍵はちゃんとかけてるしな、変なんだよな。で、そのドブネズミ入ってたのが実は昨日の話なんだよな。今日は何なんだろうって先生、帰るのがちょっと憂鬱でなー」
みんなリアクションに困りながらも静かに聞いていた。なにそれ? というクエスチョンマークが教室中に飛び交っていた。あの話って結局どうなったんだっけ? 先生、続きは話してくれなかったんだっけ?
という、もう十五年くらい昔の出来事を、一週間ぶりに出張から帰ってきた夫が着ていたTシャツを見て、突然思い出したのだ。紫と黄緑のペイズリー柄。
「何その服」
「ホテルのパジャマが合わなくて、古着屋で適当なやつ買った」
「なんでそんな派手なの買ったの?」
「なんか面白いじゃん」
せっかくなので夫に杉山先生の話を聞かせると、ドブネズミのところで「その話さ、だんだん死体が大きくなってるよね?」と言い出した。
「そうなんだよね」
私は相槌を打ってコーヒーを啜る。その先どうなったんだっけ?
「それいつか人間になるやつだよね」
さもない顔で夫が言う。「人間の死体がポストに入ってるやつだ」
「まさか」
そんなオチがついていたら、さすがに覚えていると思うのだが。
気になって仕方がないので、高校のときのクラスメイトにひさしぶりに連絡をとった。ビデオ通話越しに懐かしい顔を見ながら、私は杉山先生の話を語って聞かせた。
『ああ、ラクダみたいな先生いたね』彼女はポンと手を叩く。『そうそう、たまに変な話する人だ。その話も覚えてるよ』
「この話のオチってどんなんだっけ?」
『うーん、それは覚えてない……ていうかさ、杉山先生って、年度の途中で辞めちゃったんじゃなかったっけ?』
「そうだっけ?」
そういえば古典の教師が別の人に変わったりしたっけ。すっかり忘れていた。もっともあの狂ったようなペイズリー柄のTシャツがなければ、きっとまだ忘れたままだっただろう。
『そうだよ。そうそう』
友達は突然堰を切ったように喋りだす。
『なんかあれ、辞めたっていうか亡くなったんじゃなかった? そーだそーだ。見たもん。駅のとこでさ、両腕がなくって服の袖がペラペラになった杉山先生が』
「えっ、死んだの? 死んでないの?」
『死んでるよぉ。だって、フフフッ、先生ってば階段のとこでさぁ、フワフワ浮いてたもん。ハハハ』
友達が笑いだす。
いつのまにか画面に映る彼女の後ろに、人影が立っている。灰色のスラックスに白衣、紫と黄緑のペイズリー柄のネクタイ。顔は見えない。
『アハッアハッあのさー、そういえば最近おかしなことがあってね』
聞いてはいけないものを聞いてしまう気がして、私は勝手に通話を切った。バタバタと立ち上がると、洗濯かごの中に入っていた夫の、例のペイズリー柄のTシャツを取り出し、指定のゴミ袋に突っ込んだ。
こんなものがなかったら杉山先生のことも何もかも思い出さずに済んだのに。そういう恨めしい気持ちで外に出て、マンションの二十四時間捨てられるゴミ捨て場に放り込んだ。
ちょっとだけ安心しながら部屋に戻る途中、習慣に従って自宅のポストを確認した。ガス会社からの明細の上に何か黒っぽいものが乗っかっている。
コオロギの死骸である。
さだかでない話 尾八原ジュージ @zi-yon
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