第4話 シックスパック見せようか?【5F甲板デッキ 】
白く塗られた金属製の階段を上がった先は船の甲板だった。
上浪が言っていた通り、頭上には青い空、眼下には穏やかな海が広がっている。こんな状況でなかったなら開放感に溢れた素晴らしい景色と言えるのだろう。しかし、助けの手が欲しい白石にとっては、この大海原の壮大な眺めは絶望的だった。
…ほんとに何もないな。ん?
周囲をグルッと見回すと、一点…遥か遠くに黒い影が見えたような気がした。
「あそこ…何か見えないか?」
「あぁ…あれは船だよ。この船とそっくりな船」
石黒はそう言うと、深いため息をついた。
「見たいなら、後で双眼鏡取って来るよ。あっちの船も同じ場所から全然動いてない。たぶん、この船と同じ和邇士郎所有の船なんだと思う。助けは…期待できないかも」
今度は船のデッキの方に目を移す。操舵室の真上にあたるデッキ上の船首側には、帆布製らしき日除け屋根付き白ベンチが4基、等間隔で並んでいた。他にめぼしいものはない。
翠はどこにいるのかと探すと、左後方で手摺りから身を乗り出すようにして、熱心に下を見ていた。ハタハタと制服のプリーツスカートが風に
…石黒の奴、手が早そうだな…
「翠ちゃーん、海に何かいるのー?」
石黒への牽制のため、白石は声を張り上げて、翠に声を掛けた。翠は白石の声に気づいたようで、顔を上げて振り向いた。
「鮫がいる」
「えっ?」
白石も翠の傍に駆け寄って、翠の見ていたと思われる辺りの海を見下ろす。しかし、そこには
「どんな鮫?大きかった?」
「大きい。2メートルか3メートルくらい」
「ジョーズみたいな感じ?」
「そう」
石黒も熱心に海を眺めていた。
「何ザメかわかったら、鮫の生息水域から、ここがどの辺りの海かわかるかも。でも、僕、海洋生物にはそんなに詳しくないんだよね…スマホがあれば検索できたのに」
ブツブツ呟く石黒だったが、白石はそれよりも別のことが気になっていた。
「あのさ…その鮫が人食いザメなら、海に落ちたらヤバいってことか!?」
「うん?鮫に関係なく、今、海に落ちたらヤバいよ」
「本来義務付けられているはずの救命ボートが撤去されているし、浮き輪もないし、ロープはあっても海面まで届く長さじゃないから、落ちた人を助ける手段がない。この船はかなり大きいから、落ちた人は自力では這い上がれないでしょ?」
「そんな…」
「悠長に病死や餓死を待ったり、バトルアクションしなくても、全員海に叩き落としたら勝者になれるね。和邇士郎が本当に最後の一人を助ける気があればだけど」
「え?どういうこと?」
「あの手紙の名簿の下に【終了時は一
…やっぱり、行動を監視されていたのか。
監視カメラがどこにあるのかはわからなかったが、石黒の言葉を疑う余地など無かった。
一方の翠は、考え込みながら「でも、和邇は後継者に品行方正さは最初から求めていないと思う。そもそもの和邇自身が非道で非情な男だ」と言った。
「そうだね。僕らには和邇の真意を量ることはできない。ただ、意識的に力づくで人殺しをするのは推奨されていないような印象だよ。それなら、人食いウィルスとやらに感染させる必要がない。未来の学者や非力な女の子より、某国の裏社会を牛耳る女帝ボスのご令息や僕みたいなエージェントの卵の方が断然有利だし」
文書には、無意識下で能力を競わせる試みと書かれていた。不測の事態の判断、行動とその結果を評価する、と。
「僕が期待してるのはね、わざわざ【船内】って限定して書いてあったことなんだ。【船外については与り知らぬ】。もし、何らかの手段で船を降りることが出来れば、複数名が助かる道も残されているんじゃないかな、って。それならば、単なる殺戮者じゃなく、後継者としての手腕と資質を量ることが出来る。知恵と勇気、それに人望もね。優秀な人材を配下に従えて窮地を脱するリーダーなんて理想的じゃない?」
白石は意表を突かれて目を見開いた。翠もハッとしたように石黒を見つめている。
…みんなで助かる道があると言うのか…?
