第二章:乗りかかった船(白石成道)

第8話 Day2:9/10【2F食堂】

 白石はそのままジャグジーのロッカールームで身を潜めて一夜を過ごした。ウトウトしていたら、いつの間にか少し眠っていたらしい。

 夜が明けるのを待って、人の気配を全く感じなくなったプールデッキの方を窺う。

 そこに赤城の姿はなく、ほっと胸を撫で下ろすと共に、美墨を見殺しにしてしまった罪悪感で胸が苦しくなる。美墨は逃げようとしていたのに…何も…出来なかった。


 …俺…昨夜の記憶がある…?


 確か【リセット症候群】とやらで、目覚めた後は夜間に起きた出来事を全く覚えていない状態になるのではなかったか。

 夢でも見ていたのかと思い、一縷の望みをかけて、そろそろと赤城と美墨が争っていた辺りに向かうと、夢ではなかった証拠に、床には美墨のものと思われる飛び散ってどす黒く変色した血がこびりつき、美墨が転落した手すりの辺りまで血痕が点々と続いていた。


 …やっぱり…美墨は…


 勇気を出して海面を見下ろしたが、そこには美墨の姿はなかった。


 …潮に流された?それとも鮫の生息地…だから…


 暗澹たる気持ちで海に向かって手を合わせる。

 しかし、昨夜のことは誰にも言えない。すぐ近くにいたのに…男なのに、襲われる女の子を助けることなく何もせずに隠れて震えていたことは、翠と石黒には絶対に知られてはならない。軽蔑されたくなかった…特に翠には。


 しばらく迷ったが、昨日取り決めていた二人と落ち合う場所に向かうことにする。一人でいるのは心細くて仕方なかった。それに【リセット症候群】についても気になっている。


 …あれは誤った情報だったのか?


 モヤモヤした気持ちの白石が2階の食堂に着くと、二人は先に到着していた。珈琲のいい香りがすると思ったら、翠が食堂にあったらしいコーヒーサーバーを使って、石黒に珈琲をれてやっている所だった。昨夜は何もなく過ごせたのか、二人は笑顔を見せ、テーブルに横並びに座って楽しそうにお喋りしている。仲睦まじい様子に…とても憎らしくなった。


「良かった。白石も無事だったか」


 白石の姿に気づいた翠が顔を上げ、こちらを見て嬉しそうに微笑んだ。無事を喜んでくれる仲間がいたことにほっとする。ようやく、凝り固まった心が溶けていくような気がした。

 白石が二人の向かい側に座ると、翠に「白石も珈琲飲むか?」ときかれたので、お礼を言ってお願いする。翠はサイドボードから高そうなコーヒーカップを出して、白石の分の珈琲を淹れてくれた。豆もいい物なのか、珈琲はスッキリした味で、とても美味しかった。匂い、味、温もり、そんな些細なことが生きていることを実感させる。少し落ち着きを取り戻せた気がした。


スイちゃんと石黒は昨夜はどうしてたの?」


 淹れてもらった珈琲を飲みながら、白石が二人に尋ねると、二人とも困ったような顔で白石を見た。


「さっき、翠ちゃんとも話してたんだけどね、全然覚えてないんだ。日が落ちてからのこと」


 石黒が考え込みながら口を開く。


「朝起きたら、僕が一晩過ごそうと思って決めてた場所にいたんだよね。夕飯に食べたらしい物の容器やペットボトルはなぜか水ばっかり3本も空になってたけど…飲んだり食べたりした記憶は全然ないんだ」


「私は…日が落ちる前に隠れてたから、部屋に入ったことは覚えてた。飲み物はそんなにガブガブ飲んでなかったけど、お茶を開けて飲んだのもパンを食べてたのも私の記憶にはない。白石も?」


「あぁ…そう。俺もそんな感じ」


 内心の驚きを隠しつつ、白石は曖昧に頷き、二人と話を合わせた。


 …俺は…ジャグジーのロッカールームに隠れたことも、アンパンとコーヒー飲料で夕飯を済ませたことも、ついでにジャグジーにかったことも全部覚えてる…


 それはほとんど全部が日が落ちてからの出来事だった。そして…夜半に起こった殺人のことも記憶に残っている。


 …まさか、赤城の奴も昨夜のことを覚えてないんじゃ…


 不夜病を研究していたらしい美墨は「伝えたところで夜のことは忘れてしまう」と、ハッキリ言っていた。これは白石には当てはまらなかったようだが。

 それと、もう一つ気になっているのは、美墨が赤城をプールに落とした時に「ちょっとは、頭冷えた…?」と言ったことだ。赤城が興奮して熱くなっていたということを示しているのかもしれない。だが、白石にはそんな症状は出なかった。石黒はどうなのだろう。


