第3話 あなたとキスしたくないだけだ【4F操舵室 】

 扉の外は高級そうな赤を基調とした絨毯が敷かれた長い廊下だった。壁の丸い大きな窓からは青い空が見えている。近づいて窓から下を見下ろすと、さざめくだだっ広い水面が果てしなく続いている。陸地は影も形も見当たらず、空と海だけの景色にはため息しか出ない。ふりかえって見ると、先程、出て来た扉には【セレモニーホールⅡ】という彫刻で囲まれたシルバープレートがかかっていた。


「本当に船だったんだな…」


 白石は思わず呟く。船上にしては波の音も揺れも感じなかったが、それは船体が大きかったためのようだ。情報が間違っていたらいいと思っていた。出鱈目でたらめならその方が良かった。


「驚くよね。僕も海の上にいるって、最初に気づいた時にはビビったよ。ここはどこなんだろう…って。調べてみたんだけど、位置情報が全くないから現在地はわからなかったよ」


 白石の隣を歩いていた石黒は苦笑しながら話を合わせてくれた。その発言に白石は違和感を覚える。


「え?部屋を出たのは初めてじゃないの?」


「うーん、三回目?来客用の船内図も見つけたんだ。一枚あげるね。スイちゃんもどうぞ」


 石黒はズボンのポケットから折り畳んだ細長いカラーのパンフレットのようなものを白石と翠に渡す。翠は無表情だったが「どうもありがとう」と、言って受け取った。


「実は僕、みんなより早く目が覚めたみたいで、少し船内を歩いてみたんだ。ちなみに今いるのは2階だよ」


「一人で?」


「うん。みんな寝てたし」


 目が覚めた時に自分の置かれている状況が全くわかっていなかった石黒は、その時は恐怖よりも好奇心の方が勝っていたらしい。

 あちこちの施設や部屋を見て回ったが、どこも鍵は開いており、電気もシャワーも自由に使え、娯楽も充実した至れり尽くせりの設備から、いかにも金持ちが趣味で購入したプライベートクルーズといった感じだという。


 ただし、通信機器はない。電話、インターネット、その他の無線通信機器は勿論、発光信号に至るまで、船外通信に関わる既製の手段は綺麗に取り除かれていたそうだ。原始的な旗やライトなど、船にあるもので作ることは可能そうだが、世界的な大富豪のことだ。プライベートビーチならぬプライベート海域を所有していてもおかしくはない。それに、文書によれば、全員が人食い感染症に罹患している身の上だ。事情がバレたらどうなってしまうのか、考えるのも恐ろしい。外部からの助けは期待出来そうになかった。


「小型って言っても200人も乗れる船だよ。調度品も高級品で豪華だし、食べ物も一週間どころじゃないよ。節約すれば一ヶ月は持つんじゃないかな。冷蔵冷凍も、温めるためだけなら電子調理機器も充実しているし。スイーツや菓子類、飲み物も取り揃えてある。ああ…酒類やタバコや非合法の嗜好品もあったな。そこら辺は寛容な人柄みたいだね。さすが【SANDORAの和邇わに士郎しろう】の持ち船。僕達のパパはスケールが違う」


「…それなんだけどさ、俺たちって、本当に兄弟なのか?」


 白石はおそるおそる尋ねてみる。石黒は困ったようにうなずいただけだったが、白石の疑問には翠が答えてくれた。


「たぶん、そう。母親の人種も違ってたりで、ちょっとわかりにくいけど、何人かは共通する身体的な特徴がある」


 スイの見たところ、葵衣あおい赤城あかぎは耳の形がそっくりらしい。遺伝子が現した父親の和邇士郎の耳の形だという。ただし、葵衣はコーカソイド、赤城はモンゴロイドの系統なので受ける印象が大きく違い、一見しただけではわかりにくい、と翠は言った。


「今、気づいたが、石黒と白石は爪の形が同じ。指先が尖ってて細いのもそう」


「あ、ほんとだ。翠ちゃん、観察眼鋭いね。ひょっとして、専門は遺伝子学かな?遺伝子操作は得意?」


「その質問には答えられない」


 そう言った翠は唇を引き結んだ。どうやら、これ以上聞くな、ということらしい。大きな翡翠色の瞳。華奢な体。滑らかな白い肌に桜色の唇。頑固そうな印象だが、文句なしに美少女だ。しかし、心なしか常に警戒し、張り詰めた様子なのが気になる。こんな状況におかれては無理もないのだが。


 …しかし…【遺伝子学】とは…?


