第10話 長い戦いの序章
「がっ!」
あまり大した勢いではなかったので斬撃の速度はさほどでもない。
とはいえ、重い刃物で胸を傷つけられれば無傷でいられるわけもないのだ。
どうやら外套の下に、革や詰め物をつかった軽装の鎧をまとっていたようだが、俺の曲刀は相手の胸を無惨に切り裂いていた。返り血を浴びなかったのは相手の衣服により大量の出血が吸い取られていたせいだ。
俺は左手と脇で挟んでいた相手の手を離すと、相手に足払いをかけた。転倒した男の喉元にむかって、冷酷な動作で曲刀をたたきつける。
「ひっ」
頸骨で刃が止まる感触とともに、大量の鮮血が噴き出してきた。濃密に血臭に思わず吐きそうになる。
敵はあと二人。
そう思った瞬間、左肩のあたりに灼けるような痛みを感じた。
振り返ると、フードをかぶった敵は短剣を手にしていた。
待て。
見ると、俺は十人近い敵に、あたりを囲まれていた。
こんなはずがない。いままで敵は四人しかいなかったはずだ。それともまさか、これほど大量の敵がどこかに隠れるか、幻術で姿を隠すかしていたというのか?
違う、と思った。
逆だ。こいつらのほとんどは、あのヴィーヒーナとかいう女幻術師の生み出した幻影にすぎないのだ。
では本物は……誰だ?
そのとき、アルカーナが再び呪文を圧縮詠唱したとおぼしき、まるで異界の言語のような声が聞こえた。
次の刹那、俺を負傷させた男も含めて、ほとんどの暗殺者の姿が溶けるように消えた。
ではこの肩の痛みはなんだ?
高度の幻術は、視覚だけではなく他の感覚にも強烈な錯覚を生み出すという。つまりこの肩の傷すらも、実は幻なのだ。俺は負傷などしていないのだ。
理屈ではわかっている。だが、曲刀を振り上げた左肩がやけに重かった。これは幻術だ。これは幻術だ。これは幻術だ。
いつのまにか赤い人影も姿を消している。おそらくアルカーナの幻術も、ヴィーヒーナによって無効化されたのだろう。となれば、あとは普通に戦って決着をつけるしかない。
が、黒衣の男はついとアルカーナの無防備な後部にむかって近づいていった。
まずい。アルカーナはなにか新しい術を詠唱しようとしているため、精神を集中している。このままでは、後ろからやられる。
「アルカーナ!」
俺がそう叫んだ瞬間に、アルカーナは肩から斜めに、背中を断ち割られていた。
恐ろしい量の鮮血が噴き出していく。そんな馬鹿な、と俺は思った。
アルカーナが、ウル・ゾンキムでも有数の幻術師がこんなにあっさり、やられていいはずがない。
だが、どんなすぐれた幻術使いとはいえ、肉体的にはアルカーナは非力な少女にすぎないのだ。こうして殺される、ということも十分にありうることだった。
「そんな……」
途端に、怒りが頭蓋を支配した。
素早くアルカーナを切り倒した暗殺者のもとへと俺は駆け寄っていった。せめて、彼女の仇を討ってやるのだ。
が、暗殺者の体に異変が起き始めていた。
その体に浴びたアルカーナの返り血が、まるで蜘蛛の糸かなにかのように男の体を縛り始めたのである。
フードがはらりと後ろに落ち、恐怖にひきつった男の顔が見えた。
さらにおぞましいことに、男を縛っていたアルカーナの返り血のいたるところから、赤い蛇の頭のようなものが生まれていた。その蛇が、一斉に男にむかって噛みついていく。
「ぎゃああああああああああ!」
凄まじい悲鳴が聞こえた。
男が絶叫した次の瞬間には、その体は横倒しに倒れていた。まるで心臓に発作でも起こしたように。いや、実際、そうなのかもしれない。
アルカーナの声が聞こえてきたのはそのときだった。
「馬鹿者! なにをしている、後ろだ! ウル・ジャファル!」
俺はほとんど反射的に、踵を支点にするようにして体を右回転させ、よこざまに曲刀を振り回した。
ちょうどその曲刀の軌道が、背後からこちらの頭蓋を断ち割ろうと曲刀を振り上げていた暗殺者の腹に食い込む。刀身が皮膚と臓腑を食い破っていくおぞましい感触とともに、男が脇腹を押さえたまま頽れていった。
まだ心臓の鼓動がおかしいままだ。
だが、アルカーナの幻術の助けを借りてとはいえ、四人もの暗殺者を俺は、倒した。
いや、待て。
アルカーナは、さきほど後ろから切り倒されていたはずだ。あんな一撃をうけて、とうてい、人間は生きのびられるはずがない。
だが、アルカーナの声で俺は助けられた。あるいは、あれは死者の声だったとでもいうのか。
「馬鹿野郎……」
俺はアルカーナのすでに冷たくなっている死体にむかって、ゆっくりと近づいていった。
「なんだよ……せっかく、知り合ったばかりだってのに、こんなところで死んでどうするんだよ、お前……」
その刹那、アルカーナの死体が、唐突に消失した。
そこには黒い石畳が敷かれた路地があるだけだ。
「愚か者。私がそう簡単に死んでたまるか」
はっとなって振り返ると、アルカーナの姿が見えた。
間違いない。こんなチビで生意気そうな面をした奴は、本物のアルカーナに間違いない。ついでにいえば胸もぺたんこだからこれはもう確証といっていい。
「馬鹿者……貴様、どこを見ている!」
アルカーナの顔が、怒りのためか真っ赤にそまった。間違いない。こいつは本物のアルカーナだ。
「しかし私の幻術の助けを借りてとはいえ……なかなかやるな、ウル・ジャファル」
アルカーナが満足げに言った。
「ところで、あの女はどこに行った?」
「あの年増か」
憎々しげにアルカーナが吐き捨てた。
「あいつは勝ち目がないと悟ると、さっさと逃げたようだ。しかし、虹蜥蜴の幻想兵を送っていやがらせをする程度なら可愛いものだが、ここまで本格的な襲撃を仕掛けてくるとはな……」
路地には、俺が斬った四人の暗殺者の死体が転がっている。どう見ても、それは幻影ではなかった。
「どうやら私が『血の炎』から盗賊を雇ったと聞いて、あの年増も本気になったらしい。あの女は私がすでに『メレンマーガの魔石』を手にいれていると思いこんでいるようだしな」
「つまり……」
俺は言った。
「あの、ヴィーヒーナとかいう幻術師は、本格的に俺の敵にまわったと考えて間違いない、ということか」
俺の言葉に、アルカーナが静かにうなずいた。
天では相変わらず幻術を司る赤の月が輝いている。
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