第16話 夜をぶっ飛ばして生き残ってやる【研究室】

 朱音は石黒の案内で階段を上り、食堂に移動する。そこで、遅めの朝食ブランチとして、石黒がキープしていたというご飯がセットになったレトルトカレーをレンジで温めて食べた。さらに「甘いものは好き?」と、高級そうな箱に入ったチョコレートや有名な海外ブランドのクッキーも出してくれたので、思わず顔がほころぶ。


「お菓子サイコー。それに、レンチンできたんだね。ったかい物食べれるのも嬉しー」


「レンジもケトルも使えるよ。ここにあった食料とか、めぼしい物は全部持っていかれちゃってるけど、赤城達はもうここには来ないと思う。スイートルームにもレンジとか冷蔵庫はあるし。昨日は翠ちゃんがここで珈琲れてくれたんだ。夜明けのコーヒー、美味しかったな。白石が来るまでは翠ちゃんと二人きりだったし…」


「おーい。石黒くんってば、既成事実の捏造ダメダメ。ここで一緒に珈琲飲んだだけだよね?」


「あはは。ちょっと言ってみたかったんだ。翠ちゃんと朝まで一緒にいたくてさ。けど、会うのは用事がなければ一日一回って決められてるんだよね。感染のリスクを減らすためなんだって」


「尻に敷かれちゃってるね、石黒くん」


「会ってもらえるなら何でもいいよ、もう」


 石黒は顔をクシャっとさせ、照れ臭そうに笑う。そんな恋するスパイの一途な素顔が垣間見えるたびに、朱音はだんだん石黒が可愛く思えるようになってきていた。


 食後は休憩がてらお互いの専門技能についての自己紹介をした。それから、再びセレモニーホールに戻り、トイレエレベーターを使い、研究室のトイレに到着する。セレモニーホールトイレの隠しエレベーターの行き先はたった二つだけ…医療室と研究室のトイレに繋がっていた。

 石黒が研究室のトイレのドアを押し開け「翠ちゃーん!」と呼びかけると、全身を防護する宇宙服のようなものを着た人物が振り向く。印象的な翡翠色の目を見開いたのがフルフェイスプロテクターのシールドから見えた。そして、翠らしい少女はこちらを見て凄い勢いで飛んで来る。


「なんで、みんなこっちから来るんだ、バカ!」


 険悪な雰囲気の翠は石黒をトイレに押し戻すと、あっという間にドアを閉めた。突然の出来事に石黒は茫然としている。


「…石黒くんて、嫌われてる?」


「いや、一日一回来てもいいって約束だよ」


「でも、あのコ、すっごく怒ってたよ」


「怒らせるようなことは、まだ何もしてないよ」


 トイレ側で朱音と石黒が小声で話していると、ドアの向こうから翠の声がした。


「帰れ!来るなら二重ドアのある表から来ればいい。あっちなら、ウィルスが外側に漏れないようにするエアカーテンもあるし、ガラスのドアを隔てて話せる。もう表側のドアのセキュリティは解除してあるんだろう?白石はちゃんとそっちから来たぞ」


「あ、そっか。じゃ、今度からそうするよ。開けてよ」


「開けない。帰れ。出直せ」


「え?朱音ちゃんもいるし、あんまり船内をウロウロしたくないんだけど」


「いったん1階に戻って、医療室の方に行け。医療室を通って研究室に来ればいいだろう」


「あ、そっか」


 石黒は頭を掻くと、朱音を促して、もう一度、エレベーターに乗り込んだ。そして、「このエレベーターでは研究室から医療室に直接行くことは出来ないんだ。研究室と医療室は同じ4階だからね。いったん下に降りて、今度は行き先を医療室に変更するよ」と告げた。


