第6話 【赤マフィアと黒髪少女】

 潮の香りのする生温なまぬるい風が顔に当たった。


 …なんだ、こりゃ?


 体がムズムズする。身の置き所がない。

 全身に汗が吹き出て、酷く喉が乾く。

 紅漣幇の烈炎こと【赤城あかぎれつ】はベッドから起き上がると、部屋に備え付けの冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを手に取った。


 …これが、不夜病とやらの初期症状か…


 ペットボトルの水を一気飲みする。それでも体が火照り、気がたかぶって落ち着かない。


「おい、美墨」


 昨夜、無理やり連れて来て閉じ込めていた黒髪美人の異母姉を呼ぶが返事がない。このスイートルームを含む船の各客室のドアはキーレスのパスワードアクセスロックシステムだった。部屋に入ってドアを閉めるとオートロックし、出る時には解錠用のパスワードをドアについたタッチパネルに打ち込まなければならない。ただし、妙なことに部屋に入る時にはフリーだ。つまり、開いている部屋であれば、誰でも入れる。

 そして、おかしなことに部屋に入った者がパスワードを変更できる。当然、初期パスワードは変更しておいたので、赤城が設定したパスワードを知らない美墨には解錠することが出来ない。


 …獲物を閉じ込めるためのシステムか?


 この奇妙なシステムは和邇士郎が殺人ゲームのために、特別にあつらえたのかもしれない。


 …しっかし、自分の遺伝子を組み換えてこさえた未成年のガキ相手にそこまでやるかねぇ…悪趣味なオヤジ。ま、俺も人のこと言えねぇけど。


「美墨、出て来い!」


 もう一度、怒鳴ってから、部屋の中に一つ年上の少女の気配がないことに気づく。


 …逃げやがったか…


 そういえば、途中から記憶がない。赤城はベッドサイドに脱ぎ散らかしていた衣服を拾い上げ、素早く身につける。美墨の服は黒ブレザーと校章入りの黒ネクタイは落ちていたが、他のものは見当たらなかった。

 興奮がピークに達すると糸が切れたように眠るとは、このことか。不夜病の症状の一つにそんなものがあったことを思い出す。船上殺人デスゲームという特殊な状況下だったし、美墨が抵抗して暴れたこともあって、昨夜は妙に燃え上がってしまった気がする。

 おそらく、赤城が活動停止している間に美墨は逃げた。意識をなくしている間に美墨に寝首をかかれたらジ・エンドだったが、平和な日本で生まれ育った高校生は、たとえ自分の尊厳が傷つけられても、そんな考えは毛頭浮かばないのだろう。


 …俺は違う。


烈炎リィエイェン】は弱肉強食のアングラな世界に生まれた。常に死と隣り合わせだった。殺らなければ殺られる。兄弟姉妹は協力者ではない。利用できる関係かそうでないかだ。そんな出自の烈炎は、紅漣幇の女帝である母親に自分の遺伝子の半分が和邇士郎という日本人由来であることを明かされ、巨大コンツェン【SANDORA】と日本の政財界への利権を手中にするべく潜入するように指令を出された。そのことをきっかけに来日し、日本の高校生【赤城烈】として、疑似家族の元で安穏と暮らすことになった時、その緩くぬるい環境に驚いた。


愚蠢的姑娘愚かなオンナ


 赤城は部屋を見回して、ニヤリとした。

 バルコニーのレースのカーテンが揺れている。カーテンを開けると掃き出し窓にが人ひとり通れるくらいの隙間が目に入った。

 赤城はそのままバルコニーに出る。スイートルームの下はプールデッキだ。見下ろすと、真下に見えた広いプールの中央付近に座椅子にもなる大きな黒革カバーのビーズクッションがつかっているのが見えた。このスイートルームに残っているもう一つと対になっていた物だと思われる。


 …ビーズクッションを緩衝材にして、飛び降りたのか。へぇ、なかなかやるじゃん、美墨。


 3階スイートルームから2階プール程度の高さならば、大の字で腹打ちしなければ、素人でも充分飛び込み可能な高さだ。おそらく美墨は無傷で脱出できたのだろう。プール全体を俯瞰ふかんして見る。


 …いた。


 広いプールの端にずぶ濡れの少女がうずくまっていた。制服での着衣水泳で体力を使ったのだろうか、何とか泳ぎきってプールサイドに上がったものの、体力を消耗し、ぐったりしている様子だった。


 …このまま、飛び降りっか?いや、駄目だ。


 飛び込みにも泳ぎにも自信はあったが、プールのど真ん中に飛び降りるとすぐに気づかれて、泳いでる間に逃げられてしまう。


「そこでゆっくり休んでろよ、美墨」


 赤城は部屋を出ると、豪奢なメイン階段を駆け下り、2階のプールデッキに急いだ。

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