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 五月半ば、十三時四十五分の横浜を、季節はずれの台風がゆっくりと通過していた。

 義康が姉と同居を始めて、一ヶ月が経過した。全く使っていないという一室に持ち込んだ布団を、フローリングに直接敷いて寝る生活にも、義康はそろそろ慣れていた。

 カーテンレールから部屋の奥のハンガーポールへ、リビングを斜めに走るように紐を渡し、義康はそこへ湿った洗濯物を干す。そういえば、と義康は気付いた事がある。最近、洗濯物の山の中に、姉の下着が見当たらないのだ。

 同居を始めた当初、義康が姉から家事全般を任せられる旨を聞いた時、

「私が自分で自分のごはん作ったって誰も得しないじゃない。同じものでも、誰かに作ってもらうだけで私が美味しいんだから、そこでプラスが発生するぶんお得でしょ? 掃除も洗濯も全部同じよ、うん」

 という、納得できるようで今一つ理解できない姉のポリシーを知った。無論義康はそれに従い、家事全般がここでの自分の責務なのだと自らに言い聞かせる。とは言え、母と二人暮らしだった時とやる事自体はそうそう変わっていない。義康はかつて姉がいなくなったその頃から、母の為に家事をする事に、何ら抵抗や面倒さを感じてはいなかった。

 食事の仕度と掃除、そして姉の離席時の電話番。加えてたまに姉が作る、依頼の一例を取り上げてその内容を解説してくれる、研修のような時間。その後、夕食の仕度と片付けを終えてしまえば、あとは自由な時間だった。

 専業主婦の生活とはこんな感じなのだろうかと義康は思うが、どちらかと言えば世間でヒモと呼称されるそれに近い事に気付き、一人戸惑ってはまあそれもいいかと、悩むことをやめておく。

 そんな生活サイクルに、体はだいぶ馴染んできた。だが、今のところどうしても消すことのできない懸念事項をひとつ、義康は抱えていた。

 それは至極単純。江戸屋法子、二十六歳。腹違いの姉とは言え、見目麗しきその女性と、ひとつ屋根の下ほぼ四六時中を共にしているこの状況、それそのものである。

 さらに言うなら、義康は色々と、知るべきではなかったんじゃないかな的な事実まで、既にその目にしてしまっている。たとえば件の姉の下着。それらはほとんどが白系のスポーツブラとその揃いのショーツのような、言うなれば「ぺたんこ」な様相のものばかりで、義康がこの家の家事に初めて手をつけた時にはそれこそ、部屋着のスウェットとそれらが一緒に丸めて山になっていた。

「姉さん、あの、これ……」

 色々な意味で触れ難いそれを恐る恐る指差し、義康がその取り扱いを姉に訊ねた時には、

「あ、えっ……うん。一緒に洗っちゃっていいわ」

 姉はふいと顔を背け、早々に部屋に戻ってしまった。義康は少し考えた後、姉のくたびれたスウェットにそれを厳重に包んでから、洗濯機へと放り投げた。

 姉一人では広すぎる2LDKのこの部屋にも、さすがに風呂やトイレが二人分あるわけでは無かった。そして、特にそういった水回り及び水際の事情については、お互いがお互い、無言の内に最大限の配慮をしている事に義康は気づいている。

 義康は風呂場の隣の洗濯機を使うのも、姉が午前の仕事を始めてからにしているし、姉は姉で、

「じゃあシャワー行ってくるからね」

 とか、

「ちょっとトイレこもるからねー、長いからねー心配しないでいいからねー」

 などと、いちいち義康に言ってから場を離れる。一時の恥じらいよりも、不意の遭遇のリスクの回避を優先するあたりも、まあ姉らしさには違いないのかと、義康はそういう時には黙って頷くだけにしている。

 ただ、ならばそもそも何故自分をここで暮らさせる必要があるのかと、義康は疑問に思い始めていた。

 仕事を覚えさせたいだけなら、ただのアルバイトとして通わせれば済みそうだった。家事を含めてもそうそう長い勤務時間ではない。母と住んでいたアパートからも、電車の乗り継ぎはやや不便だが、充分に通勤できる距離だ。

 では何だろう、虫除けのつもりだろうか。少し考えて、いやいやと一人首を横に振る義康。あの鷹幡という強大な守護神が姉の周辺にいる限り、大抵の男なら滅多な事は考えないだろう。

