3-4

 遠雷が窓を叩いた。

 姉の瞳の青がこれほど冷たい色に見えたのは、初めてだった。

 心臓を真っ直ぐに射貫かれた気がした。

 していなかった筈の期待を実はしていたと、気付かされた。あろう筈が無い想いが存在していたと、知らされた。義康は床をじっと見ながら、涙腺の脈動に耐えていた。

「あんたにとって、私が何かしら思わせぶりな事してたんだったら、謝るわよ。ごめん。でも……」

 雨の向こうで姉の声が、申し訳無さそうに、少しだけ柔らかくなった。

 大事な事は何も教えてくれない姉を少しだけ憎らしく思っていた自分が、ひどく恥ずかしくなった。

 自分は姉を本当にそんな目で見ていたのかと、義康は、自分自身に問いかけた。答えがノーだとはもう思えなかった。姉が暴いた自分の本心を、これでもまだ自分はまだ否定するのか。

「ごめんね、私が気が利かなかったわ。どうする?」

 姉が自分に、結論を求めている。どうする? 耳朶に届いたその問い掛けの重さを、義康は理解していた。

「どうするって、なに」

「ここを出てく? ってことよ」

 姉は努めて、その感情を乗せないように、義康にそう訊き直した。義康もわかっていた。姉との絆を築き直してきた筈のこの一ヶ月を、無かった事にするかどうか、という問いなのだと。

 自問自答が、カルマン渦列のように義康の脳に広がる。問いかけに答が見える度、分岐し、拡散していく。自分は、何を、どうしたいんだ。

 だが義康はその中にいてただひとつ、姉の問いへのただ一つの答を、見つけた。

「嫌だ」

 自分がこんなにも苦しいたった一つの理由を、熱に満ち満ちた義康の心は、見出した。

 義康は顔を上げた。ついさっきまで堪えようとしていた涙が、頬を流れ落ちるのも厭わなかった。姉の瞳のブルーに導かれるまま、真っ直ぐに彼女を見た。

 姉の唇が僅かに揺れた。長い睫毛にまだほんの少し、雨の雫が煌いたのが見えた。

「だったらどうすればいいの? 私は、ヨシくんに」

「いいよ、どうもしないでよ。多分どうされたってもう変わんないから」

 困り果てたように、俯きかけた姉。その視線を強引に引き戻すように、義康はその手で、姉の両肩を強く捕らえた。

「ちょっと、ヨシ……!」

 姉がその細い身を捻って逃れようとしたのを感じながら、義康は尚も手から力を抜こうとせず、見つめる。

 そして義康は、

「そうだよ、姉さんの言う通りだよ! 勝手に呼んどいて、アゴで使われて、何かやたら所帯じみた感じで生活に組み込まれてさ」

 姉から電話を受けたあの時から今日までの、姉のいる一つ一つの記憶をたどりながら、

「たかだか十年会わなかっただけなのに、すっごいキレイになってて! すっごい仕事してるトコとか見せられてさ!」

 そこに重ねてきた自分の思考と、感情と、想いとを拾い束ねて、

「そんな姉さんに、俺みたいな小僧が! ひと月も、こんなほとんどゼロ距離で、そんなんされてたら!」

 姉を困らせるであろう事も、姉には既に見抜かれていた事にも、かまわずに、

「どうしたって好きにならない訳がないじゃんか!」

 ただ一途に、義康は叩きつけた。


 義康も、姉も、目を逸らす事ができなかった。

 姉は義康の言葉の続きを、義康は姉の答えを待った。

 だがそれはほんの数秒の、危うい均衡だった。グラス際の表面張力のような、張り詰めた沈黙をあっさりと破ったのは、


「……あ、鷹幡さん。どしたの」


 姉の腰元で無神経に鳴り響いた、いつものケータイだった。

 全身の二酸化炭素を絞り尽くすような溜息を、義康は深々と吐いた。姉と自分だけしかいなかった密室に、外界の空気が急激に流れ込んだ気がした。

 正気を取り戻した。義康は自分の心理状況をそう解釈した。言ってしまった台詞の全てに、恥ずかしさがドップラー効果のように遅れて大きく襲って来る。何言っちゃったんだ、自分は。何を言ってしまったんだ!