「あのさ、石黒…昨夜、たくさん水飲んでたみたいだけど、体が熱くなってたのか?」


「白石も?僕は何故か全裸になってたよ。脱いでた服は汗でベトベトだった。だから、代わりにリネン庫に置いてあったTシャツとズボン借りたんだ。全部新品みたいだし、いろんな種類やサイズがあって、衣装部屋みたいだったよ。和邇士郎の置き土産かな?翠ちゃんもそこから拝借して着替えてるよ」


 石黒は制服の学ランではなく、シンプルな黒Tシャツと黒いピッタリしたパンツを履いていて、翠はワカメみたいな色の一昔前の学校ジャージみたいな上下だった。実は今朝、翠を見た時に最初に思ったのは「翠ちゃんて、学校ジャージのイメージじゃないよな…何でそれチョイス?似合わね」ということだった。

 続いて、石黒はちょいちょいと指で白石を呼びつけ「起きたら全裸って焦るよね。寝落ちの朝チュンかと思った」と、黒縁眼鏡を押し上げながら、ニヤリとした。


 …モテ自慢マウンティングか?エロシックスパックめ。


「いや、俺はちゃんと服着て寝てたし」


 白石がイラつきながら否定すると、眉をひそめた翠が「朝チュンって?」と、二人の会話に割って入った。


「す、翠ちゃん…昨夜のことは覚えてないけど、起きた時には僕しかいなかったし、絶対に誰も連れ込んでないから!翠ちゃん信じて!」


「…連れ込む…?」


 翠の顔がますます険しくなる。慌てふためいた石黒が全力で否定した。気がある女の子の前でモテ自慢なんかするからだバカヤロウ。


「白石も朝チュン知ってるのか?」


 翠が首を傾げながら尋ねてきた。今度は白石がニヤリとする番だった。


「俺にもわかんねぇな。俺達にわかるように教えて下さいよ、経験豊富な石黒先輩♡」


「悪かった、白石。調子のってゴメン。ほんともう許して。この話はやめよう」


 石黒がきまり悪そうに謝ってきたので、白石はそれ以上はツッコまず、許してやることにする。翠は何かを察して機嫌を損ねたようで、憮然とした顔で石黒の隣から白石の隣に移動してきたのにも溜飲が下がった。


「えぇと…今わかっている情報を整理するね」


 気を取り直したらしい石黒が顔を引き締めて、眼鏡を押し上げた。


「この船は動かせるかもしれない。エンジンの一部がオーバーヒートで焼き付いていたんだけど、青山が軍用車両開発を担当してる技術者エンジニアだったんだ。修理に必要な工具や部品も全部見つかった。あと、青山が言うには、朱音ちゃんも機械工学部門の精密機器技術者だと思うって。彼女にも協力してもらうつもり。ただ…かなり時間がかかるらしくて、青山が言うには急いでやっても一週間はかかるそうだ。青山は24時間体制でやってくれてて、今も機関室エンジンルームにこもってる。」


「それじゃ間に合わない!男は6日目辺りから食人衝動が起きる。女はもっと早い時期から始まる…」


「認知が歪む…ってこと?それじゃ、昼間もマトモでいられなくなるのかな?防ぐ方法はないの?」


「それは…」


 白石は言うのを躊躇ためらって口ごもる。実験猿の場合、感染初期から共食いさせたら症状を抑えられた…というようなことを美墨が言っていた。しかし、血液、腕一本、足一本…と、日々必要な摂取量が増えるのなら、いずれ、血みどろの殺し合いは避けられない。不安そうな顔をして白石の言葉を待つ翠の前で、とても口にする気にはなれなかった。


「俺にもわからないかな…」


 小さな声で偽りの言葉を告げると、石黒の射抜くような強い視線に気づく。


 …嘘、バレたか…さすが、スパイの息子。


「そっか。ワクチン製造担当なら、病態のことはそんなに詳しくないよね。美墨ちゃんか茉白ちゃんにきいてみるよ。彼女たち、SANDORA傘下の感染症研究所の研究員だったはず」


