4-3

 マンション正面玄関付近の様子を見る為に、二階で一度エレベーターを止めよう。鷹幡の提案に従い、他に乗る住人がいないタイミングを見て、エレベーターに静かに乗り込む。

「緑兵衛さんはな、貧乏プロレスラーだった俺の事を買ってくれて、商売ってものを教えてくれた人だ」

 モーター音だけが響くエレベーターの中で、鷹幡はゆっくりと減っていくフロアナンバーを見上げながら、ぽつりぽつりと語る。

「団体の解散で引退しようと思ってた俺の背中を、ばっちんばっちん叩いてさ、『こんないい売りモン作るのに、どんなに一生懸命やんなきゃいけないのかを知ってるんだから、今度は他にいいモン作ってる人を見つけて一生懸命売ってみな』ってな」

 懐かしむように話す鷹幡の言葉は、義康がその詳しい経緯を理解するには、確かに少し不足していた。どういうきっかけで出会い、そして今何故こうしているのか。鷹幡と父親の関係性については、義康には想像する事しか出来なかった。だが、彼らの間に並々ならぬ絆が存在する事だけはわかる。義康はそんな風に、何となく察する事ができた。

「あの人はもう逝っちまった。じゃあ、今度は法子さんの助けにならにゃと思ってさ」

 頑張ってるわけなんですよジャックさんは! 二階でエレベーターが止まったと同時に、鷹幡はまたにかっと笑って見せた。義康も一度頷いてから、すぐに意識をエレベーターの外に向ける。

「裏口は?」

「非常階段から駐車場に出られます、けど……」

 つい昨日、牟剣とそこで鉢合わせた事を思い出す義康。非常階段へのドアを鷹幡が、そっと開き、

「おい、いたぞ!」

 ちょうどそこまで登ってきた黒服坊主と遭遇すると、

「『ジャックブーツ』ぅっ!」

 すかさずドアに前蹴りを放ち、数人の坊主をドミノ倒しに転がす。鷹幡の双眸が機会を見出し、ぎらりと鋭い光を放つ。階段下に積みあがった坊主の山に向かって、とう! と飛び上がり、一番上の坊主の背中にどすんと肘を叩き込む。

「そうらどけえ、ナマグサ坊主どもぉ! 『技とパワーの通信販売』、ジャックさんのお通りだぜ!」

 懸命に起き上がろうとする坊主達を、階段の手すりから外へ順番に放り投げる鷹幡。まさに千切っては投げの大盤振る舞い。ここが二階で良かったと義康は少し安堵しながら、開いた階段を走り抜ける。

「おい、バイクだ! そのバイク確保しろ!」

 マンションの正面玄関付近でがなり立てる声に、鷹幡ははっと振り返る。

「おいこら坊主、俺のバイクさわんな! 最悪さわってもいいけど傷つけんな!」

 手近な坊主を一掃し、自らもひょいと手すりを飛び越す。でかい身体のその俊敏さにただただ驚きながら、義康もよいしょと手すりを跨ぎ、足を地面の方に出来るだけ伸ばしてから飛び降りて、表通りへ走る。

「いやあ鷹幡さん、こんな早うから奇遇ですなあ!」

 聞き覚えのある嫌味な声。黒地に炎をあしらった鷹幡のハーレー・ダビッドソンを背後に隠すようにしながら、十数人の黒服坊主が並んでこちらをにやにやと見ている。

「もう爺さん、勘弁してくれよ。雨ん中揃って坊主頭さらしてちゃあ風邪引くぜ?」

「うちの坊主はしっかり修行しとるもんでね、そう簡単にはへこたれんよ」

 義康はちらりと背後を振り返る。先ほど鷹幡が投げ飛ばした坊主達が、まだ水溜りに倒れ伏したままうめいている。駐車場から住宅街を抜けて行けば、タクシーのいる駅まで逃げ切れるか、あるいは。焦る気持ちを必死で抑えながら、義康は周囲の地理情報を思い出し逃亡の算段を立てる。

「さあさ、鷹幡さん、悪い事言わんから! 大事なバイク返して欲しい言うんなら、その小僧こっちに寄越してや。ケータイだけでもええて」

「……相変わらず、全っ然交渉になってねえよなあ、それ」

 あからさまに不機嫌な声で口走った鷹幡は、ゴーグルとヘルメットをゆっくりと外す。そして。

「ほら弟……いや、義康は先に行きな! ジャックさんはこいつらに商売ってモン、教えてやっとくからよ!」

 肩越しに義康を振り返り、大きく逞しい顎で行く道を指す鷹幡。ためらう余裕は無い事を、義康は既に察していた。感謝と決意をこめてただ一度しっかりと頷き、バックパックのベルトを締め直して走り出す。