 その後、トイレではなく、本来の研究室の出入り口から入った朱音と石黒は、天井まで届く全面ガラス張りのドア越しに翠と白石に迎えられた。


「もうトイレからは来るな!危ないから!それに、石黒がいつ来るかもしれないと思うと、安心してトイレが使えない」


「ごめんごめん。了解。でも、翠ちゃんのトイレを覗いたりしないよ。僕、そっち系の趣味はないから」


「は?趣味?まぁいい。表から来てくれるなら、私はそれでいい」


 緑の学校ジャージに白衣を羽織った美少女科学者は、石黒の返事を聞いてようやく表情を緩めた。親しげに石黒と言葉を交わす翠はとても可愛らしかった。隣にいたワンコ系美少年白石がそんな二人のやりとりを見て苦笑している。翠は朱音に目を止めると「朱音ちゃんも大変だったな」と、声を掛けてくれた。どうやら、朱音のことも心配してくれていたらしい。


 …やっぱり天野翠はツンデレかぁ。


「何かあったの?他にも誰か来たってことだよね?」


 石黒が尋ねると、その質問には白石が答えてくれた。


「石黒達の来るちょっと前…1時間くらい前に茉白ちゃんがいたんだぜ。表の扉はこっちから操作しないと開かないから、トイレのエレベーターの方から来たっぽい。俺達に気づいたらトイレに駆け込んで逃げてった」


「…そう。茉白ちゃん、あの時は眠ったふりだったんだ。エレベーターのパスワード見てたか…やっぱり目隠ししとけば良かったな。パスワードを変えられるかはやってみるけど、できるかわからない。くれぐれも油断しないで」


 石黒の言葉に、白石と翠は「了解」と応えた。


 その日、次から次に現れる来訪者に、翠はてんてこ舞いだったそうだ。まだ午後の早い時間だというのに、ひどく疲れた顔をしていた。


「茉白ちゃんだけじゃないぞ。今日から白石が研究室入りしてくれるとは聞いてたけど、白石と一緒に赤城と青山も押しかけてくるし…こっちは時間がないから寝る間も惜しんで、夜やったことは覚えてないからいちいち全部記録に残して、ヘトヘトだっていうのに、あいつらは好きなだけギャーギャーわめき散らして、それはそれはやかましかったぞ」


 翠はウンザリした顔で文句を言った。

 今、まさに朱音たちのいるこの場所で、白石を拘束した赤城に対し、翠は「白石を置いて出て行け。そうしないと、不夜病と同等の危険な感染症を船内に集団発生アウトブレイクさせるぞ」と脅したらしい。翠の言葉を疑う赤城との凄絶な舌戦の末、翠の手掛けている不夜病封じ込め計画に納得した赤城は、最終的には白石を解放して何もせず帰って行った…


 …あの赤城を撃退したんだ…この子が…?


「じゃ、もう決まったんだ。どっち?」


 赤城とのやりとりを思い出したのか不機嫌になっていた翠に石黒が何か尋ねている。翠はぶっきらぼうに「フィロウィルス」と答えた。


「出血熱かぁ…」


「弱毒化には難アリといったところだが、増殖スピードは不夜病ウィルスのおよそ3倍だ。感染の半日後には不夜病ウィルスと拮抗して、グズグズしてくれるんじゃないかと期待している。さっきまで、白石が数種類を同時に不夜病ウィルスとの急速混合培養実験をしていたんだ。この分だと今晩には生ワクチンとして成立させられるだろう。10名分程度とはいえ、さすが凄いな…白石博士は。ニパウィルスの方は増殖スピードが遅いし、拮抗するにはもの足りない。たぶん、3日もしないうちに形勢逆転される。ただ、安全性については、もう少し時間が許せば、違う部分も何ヶ所か試してみて…いや、やっぱりそっちの方が良かったんだろうと思う。私は」


 いったい何の話をしているのかと戸惑った朱音に、白石が説明してくれた。


「翠ちゃんは【ウィルスもっウィルスを制す】んだってさ」


 それは【重複感染】というものらしい。2種類のウィルスを一つの宿主に感染させる試みだという。もちろん、そのウィルスの一つはすでに罹患している【不夜病ウィルス】である。その上に新たなウィルスを追加して、人為的に重複感染を起こさせる。


