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もう少し真面目に運動しておくべきだった。義康はそんな後悔をしながら、肩で大きく息を切らす。汗と雨でじっとりと重い服が、サウナスーツのように蒸れて熱い。
広い通りに出た所で、義康の目に入ったのは横浜市
「あっれ、江戸屋さんのケータイじゃないスか、それ!」
義康の背に声がかかった。びくりと振り返ったそこにいたのは、義康と同じか少し下の年頃の、骨ばった顔に鼻ピアスを付けた男。黒いランニングシャツから伸びた細腕で、競技用のような自転車を左右一台ずつ、軽々と持ち上げていた。
「えっと、すみません。どちら様……」
「あ、『ノブリーク』のノブっス、ピスト屋の! この間ぁ、お姉さんにはすっげえ世話になりまして!」
確か以前、何度かその名の店から電話が掛かって来たのを、義康は思い出した。ノーブレーキ自転車の公道での使用が条例で禁止されたせいで、始めたばかりの商売の出鼻を挫かれてしまい困っている。そんな主旨の相談事だった筈だ。
その時の法子は、まるで駄々をこねる子供を叱るように、ぴしゃりぴしゃりと何事か言い付けていたようだった。彼がその相手かと思うと、義康には何となく合点が行った。
「今ね、ここのバスケコートとか競技場借りて、ピストバイク体験教室やってんスよ。ケッコーこれが人集まるって……あ、大丈夫っス、公道じゃ絶対乗らないように生徒さんにはちゃんと言って……あ、なんか急いでます?」
楽しそうに話していたノブだったが、そわそわと周囲を見る義康の様子を察し、そう訊ねてくれた。
「ええ、ちょっと……あ、やべ、来た!」
義康の視線を追った先に、男も黒服の坊主達を見つける。あからさまにこちらを探しているその様子を理解したのか、ノブはひゅーと軽く口笛を吹き、
「うっわ、怪しいスねえ。んじゃこれ使ってくださいよ、チャリ! あ、ちゃんとブレーキついてる奴っスから!」
左肩に担いでいたマウンテンバイクを、がしゃんと地面に下ろして見せる。いいんですか、と義康が
「いいっスって! 今度はお姉さんと一緒に、俺らのイベントでも見に来て下さいよ。ね!」
ノブは鼻ピアスを揺らして屈託無く笑い、もう片方の自転車を下ろして自分が跨る。そしてくいくいと器用に前輪を持ち上げて方向転換し、ぐんと踏み込んで声を上げ、坊主達のど真ん中へ突っ込んで行った。それはちょっと薮蛇なんじゃないかと思いつつも、義康は彼の好意に感謝し、ギアを落としてペダルを踏み込んだ。
「え、あ、東川電設様、お世話になってます……ちょ、ちょっとすみません! 実は今、た、立て込んでまして……!」
朝九時直前のケータイの呼び出しを、義康はついつい受けてしまった。山下橋までほぼ全力でペダルを回し、住宅街の網目を潜りながら石川町ジャンクションまで走ってきたところだった。
確かに今日は火曜日で、電話を取らなくていい日ではなかったが、通話しながら慣れない自転車を片手で操るのは、義康には少々難易度が高かった。
車の免許でも取っておけば良かったかと後悔する。だが、運転中の通話なんて器用な真似が自分に出来るだろうかと、そこは自身でも疑問に思う所ではあった。
「あ、ご存知なんですか。ええ、えっと……横浜スタジアムの、8番入口? わ、わかりました、行ってみます。ありがとうございます!」
何故か先方は、義康がケータイを持って逃げ回っている今の状況に察しがついているようだった。車を用意しておくからと、素早く合流場所を指示してくれた。
鷹幡の話を信じるとするなら、法子とこのケータイで話すことの出来る人間全てが『ロージー・ベイマン』の正体を知っているという事になのだろうか。それとも、単純に法子の事を助けるつもりで、こうして協力してくれるのだろうか。どちらにしろ、法子のあの『ロージー・ベイマン』の姿を見て、お得意様たちは一体どんな感想を抱いているのだろうと、義康も少し興味を抱く所ではあった。
言い渡された場所にあったのは、電気自動車用充電スタンドが十基ほど並べられた新設駐車エリア。停められていたワゴンタイプの
「は、ハートキャッツ江戸屋です……お世話に……あれ、松岡さん?」
「おお、義康君か! 大変だねえ。とりあえずチャリ、後ろに乗せなよ」
禿げ上がった額と優しそうな垂れ目。見覚えがあった。スーツ姿のせいで思い出すのに少し時間を使ったが、法子と共に新型冷却板を見に行った、松岡空調設備の松岡氏だ。
「ええ、今合流しました。今日は港南区の病院を二件回る予定でしたので、丁度いいですよ。それでは、どうぞよろしく!」
彼の手にした携帯電話からは、先ほど自分のケータイにかけてきた東川電設の人間のそれと、同じ声が聞こえてくる。一体どういう事なのか、義康はまだ理解し兼ねていた。
新品のようだったマウンテンバイクが、水泥の跳ね返りでもう汚れている。後部座席を畳んで作った空間に、義康はよいしょとそれを担ぎ上げて乗せた後、自分もパーカーの水を軽く払い、ドライバーシートの背もたれに隠れるようにして乗り込む。
まさかと思いながら、義康は恐る恐る周囲を見回す。あっさり振り切れる相手ではなさそうだったが、やはりまだそこかしこから、わらわらと黒服坊主達が現れる。法子のネットワークは言わずもがなだが、この連中も大概じゃないかと義康は呆れる。
「ああ、あれに追われてるのね。なんかアリみたいだねえ、黒くてちょろちょろ出てきてさ」
