4-5


 義康を乗せたシーサイドラインの先頭車両は、あろう事か市大医学部駅のホームから数メートル手前でぴたりと止まり、ドアを開いた。面食らった義康の目の前には、横浜市立大学附属病院へ繋がる連絡通路の屋根が伸びている。

「えい、足元お気をつけくでーさい」

 クセっ気たっぷりのアナウンスを披露して来た乗務員が、運転席から義康を振り返り、人差し指と中指をぴっと立て、病院の方へ振って見せる。線路からそこへ降りて行けという事だろう。義康は彼に一度頭を下げ、ごくりと唾を飲み込んでから、車両の外へ飛び降りる。

 ホームの端には既に二人、黒服坊主が待ち受けていた。義康を見つけて慌てて飛び降りようとする彼らを、数人の駅員達が壁を作って遮っているのが見えた。もはや街全体が自分を、法子のケータイを守ってくれている。義康はその空恐ろしさに少しぞっとしつつも、今は感謝だけをする事にした。

 連絡通路の白い屋根の上を渡り、エアコンの室外機を辿って大学附属病院のベランダへ飛び降りる。屋内を静かに歩いて息を整えながら、別棟一階の調剤薬局へ向かう。今日この時間であれば、母がいるはずだった。

 母はハインリヒの事を、そして法子の事をどれだけ知っているのか、義康は少しでも聞いておきたかった。住んでいたアパートやこの勤め先の位置は、決してただの偶然で無いのだろうと、今の義康はもう察していた。アクセスの限られたハインリヒへすぐに向かう事が出来るよう、父はヘリポートに近いこの地を住まいと決めていたのだろう。

 何度か尋ねた事のある母の勤め先を、義康はすぐに見つける事ができた。外来患者用の自動ドアを入り、受付で忙しそうにする母の姿を見つける。義康が声をかけようと足を進めたその途端、待合ロビーのベンチで座って待っていた黒服坊主と、ぴたりと視線がかち合った。

「……うっそ」

 と、義康の口から思わずそんな言葉が洩れた。踵を返し、数メートル先の出口を振り返るも、新たに入って来た別の坊主の姿にびくりと足が止まってしまう。奥の病室につながる通路からも、また一人。表情の見えないサングラスの視線が、三方向から義康を挟み、そしてゆっくりと近づいて来る。

 あ、これ、終わったわ。全身から気力が抜け始めるのを、義康は感じる。だが。

 本当にこれでいいのか。

 一瞬、義康の中を、ここに来るまでに自分を助けてくれた人々の姿が駆け巡った。こんな事で、たかだか坊主に囲まれたくらいで諦めてしまうような仕事振りで、報酬フィーを得られるわけが無い! 義康の中のほんの僅かな勇気が、彼の足をぐっと支えた。その時。

「三十九番でお待ちの末山千陽まつやまちはるさま、末山千陽まつやまちはるさま!」

 ハウリングぎりぎりの大音響で、呼び出しアナウンスが待合ロビーを揺るがす。往診の患者も、看護師も、そして坊主たちも思わず首を引っ込め耳を塞ぐ。母の声だ。そう察した義康は、出口側の坊主に向かって思い切り踏み込み、ぶつかる寸前で身をかがめてその脇を潜る。

 そして。自動ドアがゆっくりと開き、現れたその人のシルエットを目にした瞬間。義康はケータイをホルダーから取り出し、


 その人に向けて放り投げた。

「姉さん!」


 ぱしん、と彼女はそれを受け止めた。

 じゃらり、と鳴った黒いチェーンが、息を吹き返したように煌き揺れる。

 ブラウンの髪とブルーの瞳、いつものヘアピンとノンフレームグラス。

 そこにいたのは間違いなく、江戸屋法子えどやのりこその人だった。


「ん、お疲れ、ヨシくん」

 にこりと微笑む法子に向かい、安堵の溜息を一つ挟んで、

「お帰りなさいませ、『ロージー』様」

 と悪戯っぽく返す義康。ふふん、と得意げに笑った後、法子は立ち尽くす坊主達をきっと見据える。

「んで、どうすんの、ナマグサ坊主達。せっかく病院に来てるんだし、色々手間省けていいかもよ?」

 ケータイを持つ右の手首をくねくねと動かし、チェーンをちゃらちゃらと遊ばせる。それを見た坊主達は、一度は拳を固めて身構えるが、三人互いを見合った後、両手をパーにして天に挙げ、降参の姿勢のまま義康達の脇を通り、そそくさと外に出て行った。

「……ぶっちゃけ、普通に姉さんが持ってった方が安全だったんじゃないの?」

 あっさりと追い返した法子を見て、義康が思ったままを呟くと、法子は「んー」と小首を傾げてから、

「一国の主がこんな物騒なもん、ぶら下げてらんないでしょ? 助かったわよ」

 と、義康の肩をぽんと叩く。ああ、いつもの姉さんだ。訪れた安堵に。全身の緊張がふっと解けて行く。

 そして、大音響アナウンスの余韻に未だざわつく待合ロビーで、二人同時に受付の方を振り返る。義康の母はまるで何も無かったかのように、受付デスクで忙しく手を動かしている。義康が母の元を離れてからまだひと月しか経っていないと言うのに、妙に久し振りに顔を見た気がした。

 デスクに歩み寄り母に声をかけたのは、法子だった。

「お母さん、久し振り」

「あれのりちゃん、どしたの急に。何よ、ヨシまで一緒で」

 受付に座ったまま、義康の母は二人を見上げ、きょとんとしている。義康と法子は互いも見合い、くすりと笑う。母が本気なのかとぼけているのか、二人はしっかりわかっているつもりだった。

「ちょっとこれから近くで用事があるから、ついでで」

「あらそう、忙しいのねのりちゃん。ヨシはちゃんと役に立ってるの? のりちゃんでゴロゴロしてるだけじゃないの?」

 法子はわざと「んー」と勿体ぶってから、

「大丈夫よ、意外と。ね、ヨシくん?」

 と義康に笑いかける。意外とって何だよとむくれて見せながら、義康も笑った。

 母と姉の言葉の端々に見える遠慮に、ほんの少しむず痒いものがある。義康の知る限りでは実に十年間、彼女らの間に言葉の行き来は無かったはずだ。それでも久し振りに揃った家族三人のひと時、その心地良さに今は素直に浸ることにした。

 わずかの間、言葉が途切れた。良かった、大丈夫だ。自分が安堵したように、きっと彼女達もそう思っているのだろうと、義康はその沈黙の意味を汲んだ。

「んじゃもう行くね、お母さん。今度またゆっくり、ごはんでも食べに行こ」

「そうね、うん。ヨシに美味しいとこ連れてってもらおうね」

 あはは、と最後に笑って、法子は一足先にロビーを出る。そんじゃ、と後を追おうとした義康を、ヨシ、と母が呼び止める。

「お姉ちゃん、ちゃんと守ってあげなさいよ。あんたお姉ちゃんの事、ずーっと好きだったもんねえ」

 遠慮の欠片も無い母の言葉に、義康は耳まで熱くなる。上手く否定も肯定もできないまま、ただこくりと頷き、またね、と逃げるように母の元を去る。

 結局それが一番恥ずかしい別れ方だったんじゃないかと、義康は走りながら自分に苦笑する。そして、駐車場で待っていた法子に一度手を振ると、ミラ・クラシックの助手席に乗り込んだ。

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