2-1

「おう! おっはよう、法子さん!」

 やたらと耳に覚えのあるその声に、義康は振り返る。

 窮屈そうなスーツに逆三角の巨躯を包んだ、角刈り頭と角張った顎の壮年の男性。テレビ越しには何度も目撃しているその人物、『ジャックたかはた』こと鷹幡たかはたジャックとの初対面に、義康は思わず背を伸ばし、姿勢を正した。

 テンションの高い鷹幡や畏まる義康に引き換えに対し、間延びした「おはようございまーす」を返す姉。

 その水曜日は珍しく朝から出かける予定だと、義康は前日から聞かされていた。義康が姉につき従い、ビル街の合間をバス停三つ分ほど歩いて辿り着いたのは、横浜デジタルメディアセンター。そのテナントの大半を占める独立放送局横浜東京テレビジョン本社、通称ヨコトーテレビの受付窓口だ。

「……カメラあってもなくても元気ですねえ、鷹幡さんは」

「がはっ! カメラの前だけあのテンションのおっさんてのも、実際イヤじゃん?」

 確かに、と思わず呟いてしまった義康の方に鷹幡が目をやる。怪訝な眼差しを向けたのは一瞬だけで、

「おお、君か! 法子さんの弟さんってえのは!」

 と、人懐こく手を差し出して来る。

「え、江戸屋義康です。姉がいつもお世話になってます」

「何言ってんのヨシくん。いつもお世話してるのはこっちのほうよ、まったく」

 握手を返す義康に、やれやれと肩をすくめて見せる姉。姉はいつもより三十分程早く起きたにも関わらず、今朝はトーストを一枚しか食べられなかった。身支度にかける時間が、普段の外出より少し長かったせいだった。やや不機嫌な様子の姉に、鷹幡は悪びれもせずがははと笑う。

「全くだよねえ、法子さん! 今日も世話になるよ、ホント!」

 腰に両拳を当て豪快に笑う鷹幡の姿は、義康にはコミックヒーローの誰かにも見えた。親指で廊下の奥をくいと指し、こちらにくるりと背を向け歩き出す。その所作ひとつひとつが、きびきびと若々しい。そしてどこかコミカルだ。

 それと比べて今日の姉からは、今ひとつ覇気を感じないように義康には見える。

「姉さん、具合でも悪いの? やっぱり朝ごはん足りなかった?」

「悪かないし、おなかもまだ減ってないんだけど、さ……」

 ややもじもじと、うつむき加減で鷹幡の後ろを付いて行く姉。広いホールでエレベーターを待つ間も、階数のカウントダウンをやたら不安げに見ている。

 やがて扉を開いた大きなエレベーターに、義康達三人だけが乗り込む。試しに義康は姉に、

「今日って、何の仕事なの?」

 と訊ねてみると、

「ああ、アシスタントだよ! お昼のアレの」

 代わりに鷹幡が横から即答した。お昼のアレ。その言葉が何を指すものか義康は数秒考えて、そしてひえっと息を飲む。

「まさか、『ジャックたかはた全力プライス・午後イチ通販ライフ・ジャック!』?」

「んーいいね、弟君いいねえ! まさかフルでタイトルコールを頂けるとは思わなかったね!」

 ジャックさん嬉しくなっちゃうね! となおも機嫌を良くした様子で、がははっと笑う鷹幡。

 あらゆるカテゴリの商品を取り扱う大手通信販売会社、『ジャックたかはた』。その代表取締役である鷹幡自らがテレビやラジオに出演し、その商品がいかに便利でお買い得かの熱弁をふるう、ヨコトーテレビお昼の名物番組がこの『ライフジャック!』だった。

 普段、午後一時からの昼休みに、義康が姉と二人で昼食を食べている間、リビングのテレビで何故か決まって流れているのがこの番組だった。特別他に見るべきものも無く義康もそれを眺めていたが、それは姉自らがしっかりチャンネルを合わせていたのだと、義康はこの時初めて気付いた。

 益々テンションを上げる鷹幡とは対照的に、姉の背にかかる空気がだんだんと重くなって来ているように義康には見えるのは、エレベーターの慣性のせいだけではないようだった。

「何でか知らないけど、この人やたら私の事テレビに出したがるんだよね……」

 姉の言葉に義康はおや、と思う。どうやら今日が初めてではないらしい。

「だって法子さん、うちの『ライフジャック』好きでしょ?」

「そりゃあ、見るのは好きだけどさあ……通販番組ってのはこう、見てツッこむのが好きなんであってさあ」

 誰にともなくぶつぶつと呟く姉に、義康は正にその通りだと共感し、うんうんと頷く。

「まあいいじゃないの! この間法子さんに出てもらった時、えらい評判良かったんだって。問い合わせ倍増。ネットに動画が上がった後に、商品じゃなくて『今日のアシスタントさん何者ですか』ってのばっかりだったけどさ!」

