第7話 食うのってさ、死んでてもいいわけ?【2Fプールデッキ】

 夜半過ぎ。白石は異様な気配に目が覚めた。


「何で追って来るのよ!もう来ないで!」


 金切り声のような女の声が切れ切れに聞こえてくる。声はプールデッキの方からだった。


 …人食い鬼になるのは3日目以降のはず…


 しかし、すでにプールで何かが起きている。


你是笨蛋吗バカじゃね?逃げるからだろ!お前が逃げるから追うんだろが!」


 怒鳴る男の声には聞き覚えがある。ドスのきいた少しかすれた声音。あれは赤城だ。

 わりと近くからバチャンと激しい水音が聞こえてくる。海に面した側のジャグジーの窓からプールが見えるかもしれないことに気づき、白石はガラス張りの窓の端にそろそろと移動した。壁に張り付くようにしてそっと外を見る。


 …美墨と赤城…


 びしょ濡れになった黒髪ロングヘアの少女がデッキチェアをなぎ倒して、プールサイドを逃げ回っていた。昼間見た黒いブレザーはなく、月城つきしろ美墨みすみは白いカッターシャツに制服の黒スカート姿だった。

 白石のいるジャグジーから、およそ3、4メートルくらいの所に二人はいた。デッキチェアを踏み越えて、美墨を捕まえようと手を伸ばした赤城の隙を見逃さず、赤城が片足を乗せていたデッキチェアを美墨が持ち上げる。派手な水飛沫が上がり、デッキチェアごと赤城がプールに落ちた。


「ちょっとは、頭冷えた…?」


 美墨が肩で息をしながら、プールの中の赤城に声を掛けている。


「あぁ…ちょっとおさまった」


「話は出来る?罹患者は興奮すると我を忘れて噛みつくのよ。だから、明後日までは誰にも会わないでやり過ごすか、出会っちゃったら極限まで興奮させて眠らせてる間に逃げる」


「あ。ナルホドね。それで眠らされちゃったんだ、俺」


「早く逃げたかったのにドアが開かなくて…」


 美墨はため息をついたようだった。

 被さるように赤城の声が続く。


「4日目からはどうなんの?」


「小柄な女性の方が先に食人傾向が出て…そうなると能力の限界を超えて、飢餓による本能だけで動くようになる。体格や体力も関係なくなる。男女の差異もなくなるわ。男性に食人衝動が起きるのは2日遅れくらいだったはず。性ホルモンや筋肉量が影響するみたい」


「レディファーストってか。ウケる」と、ちた赤城はザブンとプールに潜った。再び顔を出した赤城は水に濡れた髪をかき上げながら、美墨に問う。


「なぁ、どうにもなんねぇの?美墨はSANDORAの傘下の研究所で感染動物実験やってたんだろ?」


「なんで、それを…?でも、どうしようもないわ。不夜病の致死率は100%よ。ワクチンを打っていなくて、治療薬もないなら助からない」


「日中もおかしくなってくるんだろ?ずっと正気を保つ方法ってねぇの?生き残っても頭イカれてたら意味ねー」


 美墨の顔が強張った。【ない】と即答しなかったということがは、正気を保つ方法は存在する。ただ、とても答えにくいことのようだ。


「あるんだな」


 赤城は身軽な動作で水から上がった。プールサイドに立っていた美墨の腕を掴んだ。


「教えろ。教えねぇと、また、カッとなって噛みついちまうぜ」


 美墨は観念したようにうなだれる。


「どうせ、伝えたところで夜のことは忘れてしまうものね。私はヒトを対象とする臨床実験には関わってないけれど、類人猿のサンプルに感染初期から共食いを続けて症状を抑えられたケースがあったわ。ウィルス量の少ない3日間は血液だけでもいいみたい。それ以降は腕一本、足一本…毎日必要量が増えるの。食欲も増すし、食べずにはいられなくなる。でも、食べ続けていれば頭は正常に働き続けるみたい…日中はね」


「結局、人食いは免れねぇんだ。それさ、昼間にまた教えてくんねぇかな。あーいや、もういいわ。どうせ言っても無駄だから」


「リセット症候群があるから無理よ。私も今夜のことを忘れてしまう…え…なに?まさか…あなたは食人衝動がなくても人を食べるというの?」


「そうだな。それしか方法がなけりゃ、しゃーねーな。早期対処がいいんだっけか?」


「…私を…食べるの?」


 美墨は顔を覆って、静かに泣き始めた。

 赤城はその問いには答えなかった。


「あのさ、もう一つだけ聞いていい?食うのってさ、死んでてもいいわけ?つまり…遺体でもOK?」


 美墨は否定も肯定もしない。否、答えられないまま泣いている。もう、美墨には赤城から逃れる術はないように思われた。


「はァ、駄目ってか。じゃ、毎日一人はんないと」


 赤城は美墨に抱きつくと、いきなり首筋に噛みついた。皮膚を食い破られたらしい美墨の恐ろしい悲鳴が夜空に吸い込まれていく。美墨の白いシャツがナイトプールの照明の下、流れ出した血で赤く染まっていくのがわかった。

 白石も思わず声を上げそうになり、慌てて口を抑える。赤城に見つかれば、どんな目にあわされるか検討もつかない。逃げ切れる自信などなかった。


「血って、思ったよりマズくなくね?むしろ甘くて美味い。美墨、まだ死ぬなよ。この世とおさらばする前に青山にも血ィ分けてやってよ。あいつには船のエンジン直してもらわねぇと」


 赤城が美墨を抱えあげようとした時、美墨が赤城を突き飛ばした。血を流しながら必死に逃げようとするが、赤城の動きは敏捷ですぐにデッキの端に追い詰められてしまう。

 赤城に伸し掛かられた美墨は手すりに背を押し付けられたまま、赤城の腕から必死に逃れようと激しくもがき、体勢を崩した。美墨が手すりの向こう…仰向けの体が夜の海に落ちていく。白石は息を呑んだ。


 そして、美墨の姿は見えなくなった。

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