4-2

 八時を目前に、肩を冷やす寒さに身震いしながら義康は目を覚ます。ひんやりとしたリビングと、閉じたままの法子の部屋の戸を寝ぼけ眼で見回してから、ソファに転がっていたリモコンを拾い上げてテレビをつける。

 習慣に近い感覚で、義康の指はヨコトーテレビにチャンネルを合わせる。普段はキッチンから眺める朝のニュース。

 だが義康は、ある小さな違和感を感じて、別のチャンネルをいくつか回す。子供向けの教育テレビ以外はどこも同じ、天候の悪い海上の映像ばかりを映している事に気付く。どうやらどの放送局も、ひとつの同じニュースをそれぞれに報じているようだった。四国海での座礁事故。多少の表現の違いはあれど、画面のあらゆる箇所にそうテロップを付けていた。

 そして、どのチャンネルの映像にも同じように映っている、風雨に霞む海上施設らしきそれに、義康は見覚えがある事に気付く。それこそついさっきまで、似たような物を目にしていたような。

「台風で座礁した調査船の乗組員は全員無事保護され……」

「後八時から、ハインリヒ公国元首の緊急記者会見……」

「ここ横浜市のですね、第三管区海上保安本部より、えー、間も無くお伝えする予定となっており、えー……」

 牟剣から聞き、法子も確かに知っていたその名。義康がまさに昨夜、その素性を調べていた国の名が、スピーカーからぽろぽろと転げ落ちて来る。再びヨコトーテレビにチャンネルを合わせ、義康はその目を見開いたまま成り行きを見守る。

「ただ今より、ハインリヒ公国第二代元首、ロージー・ベイマン公による緊急記者会見が開始されます。えー、ただ今より……」

 ガヤ声とフラッシュが、ひと時止む。ダブルブレストの黒いスカートスーツに身を包んだブロンドの女性が、同じく黒いスーツの男二人、そして通訳と思しき日本人の女性を従えて、長机についた。

 長いブロンドをさらりと流して頭を下げた女性の顔を、義康は思わず二度見する。そして、薄暗い会場を一斉に連射されるフラッシュが染め上げ、女性の顔立ちが明らかになった瞬間、義康は自らの目を疑った。

「……姉さん?」

 何故ならその女性は、見紛う事無き義康の姉、江戸屋法子本人に違いなかったからだ。

「ハインリヒ公国第二代元首、ロージー・ベイマンです」

 義康には法子にしか見えない、そのブロンドの女性のゆったりとした英語を、隣に座った日本人女性が、日本語訳で追いかける。

 長いブロンドのウィッグを被り、いつものメガネを外してはいる。フラッシュに映えるファンデーションと赤々と燃える唇も、確かに普段とは全く違うイメージを作り出してはいたが、心から惹き込まれるその瞳のブルーを義康が見紛うはずも無かった。

「まず、船の乗組員は全員無事……無事なまま救助されました。えー、滞在していた我が国の国民により救助されました」

 法子は一度言葉を切り、通訳が追いつくのを待ってやっている。生放送でのリアルタイムの通訳、その独特のもどかしい文法にやきもきしながら、義康はその進展をじっと見守る。

「また船が接触、えー、船がわが国の島に接触しました。接触しましたが、損害は……損害はありません、大きな損害はありません。船もそのまま……破損なども無い、破損などもありませんので、それを使って今日にでも、お帰り頂く事になります」

 時折炊かれるフラッシュ音以外は、マイクを通した法子の英語と通訳の声だけが、会見の場に淡々と響いていた。義康にはひどく奇妙な映像に見えた。

 ロージー・ベイマン公。平時は日本国内のある事務所を借り、政務を執っているという。報道陣にしてみればほとんど知らない人間なのかもしれず、その出で立ちにそう大きな不自然を感じる事も無いのだろう。だが義康にしてみれば、ほんの少しだけ変装とメイクを施しただけの自身の姉、法子にしか見えないのだ。

 これは笑うべきものなのか否か、迷った。昨夜法子が持って行った筈のスマートフォンを、今鳴らしてみたらどうなるだろう。などという悪戯心まで湧いてきた。

「えー、ケアは……領海犯ざ、領海侵犯について心配されるかもしれませんが……心配されているかもしれませんが、その必要はありません。その必要が無い事と、あなた方の国民……あなた方の国の人を、えー、事故も無く無事にお返しできるという事の喜びを、私は伝えに、ここに伝えに来ました」

 通訳が本当に正確なものなのか、義康にはわかりようもなかった。法子がこのような場を設け、ハインリヒ公という謎の人物を演じる理由も、想像すらしようがなかった。多数のマスコミを前に粛々と話すその人物が、自分の信じる通り本当に法子なのか、義康の中で僅かに自信が崩れ始めた、その時。

