3-2

「んじゃ、ちょっと行ってくるね」

 行ってらっしゃい、と義康が返す前に玄関のドアはばたんと閉まり、タウンシューズの足音は遠くなって行った。

 夜八時になってもじっとりと重い雨は止まなかったが、それでも姉はコンビニ傘を手にばたばたと出て行った。化粧こそしていないもののしっかりと着替えて、お馴染みのケータイ・ホルダーと、やや膨らんだハンドバッグを抱えてだ。

 義康にはその姿が、質問を無言の内に拒否する姿勢にも見えた。蒸し暑い夜の不快さが、やけに肌につくように感じて、義康はリビングのエアコンをドライモードでオンにする。

 が、動き始めたエアルーバーが縦一往復もしないうちに、義康は再びリモコンを向け、エアコンを止める。部屋着用のハーフパンツをスラックスに素早く履き替え、大急ぎで靴下に裸足を突っ込む。そして、部屋中の照明を点けっ放しにしたまま、義康は姉を追って部屋を出た。


 屋外に非常階段を設ける慣例を作った人間を、これほど疎ましく思った事は無かった。急ぎつつも足を滑らせないよう、もどかしげな小走りで十九階を下る義康の顔を、大粒の雨はびしゃびしゃと濡らした。

 非常玄関から建物の外へ出る裏口の鍵は、内側からしか開かないものだった。扉を開き、マンション裏側の駐車場に降り立った時点で、既に義康はへとへとになっていた。背後でがちゃり、と扉がロックされる。

 必死で呼吸を落ち着かせながら、義康は角から正面玄関を覗く。ちょうどそこに、姉が傘を開きながら出て来るのが見えた。義康も、自分が手に提げて来たそれの存在をはっと思い出す。薄ピンク地に、控えめな白の花の柄。一瞬の内に色々と迷いはしたが、結局はそれを、音を立てないようにゆっくりと開いた。

「あんたも大変ね、こんな雨ん中」

 背中に突然かけられた声に、義康は思わず「ぉわあ!」と声を上げて飛び退った。マンホールまわりの水溜りに、びしゃあと片足を突っ込む。あっという間の冷たい浸水に、義康は顔をしかめる。

「でも、そんなんじゃ尾行は諦めた方が良さそうね、あんたは」

 呆れと軽蔑を隠そうともせず顔に表しつつ、その女性はそう言った。黒い男物の傘で影になり、それが何者であるか、義康は理解するのに数秒を要した。

 鼠色のスーツと、隙と油断を微塵も感じさせない静かな立ち姿。義康は再び息を飲んだ。その人物は、あの日ヨコトーテレビで姉と相対した女性、牟剣麻衣子だった。

 その威圧感に飲まれる前に、何か言い返してやらねばと、義康は必死に言葉を探した。挙句、

「……何と言うか、大変ですね。こんな日まで」

 挨拶だか皮肉だかよくわからない返しをしてしまい、熱かった自分の顔がさらに火照るのを感じる。

「全くだわ。おかげ様で、今日も大した収穫は無さそうだしね」

 牟剣は小さく苦笑し、雨に叩かれる自分の傘を見上げる。彼女からは敵意は感じられなかった。ヨコトーテレビで相対した時も、和尚を始めとした坊主連中と違い、姉や鷹幡に自分から攻めかかるような様子も無かった事を、義康は思い出した。

 さばさばとした口調は、どこか母にも似ているようだった。身構えていた義康の身体が、わずかに緊張から解かれて行く。

「まあいいわ。もうお姉さんにも追いつけないだろうし、顔貸してもらえるわね?」

 そう言われて義康は、自分が何のために雨の階段を駆け下りてきたか、はっと思い出す。正面玄関を覗くと、当然ながら姉の姿はもう無い。義康はふうと深く息を吐いて、視線を牟剣の方に戻す。そして、

