停止する世界

三鹿ショート

停止する世界

 平時と同様に、寝床で目を閉じ、朝日が顔を出す頃に覚醒したのだと考えていた。

 だが、病院で目覚めたとなると、私の頭が混乱しているのだろう。

 一体、何故私はこの場所で眠っていたのか。

 室内を見回していると、寝台の傍に座っていた一人の女性と目が合った。

 私が目を覚ましたことが嬉しいのか、彼女は涙を流しながら笑みを浮かべていた。


***


 私が覚醒したことを彼女から知らされると、医師は事情を説明してくれた。

 いわく、私は背の高い建物から落下したことで頭部に怪我を負った影響で、昏睡状態に陥っていたらしい。

 今日の日付を聞くと、どうやら数ヶ月は眠っていたようだ。

 医師の話を聞き終えたところで、私の記憶が不意に蘇った。

 繁華街に呼び出され、林立する背の高い建物の一つに向かうと、待ち構えていた彼らに娯楽を提供させることになった。

 その娯楽というのは、隣り合った建物の屋上から屋上へと跳躍するというものだった。

 助走による勢いがあれば飛び移ることは不可能ではないほどに、建物同士は離れている。

 しかし、私はそれほど運動能力が高くなかった。

 無傷で跳躍が成功する確率は、限りなく無に近い。

 確実に隣の建物に移動したければ、階段を使えばいいだけの話だ。

 万が一落下した場合はどうするのかと彼らに問うと、自己責任だと告げられた。

 そこで逃げ出すことが可能ならば、私は彼らに娯楽を提供する立場にない。

 ここで彼らに反抗すれば、落下による怪我よりも大きな傷を負うだろう。

 他者に聞こえているのではないかと思うほどに激しく動く心臓に手を当て、深呼吸を繰り返す。

 やがて屋上の縁から離れ、助走を開始した。

 追い詰められたときに通常とは異なる能力を発揮すると聞いたことがあるが、どうやらそれは偽りだったようだ。

 あと一歩というほどのこともなく、建物と建物の中間で、私は落下していった。

 死を覚悟したものだが、一命を取り留めたらしい。

 だが、運が良かったと言い切ることはできない。

 生きているということは、いずれ彼らと再会するということになるからだ。

 そもそも、何故彼らに目をつけられることになったのか。

 その理由を考えたとき、原因として真っ先に頭に浮かんだ存在は、彼らの中心人物が好意を抱いていた相手である。

 何を思ったのか、その人物は私に対して愛の告白をしてきたのである。

 緊張した面持ちから察するに、その想いは本気だったのだろう。

 しかし、私はその告白を受け入れなかった。

 もちろん、他者から好意を寄せられるということは、喜ぶべきことだ。

 だが、単純に、その相手は私の好みではなかった。

 冷たく突き放せば傷つくだろうと考え、学業を優先したいという理由を告げたが、その相手は親しい友人を殺害されたかのように泣き始めた。

 その光景を、彼らが目にしていた。

 事情は知っているはずだが、自身が私よりも劣っていたということが気にくわなかったのか、その日から、私に対する暴力行為が開始されたのである。

 殴られたことで顔面は腫れ、数本の歯が私の口内から旅立った。

 指が手の甲にくっつくかどうかを試された結果、人差し指と中指が折れた。

 木の枝が肛門に何本刺さるのかと実験され、記録は五本だった。

 一糸まとわぬ格好で校内を走り回されたこともある。

 幸いにも羞恥心はすぐに消えたが、肉体の痛みが消えることはなかった。

 しかし、病院でしばらく眠っていたためか、傷のほとんどは治っていた。

 彼らの愚行を感謝することになろうとは、想像もしていなかった。


***


 私が目覚めたことを知っているはずだろうが、彼らが病院に姿を見せることはなかった。

 さすがの彼らも、度を越した行為だと反省しているのかもしれない。

 その代わり、入院の間、彼女は毎日のように顔を出した。

 訪問は嬉しいが、日に日に増える彼女の傷が、心配でならなかった。

 彼女は、いわばもう一人の私である。

 彼女が目を付けられた理由は不明だが、私と同じように、とある連中に虐げられていたのだ。

 同じような事情を抱えていたためか、我々はいつしか交流するようになった。

 傷の舐め合い以外の何物でもないが、私と彼女にとって、互いの存在は貴重なものだった。

 だが、我々は揃って相手に恋愛感情を抱いているわけではない。

 単純に、仲の良い友人である。

 しかし、何かあれば駆けつけるほどの親密さだった。


***


 退院して数日が経過した頃、恐れていた事態に陥った。

 彼らが再び、私の前に姿を見せたのである。

 私が負った傷のことなど知らないとでもいうかのように、彼らの行為に変化は無かった。

 痛みが消えた傷跡が再び開き、拳で顔面を殴られたことで、意識が遠のいていく。

 気が付いたときには、塵捨て場に放置されていた。

 痛む身体を動かし、自宅へと向かったが、自身が考えているよりも体力を失っているらしい。

 休憩のために近くの公園に立ち寄り、長椅子に身体を横たえる。

