3-3
姉はまだ戻っていなかった。牟剣との話はだいぶ短かったように義康は感じていたが、実際は姉が出かけてから一時間が過ぎていた。
胸に残る落ち込んだ気分のせいで、この部屋に一人でいる事がやけに寂しく感じられた。何となくリビングのテレビを点けると、チャンネルはヨコトーテレビのままだった。
美形の若手俳優が、グラビアアイドルから転向した最近評判の女優と織り成す、いつの時代にもしぶとく生き残っている、一目でそれと分かるメロドラマ。
ただ、その俳優は女優を「姉さん」と情感たっぷりに呼び、泣きながら逃げ去ろうとする彼女の手をぐいと引いた。そして義康の嫌な予感通りに、振り返った彼女の唇をひどく慣れた様子で素早く奪う。その直前で、義康は反射的にテレビを消す。ヨコトーテレビの控え室で空気を一瞬にして凍らせた、まさにあのドラマだった。
何の嫌がらせだよ、と義康は一人呟いてリモコンをテーブルに放り投げる。そして自身も、ソファへどさりと身を投げる。
義康は天井をぼんやりと見上げながら、牟剣との会話を端々から思い返す。姉が日本人ではなく、このマンションも姉のものではなく、自分が何の為にここにいるのか、傍目から見てもわからない。
一体何が、どうなっているんだ。義康が目を閉じ、再び憶測の渦へ入っていこうとしたその時、玄関へ近づいてくる、聞きなれたタウンシューズの足音。
「ふぃー、ただいま」
小走りで帰って来たのか、軽く顔を上気させた姉が帰って来た。
タオルでも持って出迎えようかと一瞬思いはしたが、結局義康は身体を起こす事が出来ずに、ソファに身体を沈めたまま、
「おかえり」
と言うだけだった。
「何、ヨシくんどっか行ってたの?」
くたびれた様子の義康を一目見ただけで、姉は鋭く察した。そう言えば豪雨の中帰って来て髪も拭いておらず、服もそのままだ。タオルが必要なのは姉より自分の方だったと、義康は呆れる。
「ん、ちょっと」
「あ、そう。買い物かなんか?」
「や、違うけど。姉さんこそ、どこ行ってたの?」
姉は「んー」と少し間を持たせてから、
「ちょっとね」
としか答えなかった。義康もそれきり何を言っていいかわからず、仕方なく再びテレビを点け、画面も見ずに素早くチャンネルを変える。義康の座るソファの背後に、ケータイとハンドバッグを自室に置いた姉が寄って来る。チャンネルを変えた行為それさえも何か怪しまれるきっかけになりはしないかと、義康の心拍が僅かに上がる。
「ねえ、シャワー先に使うけど……ん?」
義康の後頭部あたりに、姉の気配が不意に近づく。こそばゆい感覚がうなじに走る。突然何かと思い、首を引っ込め、振り返る。
「な、何。何してんの姉さん」
「ヨシくん、なんか煙草臭くない? どしたの?」
眉をひそめ、じとっとした目で義康を見る姉。何の事かと思ったが、ファミリーレストランでぐいと寄せられた牟剣の顔をはっと思い出す。しまった。
言うべきか、言わざるべきか。義康は迷った。ゲームセンターやパチンコが近くにあれば、そこを覗きに行ったくらいの言い訳は出来たかもしれないが、生憎とその存在は確認しておらず、またこの天気の中でわざわざそこへ行く理由もでっち上げられない。
とは言え、いつにないプレッシャーを与えてくる姉の視線に、今更狼狽を隠し切れるとは思えない。焦った挙句に自分の口から飛び出した、
「じゃ、じゃあ姉さんもどこ行ってたか教えてくれる?」
という切り返しも、ひどい苦し紛れだとしか義康には思えなかった。
妙に意地の張った様子の義康に、姉が逆に戸惑いを覚える。
「え、なんでそうなるのよ。なんか……隠すような事なの?」