「ちょ、ちょっとそれ、何て答えたのよ鷹幡さん! 内緒のはずよね? ちゃんと『ただの社内の者』って扱いにしてくれたんでしょうね?」

 笑う鷹幡と、うろたえる姉。だが楽しげに、賑やかにやり取りする二人の後を、義康は一歩離れて着いて行く。普段から鷹幡から電話が掛かって来る事は多く、姉にとって相当なお得意様なのだろうと義康は思っていた。

 だが彼との電話の時にだけ、少しばかり姉の様子が違うように、義康には見えていた。元々の軽い口調こそ、他の顧客からの問い合わせの時と変わりはしないが、鷹幡氏との通話の時にだけ、雰囲気や物腰、そして回線の向こう側へ見せる笑顔の色が、ほんの少しだけ柔らかくなるのだ。

 姉にとって、ただのお得意様というだけでは無さそうだ。こうしてカメラも回線も通さず目の当たりにした、鷹幡という男。そして彼と親しげに話す姉。

 その関係にか、その男に対してかは、はっきりとはわからない。だが、どちらにしろほんの僅かに覚えた自分の嫉妬の存在を、義康は気のせいだとは思えずにいた。


「そう言えば姉さん、化粧するの珍しいよね」

 姉と共に通された控え室で、義康はパイプ椅子に座り、姉の背中に話しかける。

「んー、だって普段ずっとウチにいるしねえ」

 大きな鏡の前に大人しく座った姉は、スタイリストの女性の為すがまま、顔に化粧を施されている。

「そうでなくても、一回始めると毎日やんなきゃいけなくなる気がするのよね、ああいうの」

 コスパ最低だわ、と姉が呟くと、スタイリストも「確かにそうかも」と笑って同意する。化粧を商売にしている人がそこに同調していいのかと、義康は小さく疑問に思う。

 収録開始まで一時間程の余裕があった。台本や打ち合わせが必要なのだろうと、義康は何となく思っていたが、姉と鷹幡がそうした手順を踏んでいる様子は無かった。ひょっとして相当慣れているのかと、控え室に入る前に義康は姉に訊いたが、

「いんや、ようやく二回目だなあ。中々オーケーもらえなくてさ、ジャックさん悲しいよ!」

 と、やはり代わりに鷹幡が答えてくれた。

 備え付けてあった19インチほどの液晶テレビは、ヨコトーテレビの番組コマーシャルやドラマの次回予告を立て続けに再生していた。

 月曜夜九時あたりに放送しているメロドラマの予告で、「姉さん、どうして俺の想いに応えてくれないんだ!」と芝居がかった台詞が控え室に響き渡った時、空気がぴしりと凍り付いたのを義康は感じた。

 奇妙な沈黙の中で義康は、このタイミングでテレビを消す訳にも行かず、ただただ早く次の番組宣伝が流れるか、姉の化粧が終わってくれる事を黙って祈った。

「はい、お疲れ様でした……あ、疲れるのはこれからですね。大変ですね、江戸屋さん」

 かたり、と椅子を立つ音に、義康はテレビから視線を外した。口調からすると、どうやらスタイリストのその女性も、姉とは見知った仲のようだった。

 くるりと振り返った姉の顔を目にした瞬間、義康は、

「……おおっ」

 と思わず感嘆の声を漏らしてしまった。

「な、何よその反応は」

 僅かにずれたメガネを指先で直しながら、照れたように視線を外す姉。目元にほんのわずか乗せられたシャドウとマスカラが、元々大きく丸い瞳のブルーをさらに際立たせた。唇の薄紅も、パールの粒子につやめく頬も、姉の自然体の魅力を微塵も損なう事無く、より引き立たせている。

 化粧ってすごい、などと冗談を言う気も、義康には起きなかった。自分の目を奪ったそれは純粋に姉自身の魅力だと、義康は疑う事もできず感じていた。

「ほ、ほらヨシくん。鷹幡さん待ってるから、さっさと行こ」

 姉は決まり悪そうにしながらばたばたと荷物をまとめ、足早に控え室を出て行った。

「『キレイなお姉さんは好きですか?』ってCM、昔あったわよねえ。好きに決まってるじゃない、ねえ?」

 スタイリストの女性の悪ふざけに上手く言葉を返せないまま、義康も慌てて姉の後を追った。


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