弐
澄んだ蒼穹が美しい、とある晴れの日のこと。
時折溜息を零しながらも、周は何かを探すように裏庭を歩いていた。
「花霞、そろそろ機嫌を直して出てきてくれないか?」
周が控えめな声音で呼んでいるのが聞こえるが、機嫌を損ねた花霞は敢えて聞かぬ振りである。
その姿は人に見える形を成してはいない。
些細な事ではあるが、花霞は周の一言に腹を立てて、姿を消したのだ。
困惑した面持ちの周は、謝罪を口にしながら先程から花霞の姿を探してああしている。
彼の手に、好物のキャラメルがあるのが見えるが見ない振り。
とろける甘味を浮かべると揺らぐものがあるが、菓子につられて現れるなど童であるまいし、と渋面を作る。
だがしかし、あまり苛めすぎても可哀そうだから、もう少ししたら姿を見せてやってもよいか。けしてキャラメルが貰えなくては困る、などと思ったわけではない。
そんな事を考えながら辺りを見回し花霞を呼び続ける周を見つめていた時、不愉快な響きがと耳に飛び込んできた。
「おや、兄上。散策ですか?」
「
そこには軍服の青年が立っていた。
兄を周を呼んだ青年の名は健人、紛れもなく周の弟である。ただし、腹違いの。
ただし、その面差しに似た処は一つとしてない。
母親が違うから当然かとも思うが、感じる差異はそれだけが理由ではなかろう。
落ち着いた雰囲気を纏う流麗で端整な面立ちの周に対して、健人は逞しくはあるものの武骨で、荒々しく尊大な印象を与えるのが否めない。
兄弟といえどもこうも違うのかと思う花霞の琥珀の先で、似ていない兄弟は会話を続ける。
「女の名が聞こえたような気がしましたが」
「……気のせいだろう。独り言の癖がついてしまってね」
何気なく手にした菓子を懐にしまうと、周は穏やかに笑いながら言う。
その佇まいに何も臆したところもやましい様子もない。
それ以上追及する気はないのか、鼻を鳴らして健人は沈黙する。
弟の軍服の徽章に目を遣りながら、周は続けて言葉をかける。
「配属先ではうまくやれているのか?」
「……お蔭様で。庭をうろつく暇がある兄上が羨ましく思う程には忙しくしております」
健人が口にしたのは、隠す事ない周への侮蔑であった。
花霞の眉が明確に寄る。
それと同時に、ざわりと花の梢が揺れた。
風もないのに騒めきはじめた桜の木に不気味なものを見る様に蒼褪め顔を歪めた健人を見ながら、周は苦笑しつつ溜息をひとつ。
言葉にはしていないものの、これが花霞の仕業である事に気付いているのだろう。
周は、健人が怯えている事に気付かぬ振りをしながら続けた。
「身体を大事に務めに励んでくれ。父上と義母上をよろしく頼む」
「……言われなくてもそうしますよ! それが俺の役目ですからね!」
捨て台詞を放つと、何かに追い立てられるように健人はその場から立ち去っていく。
残されたのはその背を見送る兄一人。
「……わらわの姿を見た途端、ぴいぴいと泣いていた童が随分偉そうな顔をするようになったものよ」
「あれでも、立派な軍人になったんだ。そう言わないでやっておくれ」
ふわりと衣をゆらして現れた花霞の言葉に、嘆息しつつ苦笑いを浮かべる周。
かつて、気まぐれを起こしてあの弟の前に一度姿を現した事があった。
家人に持ち上げられるのをいいことに、跡取り気取りで周に憎まれ口を叩いた事が気にくわなかったのを覚えている。
豪胆を気取っていた子供は、見る間に顔色を無くすと、お化けと叫んで泣きながら逃げ出したのである。
大した勇者よと呆れながら見送った記憶は、花霞の感覚では比較的新しいものである。
「しがない予備役の兄に比べたら、優れた弟だよ」
言わせっぱなしでいる周を歯がゆく思うが、花霞はそれ以上を言えない。
本来であれば、元は妾腹の次男よりも正妻腹の嫡男である周のほうが重んじられる筈なのだ。
後妻となった母を持つ健人は今では立派に嫡子ではある。
しかし、弟がああまで増長するのは理由は、それだけではないのだ。
周は士官学校を優秀な成績で卒業し、軍人としての将来を嘱望されていた。
人を惹きつける理知的な気性に文武に優れた青年の唯一つの瑕疵が、母から継いでしまった蒲柳の性質だった。
生来病弱に生まれ付いた周は、長じるにつれて持ち直したかに見えた。
士官学校に進み軍人の家門の長男としての務めを果たすという周を、花霞は幾度も止めた。
しかし、長らくの無理がたたって晴れて軍人として歩み始めたという時に、周は倒れた。
勤めを続ける事は難しいという判断が下され、予備役に留められる事となってしまった。
父親は家名を汚したと罵り、後妻と弟は笑みを浮かべた。
まるで穢れのように周を扱う父親は、人前に姿を見せるなと寂れた裏庭の離れに周を閉じ込めた。
奇しくも、彼の母親が名ばかりの正妻として閉じ込められた場所である。
花霞は憤慨しても、彼女にはそれを覆せる程の力はない。人の世に介入するだけの術がない。
懊悩する彼女を止めたのは周だった。
こうして花霞と共に過ごせるのだから、却って良かったと笑うのを見てどれ程切なかったか。
兄を軽んじる態度は、健人が士官学校へと進み、軍人の道を歩き出してから尚更顕著となった。
役立たずの兄に代わり、自分がこの家を継ぐのだという驕り故に、時折兄の元を訪れては蔑んでいく。
周は、それをただ受け入れるだけ。
哀しい、辛い、花霞は襲の袖を握りしめる。
周が、世捨て人のように一人置かれて居る事が、腹立たしくて仕方ない。
それを助けてやるだけの力が無い事が、歯がゆくてならない……。
「花霞」
不意に、温かさに包まれた。
気が付けば、周に大きな腕に抱き締められている事に花霞は気付く。
広く力強い腕に、かつて抱き締めるのは自分のほうであったのにと少しばかり切なさが胸を過る。
花霞の小柄な身体を腕に留めながら、周は呟く。
「私は、花霞が居ればいい。花霞が舞う姿を見て居られればいい」
世に望むものはそれだけだと言う周に、何故だか花霞は泣きたい心持ちを必死に堪えた。
かなしい、と思うけれど。
うれしいとも、しあわせとも、思う自分がいる事をおかしいと思った。
この腕が何時までも自分を捉えていてくれたならと願ってしまう自分を、花霞は心の裡で苦く愚かと呟いた。
世の中は侭ならぬものに満ちているのなら、せめて何時までもこのまま、二人で在れたら。
それだけが二人の間にある願いだった。
その願いに、偽りはなかった。
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