 インターフォンがひとつ、鳴った。

 義康はびくり肩を強張らせ、玄関の方を見る。午前八時。普段は来客など皆無のこの部屋に、こんな時間に、一体何者が訪れたのか。

 住人が持つ鍵を使うか、住人が室内からロックを外さない限り開かない正面玄関を、どうやって入って来たのか。インターフォンはカメラとモニターがついたタイプではなく、ドアの覗き穴を見ても誰かがいる様子は無い。だが、ドアの向こうには確かに人の気配がある。

 義康は壁掛けの受話器に、何となく足音を忍ばせて近づいて、一度鳴ったきり沈黙を守るそれを、恐る恐る手に取る。

「……はい?」

「宅急便でげふぁっ!」

 ……げふぁ? 訪問者の声は、突然横から殴り飛ばされたかのように、マイクから一瞬で遠ざかり途絶えた。間髪入れず、まるで重いものが床に無造作に放り投げられるような、どすん、ぼすんという鈍い音。同時に聞こえる「おふぅ!」「あぼぇ!」という、苦しげで痛々しい悲鳴。

 やがてそれらはぴたりと止み、ドア向こうが静かになった。義康の耳に再び、リビングのテレビの音声が聞こえる。ハインリヒ公の会見はまだ続いている。何だったんだ、とドアノブに手をかけた瞬間、再びインターフォンが鳴り響く。

 再びどきり、とした義康が受話器を取りに行く必要も無く、

「おっはよう、弟くん! ジャックさんだよ!」

 来客の元気な声が、ドアを頼もしく揺らした。


 玄関前に転がっていたのは、宅配業者風の緑色の帽子二つと、サングラス、そして坊主頭の男二人。

「ほらほら坊主、さっさと帰らんとおまわり呼んじゃうよ?」

 重そうに身体を起こす珍客二人を、鷹幡は微塵も恐れる様子は無い。形勢を不利と見たのか、口惜しそうに鷹幡を睨みつけた後、エレベーターホールへ足早に去っていく。

「あ、ありがとうございます……」

 と言うべきなのだろうと義康は思い、その通りに伝える。状況を見れば、あの真武居の配下の坊主達が宅配業者を装ってここに現れ、それを鷹幡が撃退した、それで間違いは無いのだろう。

 むちむちの革ジャンに、はち切れそうなジーンズの太腿。黒光りするヘルメットに、ギラギラのライダーゴーグル。ハーレーでテキサスを走るタイプのおっさんだったのかと、義康はその出で立ちにちょっと面食らう。

「オーケーオーケイ! それよりヨコトーテレビ見てる? ヨコトーテレビ」

 何故かやけに嬉しそうに言いながら、鷹幡は大きな革靴をぽいぽいと脱ぎ捨て、ソックスの足でずかずかとリビングへ上がりこんで来た。何なんだこの人は、と義康は思いかけたが、元々このマンションが彼の所有だという牟剣の言葉を思い出して、口を噤む。

「がははっ! ヅラもよく似合ってるし、さすがキレイだねえ法子さんは!」

「って言うか、やっぱり姉さんなんですか、これ?」

 鷹幡はやはり、何故かやけに得意げにうんうんと頷いて見せた。元々ほとんど確信していた事ではあったが、鷹幡にあまりにあっさりと答え合わせをされてしまい、義康は拍子抜けする。

「そしたら、初代ハインリヒ公のロック・ベイマンてのは……」

「そ。君らの親父さん、江戸屋緑兵衛えどやろくべえさんだ。んまあ、もーうちょっと名前ヒネった方がいいんじゃないの、って周りのみんなも言ってたんだけどねえ」

 義康に対して、事実を包み隠すつもりは欠片も無いようだった。訊かれる事が無かったから答えなかった、そんな風にも義康には聞こえた。

「ね、姉さんの『ロージー』って名前も、どうなんだろう、これ……」

「ありゃ、まだヒネリが足んないかい? いいセンスだと思ってたんだけど、ジャックさん落ち込んじゃうなあ」

 義康の素直な感想に、鷹幡は目を丸くして義康を見下ろす。彼が名付け親だったかと気付き、いやそんな事は、と慌ててごまかす義康。

「しっかし、調査船の乗組員とやらもニュース映ってたの、見たかい? さっきの宅配便もそうだけどさあ、連中こそもうちょっとヒネるべきだと思うんだよね、ジャックさんは!」

 まさか、と義康は何度かチャンネルを回し、インタビューを受けている「調査船乗組員」の映像を見つけて止める。ライトブルーの分厚い防水パーカーの上から、オレンジ色の救命胴衣をしっかりと着込んだ、坊主頭の男達。義康は思わず噴出し、今度こそ心の内で鷹幡に全面的に同意する。