 石黒の言葉はどことなく意味深だ。早く目覚めただけでなく、起きている事態や翠や他の者の情報についても何か知っていることがあるのかもしれない。味方だと信じたいが、和邇士郎の文書の内容が事実だとすれば、否応いやおうなしに敵になってしまうかもしれない。完全に気を許すわけにはいかなかった。


「いきなり馴れ馴れしかったよね、ごめん。二人とも、あそこに階段があるから、それで4階に上がるよ」


 石黒は翠にさらりと謝ると、廊下の奥まった一角を指で示す。翠は機嫌を損ねたのか黙ったままだったので、白石が慌てて「おう」と、返事をした。


 4階は他のフロアーとは全く異なる印象で、細く狭い廊下が伸び、その先は病院か研究施設のような白いリノリウムの廊下が続く冷ややかな空間だった。


「このフロアは部屋が三つあるんだけど、どこも開かない。生体認証システムか、何らかの理由で封鎖されているのかもしれない。扉も壁も頑丈そうだし、隙間も突起物もないから侵入できない。僕にはお手上げだ。白石はどう?」


 突き当たりの操舵室に着くまでの壁に、目をこらすと薄い線のようなものが見える箇所があった。


「無理だろ」


「翠ちゃんは?」


 翠も黙って首を横に振った。


「だよね。他の7人の中に機械系強い人いるかな?もし、僕らで操舵室に侵入できなかったら、後で聞いてみようかな」


 石黒は独り言のように呟いた。


「あのさ…石黒って、何でそんなに落ち着いてんの?もしかして、SANDORAや和邇士郎の関係者?」


「え?違うよ。別に落ち着いてはいないけど…こういうのはちょっと慣らされてる」


「慣らされてるって!?」


「僕の母親は諜報員…あ、エージェントとかスパイって言った方がわかりやすいかな。一人の男に縛られたくなくて結婚する気はなかったけど、優秀な子供は欲しかったらしい。和邇士郎から卵子と母体提供の要請があって、莫大なお金をもらって承諾して、僕らを産んで教育して、この計画にエントリーさせた。あわよくば、SANDORAの後継者に…って、魂胆かな。我が母ながら欲に忠実。聞いてたから覚悟はしてたけど、まさか、生き残りを賭けたデスゲームとは思わなかった」


 白石は思わず石黒の顔を見た。飄々とした黒縁眼鏡少年はにこやかに笑っている。


「でも、安心して。僕、SANDORAにも和邇士郎にも興味なくて。強いて言うなら、生きて帰って母さんの鼻を明かしてやりたい。あの人、僕らのためにもらった金全部使っちゃってさ。なのに、子供連れて行かれる時に散々抵抗して、ワンワンやかましく泣いたんだ。【私の息子を連れて行かないで】ってさ。情が移って逃がそうとしたのがバレて、酷い目にあわされた。馬鹿なヤツ。戻ったら嫌というほど親孝行してやろうと思って」


「わっ、私も…!お母さんは【世界を変えて。生き残って和邇に選ばれて】って、言った。お母さんはSANDORAを継ぐことを私達に望んだ。【あなたは私達の希望。私達の宝】だ、って。お別れの時、お母さんは私達にすがって泣いて謝った。でも、私にはお母さんの気持ちがわかる。お母さんの期待に応えたい」


 感情の乏しかった翠の瞳が強い光を湛えている。白い頬に赤みが差し、少し早口になっていた。石黒は翠の言葉に共感したように頷いた。


「そっか。僕、別にSANDORAいらないから、生きて帰れるなら、それでいいんだ。だから、翠ちゃんとは手を組んでも問題ないってことだよね。宜しく」


「こちらこそ、宜しく」


 翠はそう言って、石黒が差し出してきた手を握った。


「あー…俺も後継ぎとかそういうのは無理だな。俺は親から全く事情を知らされてなくて。【和邇士郎に選んでもらえたらいいね】とは言われたけど、別に泣かれたりはなかったな」


 白石は二人の話に違和感を覚えていた。この二人は眠らされて連れて来られたわけではなく、母親からちゃんと説明されて、承知の上で来てたのか…


「…白石ってさ、兄弟いる?」


「いるよ。5歳上に兄がいるけど」


「似てる?」


「いや、顔はあんまり似てない」


 石黒は言葉に詰まり、辛いような憐れむような何とも言えない表情で俺を見た。


「じゃ【君】は違うんだね。でも、僕は白石にも生き残って欲しい。白石は僕らと同じだよ。人の心を失ってない。サロゲートの母親似なんだよ、本質が」


「そうかな?俺、母親にもあんまり似てないけど」


「だろうね。でも、白石、イケメンだよ。集められた男の中では一番容姿がいいんじゃないかな」


「そうか?全員、格好良かったけど」


「外見も良くなるように遺伝子操作されてる。でも、私も白石の容姿が一番素敵だと思う。白石は私の次に和邇に似ていない」


 翠も真顔で口を挟んだ。外見がいいらしいのは、よく褒められていたが、目立つのが嫌で、あえて隠していたこともあった…人見知りだったからだ。しかし、この二人に評価されるのは何故か誇らしい気がした。