「同行は任意ですか、強制ですか」

 ドラマか何かで耳にしたセリフを試しに口にすると、牟剣は、

「それはお巡り相手に使う言葉よ。残念ながらこれはただのナンパ、熟女はお嫌いかしら?」

 淡々と冗談を返して義康を面食らわせつつ、国道沿いのファミリーレストランを指差した。


 牟剣は店に入るなり、出迎えたウェイトレスに「喫煙席、ドリンクバー二つ」と早口に言いつけ、案内も待たず窓際のテーブル席へつかつかと歩み寄り、どかっと座り込む。

「しかしあんたのお姉さん、ハーフとは言え外人っぽさゼロよね。つまんないわ」

 ウェットティシュの袋を荒っぽく破りながら、さっそく姉の話題に切り込んで来る牟剣に、義康は少なからず狼狽した。ドリンクバーだと言っていたように聞こえたが、飲み物を取ってくるタイミングを完全に見失ってしまった。

「その、牟剣さんは姉の事、どこまで調べているんですか?」

「たぶんあんたよりは詳しいわね。最近のお姉さんの“身辺事情”については」

 ウェットティシュを広げて顔面を堂々と拭き、小さな真四角に畳んでテーブルの端に置く牟剣。灰皿を引き寄せ、懐から取り出した青い箱のマルボロを、義康の前で何のためらいも無く吹かし始める。豪快なのか繊細なのかよくわからない人だと思いながら、義康は再び訊ねる。

「姉と揉める、ってどういう事ですか?」

 真っ直ぐに切り出された本題から話を逸らす事が出来る程、義康は器用ではなかった。たとえば姉の事を何か探られたとして、嘘をつき通す事など出来る気がしなかった。相手は国家権力だ、と一度意識してしまった途端、義康は観念に近い落ち着きを取り戻した。なるようにしかならないなら、と。

「国税がわざわざ揉め事持ってくる理由なんて、一つしかないでしょうが」

「じゃあやっぱり姉が、脱税を?」

 牟剣は百円ライターで火をつけた煙草を加え、深く紫煙を吸い込んでから、義康から顔を背けてふうっと吐く。一応気を使ってくれているのだろうか、と義康は思う。牟剣が自分に対してどういう立ち位置でいるつもりなのか、義康はまだ今ひとつ掴みきれない。だが。

「脱税そのものじゃあないわね。だってお姉さん、日本人じゃないじゃないの」

 さもそれが周知の事実であるかのように、牟剣はさらりと口にした。

 牟剣の言葉が何を意味しているのか、そもそも比喩なのか、そうでないのか。余りに突拍子も無いその牟剣の言葉を、義康の脳は受け入れられなかった。

 姉が、日本人じゃない? 義康は未だかつてそんな可能性があるなど、思いもしなかった。

「え、何言ってるんですか。何でそんな事、牟剣さんが」

「あのさ、私が質問しに来たつもりなんだけど。子供か、あんた」

 言葉を遮った牟剣の荒い語気に、義康は少しむっとした。階段で牟剣と遭遇した時と異なり、義康の言語野は比較的スムーズに、

「そうでしたっけ、ただのナンパなんでしょ。子供はお嫌いですか?」

と言い返す事ができた。

 っか、と口端を歪めて憮然とした声を吐き捨て、一頻り肩をすくめて見せる牟剣。それをした上で義康に対し、「エスプレッソ」とひと言言ってドリンクバーのコーヒーメーカーを顎で差す。黙って席を立ち、ドリンクバーへ向かう途中、義康は心中で小さくガッツポーズをよし、と取る。

「呆れるわね。これじゃホントに今日は収穫無しだわ」

 義康は黙って牟剣の前に、ソーサーの上にコーヒーマグとスティックシュガー、スプーンを置く。彼女からはありがとうの一言も無い。そういえば姉さんは、と姉の事をふと思い出す。カフェオレを入れて持って行くと、作業中でも、電話をしている最中でも、必ずひと言お礼を言ってくれていた事に気付く。