 安心だ、と安堵すると同時に、本当に安心していいのか? と疑問に変わる。

「ねえヨシくん、洗濯干し長くない? どしたの、お仕事始めるよ?」

 義康の背中に、部屋から姉の呼ぶ声がかかる。回想と憶測のせいで手が止まっていて、まだ干し物のノルマは半分も終わっていない。

「んー、もうちょい」

 と答えてから、はあ、と呆れの溜息を自分自身に聞かせる義康。改めて、重く湿ったいつものスウェットをカゴから引っ張り出す。同じ店で同時に買ったというそれ。全く同じ上下セットのスウェットが、義康が把握しているだけで三着はあった。

 タグのSサイズという表記と、そのウエストの細さがやけに目につく。頭に被ってちょうどいいくらいの大きさじゃないかな、などと、行きたくも無い方向にばかり頭はぐるぐると回り、やらなければならない仕事は一向に進まない。

 義康が気になっている事はもう一つあった。姉は最近、夜に出掛けることが多くないだろうか、と。

 姉はいつも十八時きっちりにケータイを留守電モードにし、何度鳴っても取りはしなかった。十九時の夕食までの時間を使い、その日の電話の記録などをパソコンにこまめに打ち込んでいる事を、義康は知っている。夕食後は大抵部屋に篭って再びパソコンに向かい、ゆるやかにマウスを転がし、ネットサーフィンなどをしているようだった。

 時にはリビングでテレビも見るが、昼の『ライフジャック!』以外には、これといって楽しみにしている番組も無いようだ。義康が持ち込んで遊んでいるテレビゲームを、時折隣で眺めはするが、すぐに興味が無くなるのか部屋へと戻っていってしまう。

 その姉が、ここ数日の内に何度か、行き先も告げずふいといなくなってしまう夜があるのだ。いつものハンドバッグを小脇に抱え、いつものホルダーにケータイを差し、「ちょっと出て来るね」と言葉を残してそそくさと出て行ってしまう。二時間ほど過ぎて戻っては来るのだが、義康が行き先を訊ねても「んー、ちょっと」としか姉は答えてはくれなかった。

「ああ、どうもでーす松岡さん。この間のシャインさんの話、どうでしたー?」

 自分の事を待ち兼ねたのか、姉は午後の電話の応対を始めたようだ。聞き覚えのある名前が耳に触れ、義康はまたひとつ溜息を溢す。

 そもそも自分は姉の事を、何も知らないのではないか。義康は改めて、そう思うようになっていた。こんなに近くにいるのに今ひとつ見えない、姉の私生活の事もそうだが、凄まじい額の報酬を計上しかねない『ハートキャッツ江戸屋』の仕事の事や、加えてヨコトーテレビでの一件もある。

 手の届かない世界を歩いているかもしれないあの綺麗なお姉さんは、自分を本当に家族だと思っているのだろうか。元々歳が離れていた上に、互いを知らない時間が十年もあった。幼い頃は辛うじて繋がっていた家族という関係も、ひょっとして既にリセットされているのではないだろうか。姉の中で、あるいは自分の中で。

 かつて姉はどんな少女であって、今はどんな女性なのだろうか。何が好きで何が嫌いか、一緒に暮らしていた頃の姉の事も上手く思い出す事ができないし、今の姉の事は尚更だった。

 手にしたままの姉のスウェットパンツをじいっと見つめながら、自分の思考が、気分が深く落ち込んでいく感覚を義康は覚える。自分の前から姿を消したあの日から十年の間に、姉はどんな生活を送って来たのだろうか。

 どんな相手と、どんな恋を、してきたのだろうか。

「うぇああああああ!」

 女物のスウェットパンツをガン見しながら想いを馳せている今の自分の様相が、義康は無性に恥ずかしくなる。腰のゴムの部分をぐいと広げて奇声を上げながらぶんぶんと上下に振るい、ありもしないシワを伸ばす。

「ちょっと何、どしたの?」と姉が驚く声が聞こえた気がしたが、義康はそれには答えない。答えられない。

 自分の背後たった数歩、すぐそこの部屋にいる自分の姉の事で、一体何をこんなに思い悩んでいるのだと、義康は必死に平静を取り戻そうとする。旦那の浮気を疑う主婦か、と自分自身に突っ込みを入れたその瞬間に、義康はその手をぴたりと止める。

 以前は見られても平気だった下着を、洗濯物から取り除いた理由。そして、行き先を告げずに夜外出する理由。義康の脳みそはそれらについて、自身へのツッこみをきっかけにある仮説を導き出した。

 即ち、「弟に見せたくないような下着を着けて行くような所に出掛けている」説だった。


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