「何だか、照れるな」


 白石が言うと、石黒と…翠も声を上げて笑った。


「僕はやっぱり白石が好きだよ。宜しく。一緒に生き残ろう」


「おう」


 差し出された石黒の手を握る。その後で、華奢で柔らかな手が白石の手を包み込んだ。翠だった。


「私もだ。宜しく」


「あ、ああ…」


 翠みたいな超絶美少女に手を握られて嬉しくない男はいない。白石も例外ではなく、カーッと顔に血が上って熱くなり、手を離されるまで直立不動のまま硬直していた。


 やがて、廊下の突き当たりまで到着したのだが、操舵室の扉は予想通り…開かなかった。


「翠ちゃん、そのパネルの前に立ってくれる?」


「ん」


【操舵室】というシルバープレートが掛かった白い金属製のドアらしものの右横…150cmくらいの高さに液晶パネルが設置してあった。ただの客船の操舵室とは思えない厳重なシステムだが、そもそも、やっていることが非合法で人道的でないので、この物々しい設備にも違和感は感じない。

 液晶パネルのセンサーは翠を感知したらしく、すぐにパッと点灯したが、しばらく【checking now…】と表示された後で【n/a】となり、画面がブラックアウトした。


「該当なしか。僕の時と同じ」


 試しに白石もやってみたが、結果は同じだった。


「あんまり期待してなかったけどね、残念。じゃ、外の空気吸いにデッキに出ようか?今日はいい天気だし、船首からの眺めはいいよ…と、言っても海と空しかないけどね。翠ちゃんさ、タイタニックって映画知ってる?両腕を広げる有名シーンやってみる?」


 白石はその映画を見たことがなかったが、翠は知っていたらしく、憮然とした顔で即答した。


「しない」


「ごめん。今みたいな状況で沈没する船の話なんて、縁起でもなかったよね」


「ちがう。あなたとキスしたくないだけだ。白石がOKなら、彼とやってくれ。私は嫌だ」


 …え?キスって?


 白石は何のことかわからなくて、戸惑った末に石黒を見た。石黒は堪えきれないといった様子で腹を抱えて爆笑している。白石が尋ねると、石黒は「あぁ」と言って、説明してくれた。


「タイタニック号は知ってるかい?」


「沈没した豪華客船だろ?」


「タイタニック号を舞台にした悲恋の恋愛映画があるんだ。ずいぶん前の映画なんだけど、金曜ロードショーで今もたまにやってたりする。船首に立って腕を広げた女の子が、後ろで支えている恋人とキスをするのが、有名なラブシーンなんだ」


「俺もお前とラブシーンなんかしたくないぜ」


「何でそこにばかり注目するかな。僕は別にキス魔じゃないし、会ったばかりの女の子の唇をいきなり奪ったりしないよ。船首に立たせる所までのつもりだったんだ。生真面目というか、ピュアというか、今まで付き合った子にはいなかったタイプだ。うん、凄くいいよ。可愛いな、翠ちゃんは」


「ふざけるな」


 顔を赤くした翠は今度こそ本気で怒ったようで、石黒を一睨ひとにらみすると、デッキに繋がっているらしい操舵室の横にあった階段を乱暴な足取りで踏みしめながら、一人でさっさと上って行ってしまった。


「…おい、怒らせちゃったぞ」


「うん。作戦」


「へ?なんの?」


「何でもいいから、あの子の気を引きたくて」


「…え?」


「たぶん、翠ちゃんだけが僕らと違う。異質なんだ。惹かれる…凄く。ヒトという種の本能?魂の共鳴?なんだか、うまく言えないな」


「好きになったってことか?」


「好き…?あぁ、そうかも。一目惚れ」


 石黒の表情は全く変わらなかったが、口調はキッパリとしていた。その様子に白石は焦りを覚える。


「石黒、俺も言っておきたいことがあるんだけど、いいか?」


 石黒は意外そうな顔をして「どうぞ」と、白石を促した。白石は大きく息を吸って吐いた後、小さな声で言った。


「俺もあの子に惚れたみたい」


「それは困ったな」


 石黒は白石の背中をぽんぽんと叩き、「ま、仲良くやろうよ」と言った。

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