姉がさらに問い返すも、義康は口をきっと結び、睨み合う姿勢を崩さない。眉間をぐりぐりと指で押さえながら、姉は「んー」と
「わかった。わかったけど、先にヨシくん教えなさい。未成年者の喫煙で弟が補導されるとか、さすがにちょっとイラっとするからね」
と、冷静に譲歩して見せた。
義康はテレビを消して、小さく息を吸い、変に荒ぶる呼吸を整える。正直に答える覚悟をする。
「この間の、国税局の牟剣さんが、マンションの下で見張ってた」
「……ああ、そうなんだ」
姉が勤めて冷静を保とうとしているのが、義康にはわかった。誰であろうと自宅を見張られているなどと告げられて、平静でいられる方が難しいだろう。
こと牟剣に関しては、姉に宣戦布告めいた宣言までしていった人物だ。それとの遭遇を知らせる事で姉に負担をかけはしないか、逆に隠す事で姉に不利にはならないか、義康はその答を出す事が自分に出来るとは思えなかった。
故に、自分にあった事を姉に訊かれるままに答えようと、義康は決めた。
「姉さん最近夜よく出かけるから、どこ行くのかなってちょっと追っかけようとした。そしたら、下で見張ってた牟剣さんに遭遇して」
「遭遇して、それで?」
「そこのファミレス連れて行かれて、ちょっとお茶してた」
はあ、と首を傾げながら、解せないという表情をあからさまに見せる姉。
「それは何、何か訊かれたってこと?」
「訊かれて困るような事してるの? 姉さん」
義康が立ち上がり間髪入れず問い返すと、今度は姉が言葉に詰まった。頭一つ弱の身長差。義康が見下ろす前で姉の唇が揺らぎ、何か言いかけるように動いては噤み、それを何度か繰り返してから、してないわよ、と小さく呟く。
目を逸らす姉をじっと見つめながら、義康は小さく息を吸う。懐疑と不安に速まる鼓動を必死に抑えて、改めて問い質す。
「姉さんは、最近夜、どこ行ってるの?」
姉は腕組みして、「んー」と唸ってメガネの奥でぎゅっと瞳を一度閉じてから、もじもじと、消え入るような声で短く呟いた。
「コインランドリー」
「……んぇ?」
確かに聞こえたその単語に、間抜けな声を漏らす義康。自分の興奮や緊張に対してあまりに落差のある答え。かくん、と肩の力が抜け、あんぐりと開いたままの義康の口。
「あっちの、警察署の角んとこ。ぱ、パンツとか、洗いに行ってただけ」
姉はばつの悪そうに視線を泳がせながら、窓の外を漠然と指差した。確かにその方角に、やたら真新しい設備が並んだ小奇麗なコインランドリーがあった事は、義康も覚えている。
急回転し直した思考が、最近抱いていた小さな疑問への答えをそこに繋げる。姉は自分の下着だけ、普段の洗濯物と分けておき、こっそり自分で洗濯していたという事、なのだろうか。
なんでわざわざ。そう聞き返そうと思った所に、姉はまた小さな声で言葉を重ねる。
「あと、ほら。その、夜とかって、ヨシくんにも一人の時間作ったげた方がいいのかなって。ほら、ヨシくん男の子なわけだしさ、ね」
あはは、と唇の形だけ笑わせながら、冗談めかして姉は言った。
頭の隅々にまで一瞬で血が上っていく音を、義康は聞いた気がした。
「……何だよ、それ」
気管がやけに熱されて、自分の声が震えているのが、義康自身わかった。だが今はもう、それを押し留める気にはなれなかった。
視野がじわっと歪んだ。同時に義康の口から、言いたくなかった筈の、言ってはいけないと思っていた筈の言葉が、溢れ出してしまった。
「何なんだよそれ! そんな変な気配りするくらいだったら、何で住み込みなんかさせてんだよ! おかしいだろ?」
「そ、それはまた別でしょ! そんなキレられるような事してるつもり……」