「あ、おい待て小僧! 何しとんの、追え、ケータイだけでも取り返せ!」

 一人逃げて行く義康を見て、慌てて子分の坊主を急き立てる真武居。迂回するように左右に広がって走る数人の坊主達。鷹幡は、

「そもそもお前らんじゃあ……!」

 ぶんと投げたヘルメットの豪快ストレートで右の坊主を打ち取り、

「ねえだろうがっ!」

 左の坊主にぐんと駆け寄って左腕のラリアットで強烈にバントする。どさり、ばたりと倒れる坊主二人。辛うじて逃れた他の坊主は、仲間に構わず義康を追い走る。

「おら、来いよ。ジャックさんのゴングはもう、鳴ってんだぜ?」

 不敵に破顔する鷹幡に、黒服坊主達が戦慄する。強張り、警戒し、身動きの取れない坊主達の中から、ただ一人ずいと前に出たのは、

「……仕方ないの」

 真武居伏助本人だった。傘を投げ捨て、背広を脱いで傍らの坊主に預ける。

「おいおい爺さん、無理すんなよ?」

「言っとれよ、若造。泉円相洞宗せんえんそうとうしゅうが住職、この伏助ふせすけ。老いて枯れてもこの坊主達に、嵩山少林拳すうざんしょうりんけんが武の道を説いてきた身じゃ。舐められっ放しで済ませる訳がなかろ!」

 こおお、と深く呼気を置き、丹田にその気を溜めて構える真武居。へえ、と鷹幡は一度感嘆を漏らし、ライダースグローブの拳を握り直す。

 雨だけが留まる事を知らず振り続ける、緊迫の沈黙。くわ、と目を見開いた真武居の雄叫びが、高層マンションを揺るがした。

「さあお前ら、やれ! クギ出せクギ!」

 黒服坊主達の懐から姿を現したのは、鈍く輝く五寸釘。揃いのサングラスが邪悪に光る。そして、

「え、ちょっと、やめて! お願い! ジャックさん泣いちゃう!」

 鷹幡の今にも泣きそうな声を合図に、黒服坊主達の釘を持つ手が、彼のバイクに向かって一斉に伸びた。


 法子のようにチェーンを華麗に操り追っ手を撃退できたなら、どんなに格好良かったか。飛びぬけて足の早かった追っ手の一人に向かって、義康は試しにがむしゃらにチェーンを振ってみた。へなへなと弧を描いたチェーンは、あっさりと坊主の手に掴まれる。

「あ、こら! 離せよ……っ!」

 伸びたチェーンを左手で慌てて掴みなおし、両手と両脚で踏ん張る義康。綱引きの相手の向こうから、四人ほどの増援が駆け寄って来るのが見える。やばい。焦燥の汗が手を滑らせる。と、そこへ。

「ちょっとあんた達、何やってんの!」

 しゃがれた逞しい中年女性の声。いわば典型的なおばちゃん声に、義康と坊主達の足がぴたりと止まる。声のしたほうを義康がちらりと見やると、そこには白衣にエプロン、三角巾と言った、これまたわかり易い出で立ちの中年女性が、腰に拳を当てこちらを見ている。

 その背後には『みやこ製菓錦町工場』の看板。彼女が今出てきたと思われるその工場の名に、義康は聞き覚えがあった。

「あら、あんたそれ法子ちゃんのケータイじゃない……んん?」

 数メートルのチェーンを挟んで立ち尽くす義康と坊主達を、女性はしばらくまじまじと眺める。そして。

「やだ、ちょっとみんな来て! 末山千陽まつやまちはるよ、末山千陽まつやまちはるBOZEボウズバンズ・ブラザーズがこんなとこにいるわよ!」

 小太りの彼女の頭のてっぺんから、突然黄色い声が飛び出した。何なに、末山千陽まつやまちはる? 工場から次々に現れた、白衣にエプロン姿のおばちゃん達が、義康の目の前できゃーきゃー叫びながら、踊りかかるようにして黒服坊主達の周りに人だかりを作った。

「千陽さんサイン、サインちょうだいよ、ねえ! うちの工場のみんなすっごいファンなんだから、もう!」

「ねえ私RIN‐XIリンザイRIN‐XIリンザイ推しなの! いる? ねえいる? いたぁ!」

 末山千陽まつやまちはる。平成ジャズシーンの粋とも評されるその歌唱力、そしてその甘いマスクと声が織り成す燻し銀の魅力で、主に熟年女性層から絶大な支持を集め始めた、新進気鋭のジャズシンガーだ。

 そしてBOZEボウズバンズ・ブラザーズは、彼の率いるジャズバンドである。そういえば、と義康は気付く。奇しくも彼らの正装も、坊主達と同じような黒いスーツにスキンヘッド、そして顔にぴたりと張り付くサングラスに統一されているのだ。

「あなたHO‐GUNホーガンでしょ、もーサングラス変えたって間違えるわけないじゃないのよお、照れ屋さんなんだから!」

「ねえ、なんか見た事ないメンバーいるわよ! ひょっとしてSO‐TOソウトーじゃないの? テレビ嫌いの作曲家の!」

「ちょっとサイン、この三角巾にみんなでサインしてもらおうよ、サイン! 誰かマジック、事務所からマジック持って来て!」

 工場勤めの奥様達が口裏を揃えて坊主達の往く手を阻んでくれているのか、それとも彼らが本当にBOZEボウズバンズとやらなのか。黒服坊主達の見分けがどうしてもつかない義康に、それが分かる筈もなかった。

 ただ、最初に大きく声を上げたおばちゃんが、義康を振り返って小さくウインクするのが見えた。義康は小さく頭を下げてから、工場の裏手へ走り出す。

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