白石が恐ろし過ぎる船上生活のことを考えないようにしていた間に、この一学年上の一見気ままで捉えどころのないように見える少年は冷静に頭を働かせていたとは…恐れ入った。白石の最初の印象の通り、求められている後継者とは石黒のようなカリスマなのかもしれない。
「もう、お前がSANDORA継いじゃえよ。俺、石黒でいいよ。お前について行くわ」
「私も賛同する」と、翠も頷く。
「え?翠ちゃんも僕がいいの?それならついでに僕たち、付き合わない?」
「それは断る。賛同するのは、皆で助かる道を探すという考え方についてのことだけだ」
容赦なくきっぱりと石黒をフッた翠だったが、今度は怒った感じではなく可笑しそうに笑っていた。打ち解けた様子を見せ始めた翠は本当に可愛かった。石黒もそんな翠を優しい眼差しで見つめている。白石は嫉妬で胸がチクッとなったような気がした。
「疑心暗鬼にかられちゃうと、どんどん追い込まれてネガティブ思考になるんだよ。【明けない夜はないんだ】。どんな時も希望を忘れずポジティブに行きたいよね。さて、僕らにはとても大事なミッションがあったんだ。今から操舵室に侵入するよ」
「どうやってだよ?」
「じゃじゃーん。このノコギリでフロントガラスをカットするのさ」
石黒はベンチの下にかがみ込み、グリップと刃のついた30cmくらいの長さの電動工具を取り出した。充電式の小型電動ノコギリらしい。ご丁寧にも分厚いアクリルが切断できる専用鋸刃がついているのだという。
「二回目の探検をした時に見つけて、ここに隠しておいたんだ」
白石と翠は驚いて顔を見合わせた。TVゲームやテーマパークのアトラクションじゃあるまいし、現実世界で必要なアイテムがそうそう都合よく手に入るなんて信じられなかった。
「こんな物、どこにあったんだ?」
「今はナイショ。必要そうだったら、二人には明日教えるから」
石黒は眼鏡越しにおどけたように片目をつぶってみせた。
「これだけじゃないよ。僕にはちょっと使えないような専門的なものもあったんだ。たぶん翠ちゃんや白石なら扱える。船旅には全く必要ないものだから、和邇士郎がわざわざ設置したんだと思う。これは自力で助かる方法をさ…」
「和邇は私たちを殺す気はないということか?お母さんは私が命を落とす可能性も想定していたが、私たちは不夜病ウィルスには罹患していないのか?」
食い気味に口を挟んだ翠に対し、石黒は顔を曇らせて言葉を濁した。
「…いや。それに関しては、僕の見たものから判断すると、むしろ信憑性が高いと思ってる。よりによって、君みたいなのが乗ってたし、Dr.天。それは一晩過ごしてみたら嫌でもわかるだろう?それより、今は窓の切断が優先だ」
石黒はデッキ上で船首に最も近い場所に立ち、真下の部屋を覗き込んだ。
「うん、傾斜角度はいい感じだけど、やっぱり足場になるような突起物は何もないね。滑り落ちたら危ないから命綱のロープで吊って作業するしかないかな…でも、向こうのマストや手摺りに括りつけるにはロープの長さが足りない。あのさ、二人で僕を引っ張り上げるのは無理だよね?」
「…石黒、背高いし、細いけど筋肉あるから重いよな」
「うん。僕の趣味は筋トレ。あとでシックスパック見せようか?身長は182センチ。体重は今は70キロくらいかな。白石は?」
「…細マッチョかよ。俺は171センチ、56キロ。腹筋割れてないぜ、チクショー」
「でも、白石は細身でスタイルいいよね。翠ちゃんは?」
「…160センチ、45キロ。でも、今はもうちょっと重くなってる。たぶん、見た目よりかなり重い。ハッキリ言って凄く重いから」
「え?翠ちゃんはちょっと痩せ過ぎなんじゃない?でも、サバ読んでても読んでなくても、この三人の中で引っ張り上げるなら、やっぱり翠ちゃんが良さそうだね」
「…」
翠は急に無表情になって黙り込んだ。
「ダメ?スカートは絶対にめくれないようにするよ。縄で縛った姿もちょっと見てみたいし」
石黒の口調と表情は爽やかだったが、その発言からは良くない願望がダダ漏れていた。
…石黒、マニアックだな。いや、俺も見るけど。
「それはそれで凄く嫌だけど、それよりも私は体力にも筋力にも自信がないし、運動神経はそんなに良くないんだ。怖い。無理だ。できっこない」
翠は青ざめて首を横に振った。
「大丈夫。絶対に君を落としたりしないと誓う。僕達は翠ちゃんを失うわけにはいかない。だって、感染症と戦うのには君の頭脳が必要だから。頼むよ」
石黒は翠の返事を待たず、立位が保てる姿勢
「翠ちゃんの利き手はどっち?」
「右」
「じゃ、右で電ノコ握ってて」