「ところで、今日はなんであんな所に……」

「私が質問しに来たって言ってるでしょう? 弟くん、あんたはお姉さんの仕事とやら、手伝ってるわけ?」

 質問をとうとう質問で強引に切り返されてしまい、義康は諦めて問われる側の姿勢に入る。質問攻めで場をしのいで時間を稼ごうという義康の考えは、その甘さを思い知らされた。あとは、自分が姉の不利になるような事を知らず喋ってしまわないよう、祈る事しか出来なかった。

「手伝ってる、って程ではないです。電話番と雑用くらいしか、まだ出来ないですから」

「仕事の中身はわかってるの? 仲介屋ブローカーよね、いわゆる」

「……ビジネスマッチングサービス、です」

 再び義康はむっとしながら小さく言い返す。仲介屋ブローカーという職業の詳細は知らないものの、あまりいい響きでないその単語に姉や自分の仕事をひと括りにされてしまったのは、気分のいいものでは無かった。

「言い方変えたって中身は同じよ。数で稼いでるのかぼったくってんのか知らないけど、結構な高額納税者になれるわね」

 納税すればだけど、と付け加え、牟剣はコーヒーに口をつける。スティックシュガー一本では甘さが足りなかったのか、今度は自分ですたすたとドリンクバーへ向かい、それを三本まとめて持って来て、うち一本をどばっと追加する。

 牟剣がことり、とマグを置いた後、数秒だけの沈黙が生まれる。義康はそこへ、

「姉さんが日本人じゃないって、どういう事ですか」

 改めてそれを訊ねずにはいられなかった。牟剣はやれやれだと言うように首を気だるく横に振る。

「お姉さんから習わなかった? どんな小さな事でもね、人から何かを得るにはそれなりの手数料マージンが要るものよ」

 姉がよく使う手数料マージン、の言葉を耳にして、義康は再び黙り込んでしまう。それじゃ、と牟剣は続ける。

「あんたのお姉さん、何に一番お金を使う感じの人?」

 牟剣はさらりと訊ねた。もう少し仰々しい、収益がどうで経営状態はどうだとか、そんな質問が来るとばかり思っていた義康は、やや拍子抜けした気分だった。だが少しして、義康は気付く。その砕けた質問に対しても、自分は返せる答を持っていないと。

 まず、ファッションにでは無さそうだと思っている。外出の予定が無い日は丸一日を例のスウェットで過ごす事もざらで、よそ行きの服もカバンも小奇麗でよく似合ってはいるが、少なくとも義康が知っているような有名なブランドの物は見当たらない。

 パソコンも、それ自体は大したものではなさそうに見えた。ゲームはしないし、モニターも19インチワイドのよくあるものだ。流行のFXや投資にでも手を出しているのかと訊いた事があったが、「手間マージンかけてるのに減る可能性があるとか意味わかんない」と、姉は頬をぷうと膨らませて否定したのを義康は覚えている。

 集めている物も無く、食生活もグルメや贅沢などというキーワードとは程遠い。今まで見てきた姉の生活の中で、金銭的負担の最もありそうな部分が何か、義康は懸命に思い出し考える。

 そして数分の間悩んだその結果、義康の口からぽろりと出た言葉は、

「家賃、とか」

 のひと言だった。

「弟のあんたが思い当たる事が無い程、無趣味な人間って事?」

 つまんないわね、と言い放たれた牟剣の言葉が、自分の事を指しているのか、姉の事を言っているのかわからなかったが、義康は俯き、それきりまた黙り込んでしまった。

 自分は姉の事を、何も知らないんじゃないか。義康の胸中の、ほんの小さなわだかまりに過ぎなかったその悩みを、まさか赤の他人にこうもあっけなく掘り返されるとは。グラスに注いで来たコーラに、手をつける気にもならなかった。

 牟剣は黙ったままの義康を尻目に席を立ち、再び同じエスプレッソを持ってきて、やはり砂糖を二本入れる。相手が熱いコーヒーを飲み終える程に黙っている自分。義康はその姿が、親にやり込められてふて腐れる子供のようにも思えて、何かを言おうとしては、また黙る。