 だがそれが嘘で無い確信だけは、消え去りはしなかった。

「ううん、ちょっと風邪っぽいだけ。いいから何? 金取るわよ」

 ケータイの向こうの鷹幡と話す姉は、声のかすれと上擦りを必死に隠しているようにも見えた。また鷹幡さんか、と思った所で違和感に気付く。いつもの彼の、スピーカーから溢れ出るような元気さが、聞こえない。そして、

「何、それ……」

 義康の目の前で姉の表情と声が、同時に硬く、強張った。

 ケータイ越しに鷹幡が運び込んだそれが、どうやらただ事でない事を義康は察する。今度は何だと推測しながら、ケータイに向かってこくりこくりと頷く姉を見守る。そして、

「しゃあないわね、うん、わかった。とりあえず、すぐ行く。んじゃ」

 姉は早口にそう言い、電話を切った。

 途端、何故か姉は義康の目の前で、堪え切れなかったかのようにぷっと吹き出し、笑い出したのだ。

「もう、やだ! ふふっ、最っ悪のタイミングねホント、この人たちは! あは、あははっ!」

 ケータイを握り締めたままおなかを抱え、姉はひたすら笑っていた。いきなりの、予想外の姉の挙動に、義康は呆気に取られた。

「な、なんだよ姉さん。何のツボ入っただよそれ」

「だ、だってさ! 普通、あのタイミングで電話かけてくる? ヨシくんの、あのタイミングで! おかしくない? どっかで見てんじゃない? あともう何分かズラしてくれるだけでいいのにさ、わざわざあの、ピンポイントで! くっ……あはははっ!」

 息を切らせながら笑い続ける姉を、義康は何をどうするべきか分からないまま、ただ見守っていた。どうなっているんだ、この展開は。何がそんなに可笑しいのだろう。置いてけぼりにされた気分は確かにあったが、何故か義康には、それを咎める気は起きなかった。

 姉がこんなに大笑いしているのを見たのは、どれくらい振りだろうか。義康はそんな事をぼんやりと思った。

 ひとしきり笑った後、姉はメガネを外して笑い涙を拭いながら、

「んで、ヨシくん。さっきの、本気?」

 唐突に義康に向き直り、訊いた。その言葉には問い質すような鋭さも、重さを知らしめるようなプレッシャーも、もう有りはしなかった。まるで普段の、他愛ない食事の話題でやりとりするような、そんなトーンの問いかけだった。

 義康は迷わず、うん、と一度、頷いた。

 姉は「んー」と天井を眺め、ケータイのアンテナの先を額にくりくりと押し当てながら、

「そっか。んじゃ、私のはちょっとだけ、嘘かもしんない」

 と、呟いた。

 義康にはそれが一瞬、自分の想いへの肯定に聞こえた。心臓がほんの僅か浮き上がったような気がしたその瞬間、姉はその手のケータイを、義康の胸にとんと押し当てた。

 反射的に義康は、右手でそれを受け取ろうとする。と、ふわりと姉の髪が揺れた。

 義康の肩に頭をもたせ掛けるようにして、姉はそっと寄り添った。

「ちょ、ね、姉さん?」

「あのね。お父さんはもう、死んじゃってるの」

 戸惑いの中に放たれた姉の言葉を、義康の聴覚は少し遅れて、その脳へ届けた。父さんが、死んでる? 言葉を失う義康に、姉はゆっくりと続ける。

「私はね、ヨシくん。お父さんが始めてここまで続けてきた、あるお仕事をひとつ、引き継いでやっているの。それで一人で……ううん、鷹幡さんとかにすごく支えてもらって、やってきたんだけど」