 既に日が暮れているため、無邪気に遊ぶ子どもたちの姿は無い。

 瞬く星々を無心で眺めていると、不意に動物の鳴き声が聞こえた。

 視線を動かすと、一匹の野良猫の姿が目に入った。

 私を心配してくれているのだろうかと、思わず口元を緩めた。

 野良猫を呼び寄せるために、私は指を鳴らした。

 その瞬間、世界から音が消えた。

 騒々しかった自動車の走行音や、近くの学校から聞こえていた部活動の掛け声などが、一瞬にして消失したのである。

 彼らのあまりの暴行に、ついに私の脳味噌が異常と化したのだろうかと不安になったが、どうやらそうではないらしい。

 一羽の鳥が、空中で停止していたのだ。

 見間違いかと思ったが、私の体感にして数秒もの間、羽ばたいているはずの鳥がやはり全く動いていなかった。

 もしやと、私は己の指を見つめる。

 再び指を鳴らすと、世界に音が戻り、鳥が何処かへと飛んでいった。

 近付いてきた猫の頭を撫でながら、私は夢を見ているのではないかと考え続けた。


***


 どうやら、夢ではないらしい。

 私が指を鳴らすと世界は停止し、再び指を鳴らすと、世界は動き出すのだ。

 何故、私がこのような能力を有するに至ったのか。

 この世界を作り出しながらも何もかもを放置し続ける存在が、昏睡状態に陥った私を憐れみ、失った時間を取り戻す代わりとして、能力を授けたとでもいうのだろうか。

 理由は定かではない。

 しかし、これを使わない手は無かった。

 何に使うのかと言えば、当然ながら、彼らに対する報復である。

 呑気に道を歩く彼らの衣服を剥ぎ取り、人々が行き交う駅前に移動させ、時間を動かせた。

 その結果、駅前は悲鳴が飛び交い、官憲が駆けつけるほどの騒ぎとなった。

 もちろん、何が起きたのかを理解している人間は、私以外に存在していない。

 だが、これだけで済むほど、私の恨みは軽くは無かった。

 飲料水を口にしようとしたところで時間を停止させ、その中身を泥水と入れ替えた。

 用を足していたところで指を鳴らすと、授業を行っている教室の中央に身体を移動させた。

 男女の関係にある人間との行為の最中、動きを止めると、女性を彼らの仲間の一人と入れ替え、より親密にさせた。

 次々と襲いかかる異常事態に、彼らは追い詰められていった。

 やがて、彼らは私に対して暴力行為を働くことを止め、家から出てくることがなくなった。

 私の報復は、上手くいったということになる。

 だが、時間を停止させるという私の特異な能力は、未だに健在だった。

 この能力を使えば、抱いた欲望を叶えることなど、容易いだろう。

 しかし、私は汚れた人間ではない。

 私のように、理不尽に傷つけられる人間のために、この不可思議な能力を使うべきではないか。

 私に感謝の言葉を述べる人間は存在しないだろうが、被害者が一人でも減り、加害者が一人でも消えることで、私は満たされるのである。

 早速、私は街に出ることにした。


***


 被害者は、想像以上に存在していた。

 それでも、私の手の届く範囲では、目に見えて理不尽に苦しむ人間が減っていた。

 心なしか、道を行く人々の表情が明るい気がする。

 私の行為は、間違っていなかったのだ。

「何か、良いことでもあったのですか」

 無意識に口元を緩めていたのか、隣を歩いていた彼女がそう問うてきた。

 今や、彼女も平穏な日常を過ごすことができている。

 ゆえに、こうして私と並んで街を歩くことが可能となったのだ。

 説明したところで異常な人間だと思われるだけだろう、私は何でもないとだけ答えた。

 彼女は特段気にする様子を見せることなく、歩を進める。

 やがて、目的地である飲食店が見えてきた。

 楽しみにしていたためか、彼女は私に声をかけながら、先に早足で向かっていく。

 慌てて後を追おうとしたところで、私はその自動車を見た。

 赤信号であるにも関わらず速度を緩めようとしないその自動車の運転席には、気を失っていると思しき人間が座っていた。

 彼女もまた自動車の存在に気が付いたが、逃げ出すための時間は無かった。

 だからこそ、私は指を鳴らした。

 時間を停止させているうちに、彼女を安全な場所へと避難させるのである。

 指が鳴ると同時に、彼女の肉体は宙を舞った。

 時間は停止することなく、悲鳴が木霊する。

 私は、間抜けにも、何度も指を鳴らし続けた。

 だが、世界に変化は無い。

 止まない悲鳴を耳にしながら、己がいかに脳天気であるのかを悟った。

 突如得た能力を何時までも保有し続けることが可能だと、誰が説明したのか。

 もしかすると、私が病院で眠っていた時間と同等の時間を停止させたために、能力を取り上げられたのかもしれない。

 しかし、そんなことに気が付いたところで、今さらどうなるというのか。

 自動車に吹き飛ばされ、街路樹に引っかかっている変わり果てた姿の彼女を目にすると同時に、私は意識を失った。

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