「家賃って言うけどあのマンション、例の『ジャックたかはた』氏の名義で買われてるじゃない。だから私は最初、てっきりあんたのお姉さん、鷹幡の女だとばっかり思ってたんだけど」

「……へ?」

 牟剣の言葉に再び、義康の視界がくらり、と揺らぐ。口をあけて呆然とする義康の様子に、牟剣は目を丸くして、

「何、また私、あんたの知らない事教えちゃったの? っか、もうだめだわこれ!」

 両手のひらを天に向け、より大げさに頭を振って見せた。だが義康の目にそんな牟剣の様子は全く入っては来ず、回想される鷹幡と姉の姿にその思考をただかき回されるだけでいた。鷹幡さんと、姉さんが、やっぱり?

「まあ、そもそもの話? 雨ん中黙って後を尾行つけようって事考えるような男が、女と順風満帆上手くいってるわきゃあ無いわね。はいはい、期待した私が甘かったって事だわ……ねえ、聞いてる?」

 引っ詰め頭をがしがしと掻き、煙草の先端を灰皿にぐりぐりと捩じ込む牟剣。小馬鹿にされたようにも聞こえたが、義康には返す言葉が無かった。だが、すっと伸びた牟剣の手が義康のシャツの襟を掴み、ぐいと強引に引き寄せる。

 鼻先が触れそうな至近距離で、牟剣は小声で呟く。紫煙の香りが義康の鼻を突く。

「あんたのお姉さんは『ジャックたかはた』、及びその周辺企業と深く繋がってる。もしお姉さんが荒稼ぎしたカネを現金化して、あのマンションを使って鷹幡に流してたら、それこそ“よろしく”やってる最中にマルサに踏み込ませてやりゃあ堂々しょっ引けるなあと思ってさ、ああやってこまめに張ってたんだけど!」

 牟剣がわざと嫌らしい言い回しを選んでいる事は、義康には理解できた。瞬間、かっと頭が熱くなった。義康が力任せに腕を振るおうとした瞬間、牟剣の手がとん、と義康の喉下を押す。義康の尻と背が、すとんとソファーに戻る。

「ま、鷹幡自身は一度もそこでは目撃されないし? その上あんたが住み着くようになって、この『愛の巣取引』説は残念ながら崩れたってわけ。ホント……あんた、なんであそこに居んの?」

 ほっとしたかと思えば、やはり自身も疑問に思う事を改めて問われ、再び気を落とす。牟剣の一言一句に正に一喜一憂している自分を義康は無性に恥ずかしく思いながら、

「わかりません」

 と呟いた。誰と何を競っているつもりも無いのに、まるで敗北を認めた気分になった。

 再びの静寂。うっすらとかかるBGMの向こうで、湿った風雨が窓を這う音が聞こえる。苛立ちを隠せない様子で煙草とコーヒーに交互に口をつける牟剣に、義康はふと思ったままをぽつりと言う。

「あの、そういう捜査情報みたいのって、教えちゃってもいいんですか」

 視線をあさっての方に投げ、しばらく考える牟剣。ややもすると、彼女はコーヒーをくいと飲み干し、口を開く。

「そうね、仰る通り確かに余計ね。余計ついでにひとつヒントあげるから、あんたちょっと調べてみなさい」

 マルボロの箱を懐に収め、牟剣は席を立つ。財布から小銭を取り出し、立てかけておいた傘を手に取る。もう店を出るのかと慌てて腰を浮かす義康の目の前で、牟剣はテーブルにびたんと叩き付けるように五百円玉を置いた。そして、

「自称国家『ハインリヒ公国』。そこでお姉さん達が一体何をしているか、あんたはまず知った方が良さそうよ」

 話はそれからね、と最後に言い残し、牟剣はそのまま一人、店を出て行った。


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