まさに今義康が思った通りの感想を、松岡のやけにのん気な声が代弁する。と、松岡の駆るEVが独特のモーター音と共に、うぉんと唸って後輪をぎゅると回す。濡れた駐車場でスムーズにバックし出口への順路へ戻った後、ドライブギアで平坦に、坊主に向かって加速する。
「ちょ、ま、待って! あぶ……」
「あはは、大丈夫ですよ。勝手に避けてくれますよ、きっと」
ボンネットに筆字のロゴで『松岡空調設備(株)』と社名の入った、飾り気の無いごく普通の営業車。それが真っ直ぐ自分達に向かってくる異常な構図に、坊主たちはようやく気が付き、慌ててそれぞれの方向に飛び退る。
「んー、いいですねえ。騒音も引っかかりもないスマートな加速。技術って素晴らしいものですねえ……」
バックミラーに小さくなっていく黒服坊主達と、鼻歌を歌いながら公道へ出る松岡を見比べて、義康はただ引きつった笑みを浮かべる事しか出来なかった。
「例の冷却板構造、江戸屋さんのおかげで、早速自動車用の急速充電機にも採用が検討されていてね。今日はその調査に協力して頂ける設置施設さんを回っていく予定なんだ」
打ち合わせの間はゆっくりしてなよ。松岡が訪問先を転々とする間、義康は彼の言葉に甘え、久し振りの運動に疲れた身体を車内で休めていた。道すがら、時折義康は窓から外の様子を伺ってみたが、さすがにもう黒服坊主達は追っては来ないように思えた。
横浜医療センター近くのセブンイレブンで、義康が手早く昼食を済ませた頃には、雨はもう止み空に晴れ間が見えていた。自転車でまた逃げる事になるとしたら、天候の回復はありがたい。何となくそう安堵した時、義康のスマートフォンに、法子からのメールが届いた。
「六時に横浜ヘリポートね」
ただそれだけのメッセージだったが、法子が何の為にそこを合流地点にしたのか、義康には理解できた。ハインリヒへ行くのだ。天気が回復した途端のそのメッセージだ。そうに間違い無いだろうと、義康は確信した。
松岡にその旨を伝えると、
「じゃあ、五時には新杉田の駅で降ろしてあげますよ。シーサイドラインで市大医学部駅まで十五分くらいだったかな。見つからないように上手く時間を調整してくださいね」
と、てきぱきとスケジューリングを提案してくれた。自転車もこのまま預かってくれるという松岡の柔軟な対応に、義康は深く感謝し、ありがとうございますと頭を下げた。
法子が、『ハートキャッツ江戸屋』がつないで来た縁。その大きさと強さの片鱗を今目の当たりにしているのだと、義康は確かに感じた。
ならば、自分が得られる
言葉の通り、五時に僅かに遅れる事も無く、松岡のワゴンは新杉田駅前のロータリーにするりと泊まった。ありがとうございました。松岡に向かって最後に頭を下げ、義康は改札へと走る。だが。
「おい、やっぱり来たぞ!」
「こちら
坊主の一人が携帯電話に向かってそう叫ぶのが、義康の耳に届いた。どうやら本当に、BOZEバンズ・ブラザーズの一員だったようだ。マジかよ、とあらゆる驚きをその一言に吐き出して、義康は階段を駆け上がる。シルバー地にカラフルな幾何学模様をあしらったシーサイドラインの車両が、ちょうどホームに滑り込んできた所だ。
「ちょっと君、危ないから……あ、江戸屋の法子さんの」
階段を駆け上がってすぐそこにいた駅員が、義康の手元のケータイを見止めて気付く。
「ごめんなさい、今ちょっと急いでて……!」
「よし、わかった。君は先頭車両まで走って、早く!」
駅員の白手袋が指差す方向へ、義康は訳もわからず走る。走りながら振り返ると、追っ手の坊主達は二手に分かれ、片方は止まっている電車につかつかと乗り込んで行く。義康が先頭車両に飛び込むと、そこには他の乗客は誰もいなかった。息を切らしながらホームを見ると、坊主達を冷静に制するホームの駅員の他にも、運転手や車掌がぺこぺこと頭を下げて、乗客を下りてもらっているのが見えた。
「えい、先頭車両切り離し、緊急発車しめーす」
ひどくクセのある車掌のアナウンスが駅のホームに響き渡った途端、義康の乗った車両だけがぴしゃりと全てのドアを閉じる。ごとん、と車両が大きく揺れ、水平重力の動きを感じる。と、後続の車両はホームで動かぬまま、だんだんと離れていくのが見えた。
「えい、本車両緊急につけー、市大医学部駅めで直通となりめーす」
義康は耳を疑った。聞き取りづらいそのアナウンスも、その内容が余りに現実離れしている事だけは理解できた。確かシーサイドラインは急行も無く、並木中央駅から入れる操車場以外には、車両の追い越しが出来るような箇所も無いと思っていた。
自分を、いや、法子のケータイを守る為に、他の車両の運行をストップしているというのだろうか。義康は唖然としたまま、ともかくシートに座りふうとひと息つく。本当に直通だというのなら、市大医学部駅まで十分とかからないだろう。ヘリポートに行くまでにやらなければならない事は無いだろうかと、義康は呼吸と思考を整理する。
火曜日、五時過ぎ。義康はふと、自分の母の勤め先がすぐ近くである事を思い出す。今は母が一人で暮らす芝町のアパートにも、駅を挟んでヘリポートと反対側ではあるが、何とか立ち寄る事は出来そうだった。
待ちぼうけを食らった乗客が立ち尽くすホームを、もういくつか通り過ぎていた。母の勤め先と自宅のどちらへ行くべきか、どちらにも行かざるべきか。義康は法子のケータイを握り締める。
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