第三章:呉越同舟(林朱音)

第15話 小便器使用中の男性に出くわす可能性がある【トイレ(エレベーター前)】

「石黒くん…助けてくれてありがとう」


「どういたしまして。赤城から逃げられて良かったね」


 【はやし朱音あかね】と石黒が今いるのは【どこかの部屋のトイレ】だ。掃除用具入れから出た朱音は、赤城たちから解放してくれた石黒にお礼を言った。


 小柄な朱音は、端正なイケメンつスタイル抜群の黒縁メガネの少年を見上げる。彼の名前は【石黒いしぐろ奏汰かなた】。【レイヴン】という女スパイの子供で、裏の世界ではコードネームで呼ばれていて、【フギン】か【ムニン】のどっちからしい。機関室エンジンルームで、赤城が「フギンには煮え湯を飲まされたことがある。油断も隙も無い奴だから絶対にだまされるな」と、青山に忠告しているのを耳にした。


 …でも、石黒くんはムニンなんだよね。フギンがお兄さんだって言ってたし。


 医療室で赤城の後ろに立っていた朱音は、手話のハンドサインで石黒に【SOS】を送ってみた。騒音の多い機械作業時に仲間にヘルプを頼む時のために覚えさせられたのだが、イチかバチかやってみたのが功を奏した。スパイ少年には手話の心得があったらしく、走る動作の【逃げる】のサインの後、右手の甲を顎に当てて【待て】と返してきた。

 そして、石黒は宣言通りに、赤城と青山がベッドに寝ていた人物を確かめるため、朱音から離れた隙にダッシュし、朱音の手を引いて走り出した…行き先は何故かトイレだった。


 …まさかトイレ内にエレベーターがあったなんて…


 一見、掃除用具入れかと思うような最奥のドアを開けると、そのまた奥にエレベーターのドアがあった。少し離してあるのと、段差を設けてあるので、水濡れはクリアした構造になっている。しかし、すぐ隣で用を足していたら音は聞こえるし、エレベーターから降り、外側の掃除用具入れ風ドアを開けた時に小便器使用立ちション中の男性に出くわす可能性がある。このエレベーターはプライバシーには全く配慮されていなかった。


 …何でもアリだよね、和邇士郎。アイデアは認めるけど、常識ないし、センスもない。目的を達成できたら何でもいいってもんじゃないと思うけど。


 掃除用具入れ的な個室に入った後「そこ、鍵かけて」と朱音に言いおいて、石黒はエレベーター横のパネルを操作して、パスワードを打ち込んだ。このエレベーターは朱音がシステムダウンさせた生体認証ではなく、単体の独立したセキュリティを導入しているらしい。朱音が慌てて鍵をかけたドアの向こうから、追いかけてきた赤城の怒声とドアを激しく叩きつける音がする。しかし、エレベーターは待機していたらしく、エレベーターのドアはすぐに開いた。


「乗って」


 朱音は石黒に続いて、エレベーターに乗り込み…赤城の元から逃げ出すことに成功した…


 …ほんとにスパイなんだよね、この人。


 朱音がじっと石黒を見ていると、何を勘違いしたのか、石黒は「ごめん。僕、好きな人がいるから君とは付き合えない」と、断ってきた。


「あ。大丈夫です。あたし、どっちかというと白石くんの方が顔が好みなので」


「そうなの?やっぱ女子って、ああいうカワイイ系の美少年がいいの?」


「はい。顔も中身もカワイイ犬系男子が大好きです。石黒くんはカッコいいし、一般ウケするとは思うけど、あたしは可愛がられるより可愛がりたい派なんで」


「…翠ちゃんもかな…」


「え?何でわかったんですか?あたし、ああいう猫系ツンデレ女子が大好物です。ボーイッシュな猫目セーラー服女子【最高に萌え】!」


 何気なく答えた朱音に石黒は整った顔を崩して、目を見開いた。口もぽかんと開いていた。とても驚いたようだ。


「え?そっち?朱音ちゃんも翠ちゃんも女の子だよね」


「性別にこだわる時代はとっくに終わりました。百合上等です」


 朱音の返事を聞いた石黒は大きなため息をついて、「またライバル増えちゃったよ」と、ぼやいた。その言葉に、石黒の意中の人が【天野あまのすい】であることに気づく。


 …うーん、ビジュアル的にはとっても目の保養なカップリングだけど、石黒くんコイツは調子にのりそうだから、言うのやめとこ。


 朱音は心の中で呟くと、話題を変えた。


「あの…ベッドに寝てたのって、誰?茉白ちゃん?それとも…」


 朱音は機械工学の知識や技能が役に立つとのことで、最初こそ眠らされたり、思い出したくもないような酷い目に遇わされたりしたが、操舵室や機関制御室に出入りして作業するようになってからの扱いはそれほどひどくはなくなった。