「それって…一つでも充分ヤバいのに、二つも同時にかかったら相当ヤバいんじゃないの?」


「そうそう。エボラとかマールブルクとか聞いたことある?悪名高いウィルス性出血熱V H F系統だから、平均したら致死率70%くらいか?単体でかかっても充分ヤベぇ数字。でも、ミドリザル以外のはち…」


「死んじゃうよ!」


 白石の言葉を思わず遮ってしまった朱音は、目に前にいる学校ジャージの全然似合ってない腕組みをして立っている同い年の美少女が、だんだんマッドサイエンティストのように見えてきた。全身から血の気が引いていくのを感じる。


「朱音ちゃん、そんな顔しないでよ。これから感染するっていうのに、オリジナルウィルスの高過ぎる致死率なんて僕も聞きたくなかったよ。でも、説明にはまだ続きがあるんだ。あの二人、自分達だけわかったら説明飛ばすし、常識ではあり得ないことも平気で言い出すし、何でそんなとんでもないことばっかり強調するのか謎なとこもあって、説明すごく下手だから」


 朱音の動揺に気づいた石黒が慌ててフォローに入った。


「翠ちゃんが遺伝子を組み換えて性質を変えてくれたウィルスで、白石がワクチンを作る。怖い出血熱のウィルスとは別物になってるよ」


「いや、弱毒化と言っても、不夜病ウィルスと拮抗させるために必要な程度は残しているぞ。既存の予防接種ワクチンと同じに考えてもらったら困る。臨床試験も動物実験ですらも試してないから、どういった症状が出るかはわからない。既往や年齢、体力によっては命を落とすことが絶対にないとは言えない」


「翠ちゃん!ストップ、ストップ!そんな不安だけあおるような情報いらないから!」


 石黒が慌てて止めに入ったが、翠の話はとても恐ろしく、朱音には到底受け入れる気にはなれなかった。おびえた朱音に、白石が心配しなくていいというように手を振った。


「でもさ、体内で不夜病ウィルスと戦って潰し合って、お互いに増えないようなウィルスを選んだからさ。候補の3種類を急速培養して、増殖と拮抗具合を調べてたんだ。で、ついさっき決定した。熱が出てしんどいかもだけど、人食い鬼にならなくて済むぜ」


 宿主の体は一つ…ウィルス同士が標的の被る身体資源をいくら取り合ったとしても、その総和はゼロにしかならない。片方の取り分が増えれば片方が減る。出来るだけフィフティフィフティになるように、体内で感染ゼロサムゲームを成立させるのだという。不夜病は食人衝動が抑えられれば殺し合いを防げるため、致死率が下がるとの見立てらしい。出血熱も不夜病ウィルスとの拮抗で弱毒化するから、元のウィルスよりは重篤化しにくい。上手くいけば…治癒も…


「ありがと。白石」


 白石の補足説明に石黒がホッとしたように呟いた。


 …不夜病ウィルスと戦うウィルス。食人鬼にならない。


「すごい!」


 思わず朱音が声を上げると、白石が得意そうに告げる。


「俺達はこのウィルスを【あかつきウィルス】と名付けることにした。不夜病がなんだ。俺達は夜をぶっ飛ばして生き残ってやる。明けない夜はないんだ。そうだろ?石黒」


「そうだね。夜明けか。いいね、白石」


 石黒が嬉しそうに同意した。翠も「ん」と小さく頷いている。そんな三人を見ているうちに朱音の心にも明るい光が満ちてくるような気がした。


 …明るい希望の…光…


 思わずため息が出る。傍らの石黒を見上げて「みんな凄いね」と伝えると「朱音ちゃんもね」と、石黒が微笑んだ。


「朱音ちゃんと青山がいなかったら船は動かせない。きっと、みんな必要なんだ…赤城も。なのに、僕は…」


 石黒は言葉を濁すと痛みをこらえるような顔をする。すかさず、向こう側からガラスをトントンと叩いた白石が「おいコラ、しけたツラすんな。反省すんのは助かってからだ」と、声を掛けてきた。


「わかってるよ、白石」


 石黒は白石に応じると、顔を上げた。

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