「さあて、どうせ追加の追っ手も来るんだろうし、逃げるか!」

「た、鷹幡さん。これ、もうちょっと説明してくれてもいいんじゃないですか」

 再び目を丸くした鷹幡は、やれやれと大げさに肩をすくめて見せる。

「なんつーか、その様子じゃ法子さんから何にも教えてもらってないんだなあ、弟くん」

 義康は僅かにむっとするが、今に始まった事ではないと思い直し口を結んだままでいる。仕方ない。これから追いかけて行くしか無い。義康は昨夜、法子に思いの丈をぶつけた時から、そう覚悟をしたつもりだった。

「んじゃま、ざっくり教えたげるから、その間にとりあえず着替えといでよ。あ、上着しっかり着なよ。雨ん中のバイクは寒いぞ」

 ベランダからちらりと外を見る鷹幡。だが十九階のこの部屋から、さすがに地上、正面玄関の様子を詳しくは伺えない。窓を閉め、カーテンをぐいと引き寄せる。

「ハインリヒは昔、緑兵衛さんが国内の賛同者を密かに募って立ち上げた国だ。終戦で建造が頓挫したままだった『入陽いりひ海洋駐屯地』跡を使ってるからって、緑兵衛さんがつけた名前だな」

 義康は父のネーミングセンスに苦笑しつつ、いつものスラックスに足を通す。法子も、そして義康という名もそれぞれの母が主張を押し通して決めたと聞いていたが、もしそうならなかった場合に自分達がどんな名前になっていたのか、正直想像にも及ばなかった。義康は小さく母に感謝する。

「国という団体を立てる目的それ自体は、中小零細企業の為のタックス・ヘイヴン、及びデータ・ヘイヴンの設立にあった。グレーゾーンな所得やデータを国内の法や税制から逃して安全に保管できる場所を、自分達で造ろうってな」

「……そんな、でもそれって」

「そ。だいぶ大げさな話になってるけど、一歩間違えば脱税だったりするわけだ」

 義康は牟剣の存在を、そして彼女がヨコトーテレビで鷹幡を訊ねて来た時の事を思い返す。やはりその時から牟剣はハインリヒの存在に狙いを定めていたのだと、義康は改めて理解する。

「『ハートキャッツ江戸屋』は元々、国内を中心とした賛同者のネットワークだ。御用聞きの手数料マージン報酬フィーという名目で資金を集めて、島の維持をしつつ国力を蓄える為の、だな。例の真武居まぶいの爺さんは、俺たちがハインリヒでやろうとしている事をネタに、タカってユスって美味しい思いをしようとか、およそそんなつもりなんだろう。だが緑兵衛さんの狙いは、ハインリヒ建国の真の目的は、もっと別の所にある」

 鷹幡はリモコンを拾い上げてテレビを消し、義康の部屋の前に立って話を続ける。着替えの手を止めないよう意識しながらも、義康はその話に耳を傾ける。ここに住み始める頃に着ていたパーカーをクロゼットから取り出し、しっかりと着込んで前を閉じる。

「もちろん賛同者は全員、それを理解した上で力を貸してくれている。最初は国内だけだったが、今は海外……アメリカの企業に多いが、他の国にもたくさんの協力者がいる。さらに言えば、今となってはその真の目的にはもう意味が無く、ハインリヒという自称国家が役目を終える事にも、既に了解してもらっている。大方、快くね」

 自分のスマートフォンを普段使いのバックパックに押し込み、背負う。預かったケータイは、法子の部屋で十分に充電しておいた。丁寧にも置いていってくれたいつものホルダーを腰に引っ掛け、ケータイを開いたまま差し込み、パーカーの裾で覆い隠す。

「真武居の爺さんも、わざわざ船まで出してハデにやらかしてくれたし、今後もあんな感じでちょっかい出されるかもしれん。いい潮時ってわけで、法子さんは最後に、緑兵衛さんが始めたこのハインリヒ計画の後始末をつけに行く。金の臭いを嗅ぎ付けて来る連中に、これ以上余計な詮索をされる前にな」

 さて、行こうかね! 身支度を整えた義康に、まるでピクニックにでも出かけるような口調でそう言いながら、鷹幡は玄関へどすどすと歩いて行く。と、大きな靴に足を入れようとしたその直前に、

「ケータイ、ジャックさんが預かろうか?」

 と、義康を振り返る。一瞬だけ、その方が安全だろうかと義康は悩む。だが。

「いや、大丈夫です。僕が預かったんですから」

 法子の去り際の言葉を思い出した義康は、少し子供っぽいかとも思いながら、鷹幡をその手で制し申し出を断る。そう口にしてから、ひどく落ち着いている自分に義康は気付く。覚悟とはこういう事なのだろうかと、義康は何となく思う。

 鷹幡は彼の目の前で、何故か嬉しそうに白い歯をにかっと見せてから、よっしゃと一つ気合を入れて、先んじて玄関を出た。


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