うろたえる姉を前にして、言葉を止める事が出来なかった。
「人にわざわざこっち来させといて、何なんだよ! 気ぃ使ってあげてますーみたいな事されんの、キツいんだって! 仕事ったって、家事と電話番しかやれないしさ。ホント、何でここにいんの? って感じなんだよ今さあ!」
叫びにも近い義康の声が、雨音も、姉の言いかけた言葉も飲み込んで、部屋中に響いた。
「た、助かってるわよ! おかげで私、前よりだいぶ自由に時間使えるようになったし。そ、そんな卑屈にならないでよ」
「そんだけの事だったら別に僕ここに住まなくても、って言うか、他のバイトでもテキトーに雇えば良かったんじゃないの? 姉さん!」
勢い任せに口に出してしまってから、義康はそれが、最も自分が言いたく無かった選択肢だった事に、気がついた。
無力感、疎外感、嫉妬。姉と、姉のいる世界を垣間見て、好ましくないあらゆる感情が自分の中に少しずつ貯まっている事に、義康自身うっすらと気付いてはいた。そして、それらのどれにも明確な理由があって、それは現状仕方の無い事だと、心の内では片付けて来たつもりだった。
姉の気遣いの事も、ほんの些細なものだと、義康は頭では理解できている筈だった。感謝すべき所なのかも知れなかった。だが、最も触れられたくない部分を、最も触れられたくない方法で触られた、義康はそう感じた。
そして、そう感じたのは何故なのか、今の義康の煮え滾った思考と心では、答えを導き出す事はできなかった。
「じゃあ何、一緒に暮らすのが嫌だったって事? だったらそうやって言ってくれればいいじゃない」
「そうじゃない、そうじゃないんだよ! 僕はたださ、姉さんが、僕が何にも出来ないのに、傍に置いてくれてるからさ」
姉も震える声を必死に抑えているのだと、義康にはわかった。怒りだろうか、それとも。胸の内に巻く、実体のわからない渦のような感情を、どんな言葉を充てれば正しいのかもわからないまま、義康は口を開く。
「一緒にいさせてくれるって事それ自体に、何かこう、大事な意味とかがあるような気がしてたんだよ。それなのにさ……」
姉から目を逸らして呟いた、その数秒後。
姉との間に存在していた沈黙の色が、変貌した。義康は、そんな気がした。
「ヨシくん、何。何か私に期待してんの?」
姉の声が、低く、冷たくなった。
「さっきからあんた、じれったい言い方ばっかりするけどさ。大事な意味って何なの? たとえば何、私があんたと二人で暮らしでイチャイチャしたいってだけで、ここに呼んで、テキトーに働かせて囲ってるとか思ってるわけ?」
つい先程までの子供をなだめるような雰囲気が、姉の表情と台詞から消え去った。視線は打って変わって鋭く、言葉は残酷な程に真っ直ぐに、義康の本心を抉りにかかっていた。
「ち、違う……」
「やめて欲しいんだけど、そういうの! 確かに十年一緒にいなかったんだし、そりゃほとんど他人みたいなもんよ! あんまり弟って感じもしないわよ。あんた大きくなったし、私だってトシ取ったなり大人になった。一緒の部屋にいれば嫌でも色々意識するし意識されてるのもわかってるから、実際それなりに緊張してんのよ、こっちだって!」
姉のまくし立てた言葉ひとつひとつが、義康の心を刺した。ひどく嫌らしい誤解をされている、そう否定したい筈なのに、出来なかった。自分から姉への距離が遠い事が辛い、単純にそれだけの痛みだった筈なのに。
だが、義康が姉への抗議を口にするその前に、姉は告げた。
「それでもね。私はあんたと、姉と弟って立場は崩すつもり、無いわよ」
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