 …でも、あの子は…


 今はどうしているのかわからない。全く姿を見ていないし、赤城もその名を口にしなくなった。


「ベッドにいたのは草野だよ…とても有能な医療者だったんだ。きっと彼はいいお医者さんになっていた。それなのに…僕が認識できてなかったせいで…」


 石黒は言葉を失って下を向いた。朱音は石黒の言葉が過去形なのと打ちひしがれた様子にとても嫌な予感がした。


「草野くん?どうしたの?まさか…」


「彼は死んだ」


「なんで?どうして?」


「茉白ちゃんに医療室にあった毒薬を投与されたんだと思う。外傷は胸元の軽い切り傷だけだったし、苦しんだ様子はなかった。昨夜、医療室にいたのは草野くんと、具合が悪かった茉白ちゃんだけだ」


「茉白ちゃんが…なんで、草野くんを殺すの?」


「彼女の行動の理由や動機はわからない。でも、茉白ちゃんは危険だ。僕らを殺して生き残る気だ」


 あのか弱く優しげなプラチナブロンドの美少女が、そんな恐ろしい考えを持っているようには到底思えなかった。


「こうやっている間にも和邇士郎の殺人デスゲームは進行しているんだよ。朱音ちゃんは本当に運が良かったんだ。君が機械工学の技術者でなかったら、君が殺されていたかもしれないよ…赤城達に」


「えっ?草野くんを殺したのは茉白ちゃんなんでしょ?赤城くんも誰か殺してるの?他にも誰か死んじゃってるの?葵衣ちゃん?美墨ちゃん?」


「トイレで立ち話もなんだよね。出てから話そうか」


 動揺してふらついた朱音を石黒が抱きとめた。細く見えた石黒の体幹は意外としっかりしていて、思いがけず触れた石黒の腕には無駄のない綺麗な筋肉がついていた。


 …鍛えられたカラダ…やっぱり本物のスパイなんだ。


 石黒はヒョイと朱音を持ち上げると、掃除用具入れを出て、トイレを抜けた先の部屋に運ぶと、そこにあった腰掛けに朱音を座らせた。周囲を見回して、朱音は「あ!」と叫んだ。


 …ここは…最初いた部屋?セレモニーホールⅡ?


 灯台もと暗し。トイレは使用したけれど、奥にエレベーターが隠されていたなんて気づかなかった。朱音は魔法にでもかけられたような不思議な気分だった。


「話の続きをするね。赤城に殺されたのは美墨ちゃんだ。ごめん。もし疑問があっても質問には一切答えられないから」


 石黒は赤城の占領するスイートルームやプールデッキの血痕の状況から美墨が海に転落したらしいこと、茉白が捕まっていたこと、今後の不夜病の進行とその症状について語った。話が進むうちに朱音は絶望的な心境になっていった。


「女のあたしがマトモでいられるのは3日目の今日が最後ってこと?」


「今日も血を飲んでればね」


「明日からはどうなるの?」


「わからない。個人差があるみたい。白石は全く無症状だし、夜間の記憶もある。血も必要としない。翠ちゃんはよくよく聞いたら、夜の記憶は曖昧だけど少しは覚えてるみたいだよ。必要な血も2日目はめる程度だったし。君は?」


「…あたしは夜のことは全然覚えてないし、血は…飲めるだけ欲しい。飲むと気持ちが良くなる。赤城のクスリよりも」


「じゃ、僕と同じ感じかな」


「…あたし、もうダメなのかな…」


 朱音は泣きそうになった。朱音は三人兄妹の末っ子で上には兄が二人。兄二人も両親も大柄で厳つい顔をしていて、小柄な朱音とは全く似ていない。しかし、朱音と同じSANDORAの機械工学部門に勤める母の朱里あかりをはじめ、父も兄も朱音も全員が機械関連の有名企業や研究所に勤める機械オタクだ。林家は家族仲が良く、末っ子の朱音のことを溺愛していて、朱音は家族みんなに甘やかされて育った。

「和邇士郎に選ばれて必ず戻って来い」。ここに連れてこられる前の日の夕飯の時に父と兄二人はそう言って泣いていた。母は泣いてはいなかったが目が真っ赤だった。父や兄は朱音が修学旅行や海外留学に行った時にも泣いて電話してきたことがあったので「またか。大袈裟だな」としか思わなかったけれど…


「家族に絶対に帰って来いって言われてるの。みんな、あたしを待ってる。おうちに帰りたい…」


 泣きそうになった朱音の頭を石黒がポンポンと優しく叩いた。


「うん。あきらめるのはまだ早いよ。僕らには可愛くて賢い最強の英雄ヒロインがついてるから。彼女の戦略を信じて待とう」


「どういうこと?」


「もう少ししたら【翠姫プリンセス】の元へ、進捗しんちょく状況を聞きにせ参じようか。白石が医療室から研究室までのたった10メートル弱の間に、無様にすっ転んだりして赤城達に捕まってなきゃ、たぶん今頃、翠ちゃんが大立ち回りをして、赤城と青山を撃退してるはずだよ。翠ちゃんを怒らせると怖いから気をつけようね、僕らも」


 石黒は愉快そうに笑って、朱音に片目をつぶってみせた。

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