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 自称国家ハインリヒ公国。

 1986年、ロック・ベイマン公を名乗る一人の男と、賛同する数人の『国民』により突如建国宣言されたその国は、沖縄県北大東島きただいとうじまから東へおよそ四百キロに位置する公海、四国海盆海域の片隅に建造された小さな人工島を国土と主張する、いわゆるミクロネーションである。

 陸上競技トラックと同等の広さを持つ、五角形の浮島部分。そしてそれぞれの角にあたる海面部分に、直径三十メートルほどの円筒状の支柱が五本、そのドーム上の頭頂部を見せている。巨大な浮島を海底の杭に留めて固定した、いわゆるメガフロートと呼ばれる手法で建造されたものだった。

 宣言当時の国連による調査の結果、国土面積の小ささ、国民とされる人口の少なさ、また統治機構による有効な実効支配の実態が認められない事を理由に、現在でも国連加盟国の中に、ハインリヒを国家として承認している国は存在してはいなかった。

 国土とされる人工島の建設経緯が不透明である事も、国家を自称する団体としての国際評価を下げた一因だった。ハインリヒが国土と主張する浮島をその位置に留めているのは、深さ約二千メートル、大東海嶺かいれいと九州・パラオ海嶺かいれいが交わる山頂部から伸びる五本の支柱に支えられる、巨大建造物であった。当然、ハインリヒ国民を名乗る数人程度で建設を実現できる規模のものではなく、建造物に残る建造手法などの痕跡から、元々は太平洋戦争中の日本海軍により計画、建造されていた海上駐屯地ではないかと国連調査団は仮説を立てた。だが、それに対してロック・ベイマン公及びハインリヒが、公式に回答する事は無かった。

 その成り立ちは明らかに、イギリス南東部の沖合いに浮かぶ自称国家シーランド公国のそれに酷似していた。軍事施設と思しき公海上の人工島を国土として占有して建国宣言した点は元より、建国者ロック・ベイマン公という名も、シーランド公国建国者であり初代大公ロイ・ベーツに似せた偽名である事は明らかだった。

 何よりロック・ベイマン公はシーランド公国の販売する爵位号を購入した『貴族』であり、また同国に敬意を表する友好国であるとも宣言していた。シーランド公国側はそれに対し、友好を喜ばしく思う親書を郵送したと公表している。

 ハインリヒ建国宣言当初の数ヶ月は、日本国内でもわずかにメディアを騒がす話題となった。もっぱらその興味の対象はロック・ベイマン公の正体であり、何度か日本国内のテレビ局のインタビューに応じる姿も放映された。当時その素性を尋ねるインタビュアーの質問に、流暢なイギリス英語で三十代の男であるとだけ回答したロック・ベイマン公だったが、サングラスを常用するその顔立ちは明らかにアジア系のそれだった。自衛隊か旧日本軍関係から繋がる元日本人だとする説が実しやかに流れはしたが、公式にはやはり不明であるとされている。

 その経済は主に、国土となる人工島内で稼動するサーバーマシンを用いたデジタルデータ・サービスが支えているとされている。国内企業ではなく、国家がそのまま法人機能を持ち運営しているとされる。これについても、一時期ヘイブンコー社を設立しデータ・ヘイヴンを提供していた、シーランド公国の経済モデルと酷似していた。ハインリヒのそれがヘイブンコー社と異なるのは、各国のインターネットモラルを精査した上で、可能な限りどの国の関連法令にも抵触しない範囲でのデータを取り扱っていると、国家として宣言している点である。

 建国宣言より三十年近くが経過する現在、日本に最も近い外国としてその名が稀に上がる事はあっても、大きく話題となる事は無かった。日本を始めとする近隣諸国が積極的に交流を図る、また敵対的姿勢を見せる事も無く、経済的にも大きな影響を与える存在では無かった事は、その理由の一つである。

 毒にも薬にもならない、自称外国人の隣人。それが日本国内で暗黙の共通認識となっている、ハインリヒという国の位置づけだった。


 法子のりこが出て行ってすぐ、義康は法子のパソコンをスリープから起こし、ハインリヒ公国の情報を検索した。ウィキペディアにまとめられていたその国の情報は、マウスホイールのスクロール一回分で読みきれる程度のテキスト量だった。画像はハインリヒ国土とされる人工島の航空写真、そして『ロック・ベイマン公』とされる男が映ったニュース番組のスクリーンショット、その二枚のみ。ウィキペディア以外にも個人サイトやブログ等で、同じ番組らしき解像度の低い映像や画像を見る事ができた。

 ロック・ベイマン公の出で立ちは奇妙だった。英国紳士でも気取っているのかと、義康は鼻で笑ってしまった。ブラック・コートにホワイトカラーシャツ、トップハット。ふさふさに蓄えた口ひげまでは許せたが、そこへ真っ黒なサングラスを常備とあれば悪ふざけにしか見えなかった。何よりその名前の響きに、義康はまさかと思いはしたが、思い立ったその可能性をすぐに自身で否定し、気付かなかった事にした。

 目ぼしい情報を集めきったと思った頃には、既に一時を回っていた。自分のスマートフォンと法子のケータイを充電器に差し込んだ所で、法子からメールが届いていた事に気付く。ちょうど調べ物に夢中になっている間だった。

 去り際に法子が「ホントの使い方」と言っていた割には、そのメールは絵文字も顔文字も無い、たったの一行だけで終わっていた。その一文に目を通した義康は、

「……ああ、これそういう事だったんだ」

 と、一人思わず口走った。それであんな使い方をしていたのか。義康は苦笑しつつも、「了解、納得した」とだけ返信する。

 法子からケータイを預かっている以上、いつも通り朝八時にはしっかり起きていよう。冷えた布団に身を投げた義康は、ほんの僅か今日の出来事を思い出そうとしたが、すぐに眠気の誘うままにまぶたを閉じた。壁向こうに法子の存在を感じない一人だけの夜を、ひどく久し振りに過ごした。

 彼女を追い求める心と、それが彼女に届かない事実が、義康の肺を締め付け、軋ませる。胸が張り裂けるとはこの事かと、義康は一人嗚咽した。それでも義康は、彼女が好きだった。ただそう強く、自覚させられるばかりだった。


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