翠が電動ノコギリを握ると、石黒は翠の右手と一緒に電動ノコギリを縛り上げた。両袖も落ちないように縛る。
「これなら、作業中に電ノコを落とさないでしょ。体も手も痛い所ないよね?」
「…ない」
「じゃ、行ってらっしゃい」
そう言った石黒は、翠の左手を引いてデッキの端に行くと、向かい合ったままデッキの向こうにゆっくりと翠を抱き下ろし、翠は「あ」という声を残して、甲板から姿を消した。白石が慌ててデッキの下を覗き込むと、石黒とロープで繋がった翠が、操舵室のフロントガラスに腕と足の前面をくっつけるようにして貼りついていた。斜めになった窓ガラスの上に覆い被さっている状態なので、ロープは張っておらず、ブラブラと吊り下がっているような危険な状況ではない。
「フロント部分が前に張り出しているタイプで、傾斜も緩やかで良かったよ。ロープは万が一の保険」
石黒は腹這いなりながらほっとしたように言った。石黒はデッキから顔を出し、翠を見守りながら、デッキの端を両手で掴み、体をデッキの床にピッタリとつけていた。
「白石、僕の背中に乗って重しになっててよ」
「了解」
白石が腹這いになった石黒の背中に
「翠ちゃんてさ、あんなに可愛くて賢いのに嘘つけなくて、意外とチョロいし、ちょっと天然入ってるところとか、どストライクなんだよね。船から無事下りられたら、付き合ってくれないかな…本気で落としたい」
石黒が
「石黒さ、無理やり翠ちゃんを行かせて、また嫌われたんじゃないのか?」
「うーん…やっぱ嫌われるかな?でも、日が落ちる前にどうしても操舵室を確認したかったんだ。船が動かせるかどうかで協力を要請しなくちゃいけない人物が変わってくる。もうゲームは始まってるんだ。一刻の猶予もない」
「俺、状況が呑み込めてないんだ。なぁ、どういうことか教えてくれよ。夜が来たらどうなんの?」
和邇士郎の文書には【夜間に興奮状態になる】とあった。【食人を渇望】するようになるのは、発症後三日から一間前後…まだ今晩ではないはずだ。
「それは僕にもわからないけど、もし、船が動かせるとしたら機械に詳しい仲間を見つけ出して守らないといけない。感染症をどうにかできるかもしれない白石と翠ちゃん、それに船を動かせる者が揃えば、僕らは助かるだろう?夜が来る前に安全な所に隠れていれば、また明日、相談することができる。でも…夜が来なくても、もうどうにかなってると思うよ」
「どういうことだよ?」
「セレモニーホールに残った者に順位付けが起きてる。トップはたぶん赤城。彼は恐怖で人を支配することに
「まさか…赤城が裏社会の女ボスの…」
「そうそう。【
「皆殺し…?」
「いや、今はしないと思う。人は利用できる。最初のうちは味方につける方が得策なはずだ。殺そうと思えばはいつでも殺せる。僕もそうだから」
「石黒も必要なくなれば、人を殺すのか?」
「いや、例えばの話だ。殺人なんかしたら翠ちゃんの傍にいられなくなる。あ、翠ちゃん終わったの?中に入れそう?」
見ると、操舵室のフロントガラスに人ひとりが通れるくらいの大きさの丸い穴が開いていて、翠はフロントガラスにへばりついたまま、嬉しそうに左親指を立てて笑っている。
…可愛い…
「可愛いな…。あ!翠ちゃん、ちょっと待って!ロープを緩めるから。そのまま中に入られたら、僕らが引っ張られて落っこちちゃうよ」
その後、翠は操舵室に入ることができ、中から扉を開けて、石黒と白石を迎え入れてくれた。しかし、残念なことに石黒の期待したような結果は得られなかった。
「くそっ。外部への連絡を絶つために、無線は使わせないだろうとは思ってたけど…。操舵装置に至っては全部断線させてから、ご丁寧に水をかけてる。これじゃ、修理して電気を通すことができてもショートするから使えない。操縦装置や操舵機も全部イカれてる…」
悔しそうに唇を噛んだ石黒だったが、落ち着きを取り戻した後で、今晩を過ごす場所について、翠と白石にアドバイスしてくれた。ウィルスの影響による興奮で、どんなことが起きるのか予測ができない。三人一緒にいることはお互いにとって危険だと石黒は言った。そこで、翌朝に落ち合う場所だけを決め、三人はそれぞれの船内図とにらめっこし、一晩を過ごす場所を考える。石黒いわく、この船内図も誰にも見せてはいけないとのことだ。船の内部構造を知っている者が【隠れんぼ】では有利になる。朝になるまで鬼に捕まってはならない。
…今夜、何かが起こる。
白石は緊張のあまり、胃に穴が空きそうな気がしていた。
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