第12話  幻術講義

「馬鹿言うな!」


 俺はなぜか妙な不安を覚えて叫んだ。


「まあ……この部屋にあるものがどれだけ幻術で生み出したもので、どれが現実にあるものかはしらんが……ここは、現実だ……」


 そのはずだが、なぜか俺のなかの不安は高まっていった。


「なぜそう断言できる?」


 アルカーナが、どこか冷酷な笑みを浮かべた。


「いったいなにをもってお前は現実と幻を区別するというんだ、ウル・ジャフル?」


「そりゃ、なんていうか……」


 俺は必死になって言葉を捜した。


「幻影ったって、たとえばさわったりすればすぐにわかる……」


 いや、そんなとこはない、と俺は思い出した。


 さきほどの暗殺者たちとの戦いの際、俺は左肩を負傷したと思った。だがそれは、あのヴィーヒーナという女幻術師の生み出した幻の暗殺者による「幻の傷」だったのだ。


「とにかく……幻術には違和感があるんだ。だいたい、本物とは違って、幻術はいつまでも持続するわけじゃ……」


「その気になりさえすれば、人間の寿命よりも長く続く幻術を仕掛けることは可能だぞ」


 アルカーナの灰色がかった緑という得体のしれない色合いの瞳が、どこか不気味に見えてきた。


「たとえばこういうことはありえないか? ウル・ジャファル。お前は長い幻を……そうだな、夢のようなものをずっと見ているんだ。実はお前はまだ、『キシュススの悦楽亭』のカウンターで幻術を見ている。そして、ここからいままでの事はすべて幻術だとしたら……」



 俺ははっとなって顔を起こした。


 一体、なにが起きたというのだ。


 記憶が酷く混乱している。まるでたちの悪い夢でも見ていたようだ。


 目の前には、ハリムドの顔があった。このキシュススの悦楽亭の、主人である。


「どうした、ウル・ジャファル?」


 宦官奴隷出身の安酒場の主人が、つるりとした顎をかいてみせた。


「なんかひどい顔色をしているぞ?」


「あいにくと顔が黒いのは生まれつきでね」


 そう言って悪態をついてみせたが、なにか不気味な感覚は消えなかった。


 なにか大事なことを忘れている気がする。なにかひどく重要なことを……。


「そうだ、アルカーナは?」


 俺は思い出した。アルカーナ。小生意気な白い肌のガキとさっきまで話をしていたのだ。


「アルカーナ?」


 ハリムドは顎をかきながら言った。


「誰だね、そりゃ?」


 おいおい、と俺は舌打ちしたい気分になった。


「冗談きついぜ、ハリムド! アルカーナっていえば、『現想師』の名を継いだ……いや、まだ継いでいなかったんだったか……とにかく、すごい幻術師で……」


 俺がアルカーナの説明をすると、ハリムドが笑った。


「おいおいウル・ジャフル! なにかガランシドとか、たちの悪い麻薬でもやってるのかい? 帝国でも禁制になっているようなたちの悪い奴じゃあるまいな? いくらここがキシュススの、つまりは慰安と享楽を司る神の名をとった店といっても、あんまり度が過ぎた麻薬でおかしくなられると困る」


 なにかがずれている。だが、なにがずれているのか?


「だいたいそんな子供みたいな幻術師だなんて馬鹿な話、聞いたことない。それともお前さん、まさか妙な趣味が……」


「俺はヌラノークの気はねえよ」


 ヌラノーク神は性倒錯と異常性欲の神だ。


「ただ……本当に、アルカーナはいたんだ。別に俺はイシャクだのガランシドだのといった麻薬でおかしくなってるわけでもねえし……」


 いや、本当にアルカーナなんて娘はいたのだろうか?


 あらためて周囲を見回すと、にぎやかな騒ぎが続いていた。酔漢たちに娼婦がしなだれかかり、嬌声をあげている。あちこちで酒がこぼれて床に汚いシミをつくっている。


 わっという笑い声。乾杯の音頭。かすかに漂う紫煙は、煙管に詰めたイシャクの煙だろうか。


 ここは……限りなく現実に近いように見える。


 いや、どう見ても現実だ。



 気がつくと、俺はジョナ茶の碗を片手に、アルカーナの塔のなかの、赤絨毯が敷かれた部屋にいた。


 目の前でくすくすとアルカーナが笑っている。


「なんだ、さっきのは……」


 俺の声は震えていた。


「さっきまで、俺は確かにキシュススの悦楽亭にいて……」


 だが、いま思い返してみればさきほどの出来事はおかしなことがある。


 たとえば、俺はあの店に行ったのは今夜が初めてのはずなのだ。それなのに、ハリムドは俺とまるでなじみの常連のように話していた。


 他にも、たぶん俺が気がついていない、細かい違いはあったのだろう。


 にもかかわらず、俺はさきほどの出来事を、おそらくは「現実」として認識していた。


 手を見ると、びっしりと肌が粟立っていた。なんだか気分が悪くなってくる。


「アルカーナ!」


 俺は不快感を隠しきれずに叫んだ。


「たちの悪い冗談はよしてくれ! 俺は……俺は……」


「ああ、悪かった」


 だが、アルカーナはどこか愉しげにくすくすと笑っていた。


「ただ、ウル・ジャファル……お前に『現実とはなにか』ということを理解して欲しかったのでつい、やってしまった。これから我々が向かう『幻想宮』は……おそらくは、こうした罠も無数に仕掛けられているだろうからな」


「つまりは……現実と錯覚させる幻術……ということか?」


 アルカーナはうなずいた。


「だからこそいまのうちに、お前にはこうしたことに慣れておいてもらわねば困る。お前が無邪気にも堅牢だと思いこんでいる現実というものが、実はいかにあやふやでたわいないものか、をな」

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