第13話  可能性の雲

「現実という言葉を我々は当たり前のように、何気なく使っている」

 

 アルカーナがクッションに腰掛けたまま、話を始めた。


「たいていの人間は、現実はただ一つの絶対のもの、そう信じている。違うか?」


 その問いに、俺はうなずいた。


「そりゃそうだろう……現実が二つも三つもあったらえらいことだ」


「やはりな」


 アルカーナがかぶりを振った。


「ウル・ジャファル……お前の考えは、ある意味では正しい。そう、現実はただ一つだ。だが……それは、『お前が認識している現実が一つ』というだけで、実は現実を認識する主体ごとに、無数の現実が存在しているとしたら?」


 なんだか難しい話になってきた。現実を認識する主体?


「ああ……つまりそれは、人間、一人一人によって見ているものが違うとか、そういう話か?」


「ほほう」


 アルカーナがいささか驚いたように言った。


「ちゃんと理解しているではないか。そうだ……認識する主体とは、五感を使って現実を知覚する者……つまり、人間とか、動物とかそういったものすべてだ。この世界に、絶対的な現実は存在しない。すべては、現実を認識する主体によって変わりうる……これが、幻術師の基本的な考え方だ」


 すっとアルカーナが目を細めた。


「だが、それもなんていうか、納得がいかねえな」


 俺は言った。


「確かに人によって、物の見え方とか、とらえ方は違うかもしれない。でも……それは、『唯一の現実』を『どう解釈するか』ということじゃないのか?」


「違う」


 アルカーナは断言した。


「誰かが認識しただけの現実が、この世には存在する……絶対唯一無二の現実など、最初からありはしない。あるいはこう言い換えてもいいだろう……この世界そのものが言うなれば幻のようなもので、我々はそのなかでもっとも現実らしいものを『現実だと思いこんでいる』ようなものだと」


 正直、ここまで言われるともうついていけなかった。


「どうにもわからねえな。人によって現実が違って見えることまでは理解した。だが、現実も幻の一つみたいなことを言われたって……」


 するとアルカーナは、ジョナ茶の入った碗をかかげて見せた。


「ウル・ジャファル? これは一体、なにに見える?」


 それを聞いて俺は言った。


「ジョナ茶の入った碗、だろう?」


「なぜそう思う?」


 俺は眉をひそめた。


「なぜって……そりゃ、目に見えるからさ」


「では目が見えない人間には、これがジョナ茶の入った碗だとはわからないのか?」


 また話がややこしいことになってきた。


「いや……そりゃ、手触りとか、あとジョナ茶の味を確かめてみたりすればわかるだ

ろうよ」


 アルカーナがくすくすと笑った。


「その通りだ。つまり我々は、見たり、触れたり、嗅いだり、聞いたり、味わったりすることで現実を認識している。これを五感という。だが、現実を認識する過程はただ五感で感じるだけじゃない。心とか、意識とかよばれるものが、この五感を情報として判断して、我々ははじめて世界に存在するさまざまなものを、『認識』できるのだ。だが、もしその過程に、なにか異常が生じたらどうなると思う?」


「うーむ」


 俺は腕組みして考え込んだ。


「つまり、なにもないはずの場所に見えないものが見えるとか……」


 そこまで言って、俺ははっとなった。


「ちょっと待て、それって……」


「そうだ」


 アルカーナはうなずいた。


「それこそが幻術の基本だ。人間が現実を認識する過程に強引に割り込み、偽の現実を与える。さっき、お前にやったように、優れた術者ならば五感すべてを騙すことも可能だ。さきほどの『キシュススの悦楽亭』は良くできていたろう?」


「ああ、まあな」


 あの幻のなかでの会話を思いだして、なんとなく俺は不快な気分になった。


「だが……ウル・ジャファル。もしあのまま、つまりお前に幻術をかけたまま、放置していたら……お前は、あそこが『偽物の世界』だと……幻によって生み出された場所だと、看破できたか?」


 俺は思わず黙り込んだ。


 確かにあの世界はあまりにも、なんというか現実的すぎた。ただの幻とは思えない迫真の迫力があった。


「幻術とは……そういうものなのだ。人間の認識に働きかけることによって、現実の在りようそのものを変えてしまう……その究極が、幻想を恒久的な現実に変える、いわゆる『現想』なわけだが」


 アルカーナがジョナ茶を口にした。


「なにも現想に限らずとも、幻を半ば現実にかえるものもある。たとえば、幻のはずの炎でも、相手が信じ込めばそれで火傷を負わせることも可能なのだ……」


 さきほどの暗殺者との戦いで、俺は幻の放った斬撃をうけて怪我を負ったと勘違いした。だから、そのあたりの理屈はもうわかっているつもりだ。


「これは、きわめて興味深いことだとは思わないか? つまり、幻だったはずのものが、認識する者しだいによって一時的とはいえ、『現実』にすりかわってしまう……」


 アルカーナの言うとおり、不思議といえば不思議な現象だ。まあ、魔術なんて俺にいわせりゃみんな不思議なものではあるが、幻術というのは確かにこうしてみるとなかなか面白い。


「幻術師の間では、こういう考え方がある。我々が住んでいる現実は常に揺らいでいる。それを誰かが『現実だと思いこむ』ことで、本当に現実になってしまう……」


「さっきの、見るものによって現実が変わる、みたいなものか」


 俺の科白に、アルカーナがうなずいた。


「この世界には、様々な可能性がある。現実は一つではなく、誰かが『現実だ』と思った瞬間に、一つの現実が確定する……」


「なんだか雲を掴むような話だな」


 アルカーナが苦笑した。


「まあ、これは幻術師の間でも意見の割れている議論だしな。だが、少なくとも私は、幻術の本質は、この『可能性の雲』に深くかかわっていると思う」


「可能性の……雲?」


 再びアルカーナがジョナ茶をすすった。


「そうだ。可能性が、文字通り、雲のように私たちのまわりを取り巻いている。たとえば、ウル・ジャファル……お前はいま生きているが、もし運が悪ければ、あの大年増のヴィーヒーナのひきつれていたどこかの結社の暗殺者連中に殺されていたかもしれない」


 その可能性は、確かにあった。


 いや、正直にいえば四人もの暗殺者の襲撃に立ち向かえたのは、アルカーナが幻術で支援してくれていたからだ。さらにあそこでは俺にある種の、ツキというか幸運が働いていたと思う。


 むしろこうして生きのびいているほうが奇跡に近いのだ。それを考えると、ぞくりと背筋に寒気がした。


「可能性の雲は……お前があの場で殺される、もしくは生きのびる、という二つの可能性を含んでいた……だが、お前が生きのびたために、『お前が死んでいた可能性』は消滅したわけだ」


 俺が死んでいた可能性。そんなのは、考えたくもなかった。


「だが、もしそうした可能性を、ある程度、操作できるとしたら?」


「可能性を……操作する?」


 俺はごくりと唾を飲み込んだ。

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