「でも、美墨は…!」


 思わず大きな声を出してしまった白石に「なに?」と石黒が硬く冷たい声を出し、目を細めた。今度は不審そうな顔を隠さない。石黒に誤魔化ごまかしはきかない。二人になった時に洗いざらい話してしまった方がいいのかもしれない。


 …でも、今は言えない。


「いや…ほら、赤城が気に入ってたから、美墨さんに近づくのは危険かなって」


「…そう?じゃ、茉白ましろちゃんを探そうか」


 石黒はちらっと白石の顔を窺う。


「俺はその方がいいと思う」


 白石がうなずくと、石黒は何を悟ったか、ニコリとして「オーケー」と言った。


「じゃ、話を戻すね。船の修理は青山達に任せるとして…問題は不夜病の方なんだ。これは…二人にお願いしたい」


 翠は「ん」と小さく返事をする。


「翠ちゃんには今朝ちょっと見てもらったんだけど、この船には高度な研究と実験用の設備があるんだ。不夜病ウィルスやその他の危険なウィルスも保管してあったらしい。タンパク質の遺伝子を組み換えて改変したり、培養してワクチンを作ることも可能なんじゃないかと思う」


 白石がそう言うと、翠は真剣な顔をして「ちょっと狭いけど、必要なものは一通り揃っていて驚いた。特に凍結保存されてたウィルスときたら…天然痘、ニパウィルス、フィロウィルス…正気の沙汰じゃないラインナップだぞ。和邇は私達にバイオテロでもさせる気なのか…?」と、唇を引き結んだ。

 白石は直接取り扱ったことがなかったが、ニパウィルスは急性脳炎を引き起こすインフルエンザ様症状を呈する致死性感染症だ。フィロウィルス感染症には悪名高いエボラ出血熱やマールブルク病がある。どれも致死率が高く、集団感染アウトブレイクの可能性のある取り扱い注意の危険な病原体には違いない。


「どう使うかはまだ決めかねてるとはいえ、凍結させたままならともかく融解して培養でも始めたら、誰も入室させられないぞ。狭い船の中で感染したら一巻の終わりだ」


「いや、不夜病以外なら運が良かったら助かるかも。一応、医療設備もあるよ。抗生物質や輸液、酸素、人工呼吸器もあったと思うけど…使えそうなのは美墨ちゃん、茉白ちゃん、あとは草野と葵衣ちゃん。草野と葵衣ちゃんは海外の大学で飛び級してる医学生だよ。和邇士郎のデザイナーベイビーはほんと優秀だよね」


 石黒は指を4本折って数えていたが、実際の医療者は3人だ。美墨はすでにこの世にいない。


「問題は赤城なんだよね…」


 石黒は深刻そうな顔をした。白石も一番厄介なのは赤城だと思っている。


「赤城が何を望んでいるかがわからない。SANDORAの後継が目的なら、もしかしたら、皆殺しも視野に入れているのかもしれないし」


「俺もそう思う!」


 美墨を殺したのは赤城だ。昨夜はまだ食人衝動が起こらない時期であったにも関わらず、躊躇ためらうことなく美墨に食らいつき、血を啜った。自らの意志で。


「赤城が狙っているのは翠ちゃんだ。昨日、石黒が青山と機関室制御室に行っていた時に、そう言ってたぜ」


「私…?」


 翠が怯えた顔で呟く。石黒も「うーん」とうなると腕組みした。


「翠ちゃんは…何だか甘い美味しそうな香りがする。僕も日が落ちてからは理性が飛びそうでちょっと怖い」


「俺も…翠ちゃんが何だか特別っていうのはわかる。危ないっていうのは間違いねぇよ」


「そうなのか…」


 白石が石黒の言ったことに同意すると、翠は「私はどうしたらいいんだ?」と、困惑した顔で石黒と白石を交互に見つめた。石黒は少し考え込んだ後、翠に告げた。


「翠ちゃんは必要な物を持ち込んだら、扉をロックして研究室にずっとこもってなよ。隙を見て僕らのどっちかがコッソリ訪ねるようにするから。もうちょっと状況がハッキリして、方針が決まったら、白石もワクチンを作るために研究所入りしてもらうよ。ほんとは二人きりにさせるのが心配なんだけど…」


「大丈夫。石黒と二人より白石の方がまだマシだ。また情報を教えてくれ」


 翠は石黒の提案を受け入れた。

 そして、石黒と白石の二人は、再びセレモニーホールⅡの皆の様子を探りに行くことになった。

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