 ハートキャッツ江戸屋のビジネスマッチングの事だろうか。だが、それを指しているようには義康には聞こえなかった。ひとつひとつの姉の言葉、その奥の意図を逃さないよう、義康は慎重に呼吸を整えながら、じっと耳を傾ける。

「でもね、そのお仕事に今、ようやく終わりが見えてきてるの。ヨシくんにはね、それを一緒に見届けて欲しいと思ったから、私の事を教えなきゃと思ったから、ここに来てもらったのよ」

 姉もその心情を偽る事が無いように、言葉をひとつずつ選択し、つなげている。義康はそう感じた。同時に、まだ自分には話してもらえない事がある。それも自然と、察する事ができた。

「ただそれにはやっぱり、ここまで来るのにどれだけの人が、どれだけの手間マージンを割いてきたか、それをちょっとでも分かってもらわなきゃって思ったんだ」

 義康から、姉の表情は見えなかった。姉は義康の肩に、まぶたを押し付けるようにしながら話していた。くぐもった声に、ほんの僅かな嗚咽が入り混じっているのを、義康はその肩に感じていた。

 やがて、しっとりとしたその重さは、離れて消えた。唇が頬に触れそうなすぐそこに、姉の瞳の優しいブルーが揺れていた。

「そうしてから、私たちの最高の報酬フィーを見せてあげたいって。昔からずっと姉ちゃん姉ちゃんて、私のことを好きでいてくれた、ヨシくんと一緒にね」

 ブラウンの髪と微笑が、はらりと優しく頬をくすぐりながら、義康から離れていった。チェーンのぶら下がったケータイと、洗剤と雨の残り香だけが、義康の元に残された。

 義康の目の前で、姉はそのまま自分の部屋へと戻った。そして、かたかたと引き出しをあさる音をさせた後、再びリビングへ帰って来た。

「じゃあ、ごめん。行って来る」

 出てきた姉は、予備だと言ってデスクの引き出しにしまったままだったスマートフォンを、ジャケットのポケットに収める。それ以外にはいつものハンドバッグも持たず、手ぶらだった。

「ちょっと、姉さん。これ、ケータイどうすんの?」

「私が帰って来るまで、ヨシくんが預かってて。それで、絶対に私以外の誰にも渡さないで。お願い」

 義康の手元のケータイを、人差し指でぴしりと指差し、強い口調で姉は言った。義康が返事をする間も無く、再び姉はつかつかと玄関へと向かう。義康も慌てて後を追う。

 びしょぬれのタウンシューズを躊躇ためらいも無くつっかけ、まだ雫の落ちるコンビニ傘を手に取る。ちらりと義康が見た壁掛け時計は、いつの間にか十一時を回っている。

「姉さん、これ、今日帰って来られるの?」

「今んとこ、ちょっとわかんない。だから一応そのケータイのホントの使い方、後でメール送っとくわ」

 つま先でとんとんと床を叩く。遅れて染みてきた靴の冷たさに、姉は小さく「うわあ」と声を上げる。シューズボックスの上の鏡で前髪を少し直してから、姉は見送りに立つ義康と、まっすぐに向き直った。

「ねえ、ヨシくん。さっきの、嬉しかったよ」

 笑いかけるブルーの瞳に、義康は自分の顔が再び熱を持つのを感じる。良かった、と言うべきか、ありがとう、と言っていいのか、迷っているうちに姉の言葉はゆっくりと続き、

「だから、私のやって来た事をこれから全部知った上で、君の気持ちは本当に本物なのか、確かめて」

 わかった? と首を傾げて確かめる姉に、弟は唇を結び、こくりと頷く。姉のやって来た事を、全部知る? 義康ははっと牟剣の言葉を思い出し、待って、と姉を呼び止める。

「姉さん、『ハインリヒ』ってのは、何か関係があるの?」

 くるりと背を向けてドアノブに手をかけた姉に、義康は慌てて訊ねた。

 姉は今度は「んー」と悩まずに、黙って一度義康に頷いて見せた。そして、心配しないでと言わんばかりに肩越しに笑顔を残して、雨の向こうへと消えて行った。

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