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車を降りた途端、義康はうっと口元を押さえる。ゴムかプラスチックが溶けたようなひどく不快な臭いが周囲に満ち、義康の嗅覚に襲い掛かったのだ。
「ああ、江戸屋さんか! どうしたの急に」
「どもーご無沙汰です。新人研修ついでにちょっとお話って感じで」
工場の入り口近くにいた青いツナギの男が、姉を見るなり嬉しそうに声を掛けた。男性、そして姉も、まるでこの異臭が存在しないかのように、平然と会話を始めていた。
へえ、と興味ありげな様子を見せて、ツナギの男は義康を見つける。やや禿げ上がった額の下で、細い垂れ目が人懐こく微笑む。極力鼻で息をしないようにしながら、義康はどうも、と頭を下げる。
「
作業着の胸ポケットからしっかりと名刺が出て来るあたり、やはり社会人は違うな、などと義康は思う。
「すみません、名刺無くて……弟の義康です、姉がいつもお世話になっております」
丁寧に差し出された松岡の名刺を、義康は「頂戴します」と恐る恐る受け取る。
「臭いところですみませんね。あっちでやってる、工業用ゴムの耐熱試験です。どのくらいの温度で嫌な臭いがし始めるか、って奴ですね。あ、最近のゴムの煙は吸っても身体に害は無いんで、そんな死にそうな顔しないでいいですよ」
冗談めかして言う松岡に、義康は懸命に笑顔を作ろうとするが、器官も表情筋も悪臭を拒絶するように強張り、上手くいかない。にやにやしながらその様子を見ていた姉が、松岡に話を切り出す。
「例の『ジェル板』って進んでます? ちょっと見せたい所があるんですけど」
「ええ、ぼちぼち売りに出すのを考えなきゃって思ってた所です。どうぞ、中へ」
松岡が手で屋内を示し、二人を誘う。ただでさえ凄まじい臭いがどうなるものかと、義康は顔を引きつらせながら、二人の後を着いて行く。
「これが試作3号ですね。2号より、さらに薄くできました」
案内された事務所の中までは異臭が侵食しておらず、義康はふうとひと息ついた。銀色の、手のひら大の板状のそれを、松岡は得意げに差し出した。
「おお、ほんと。1ミリ無いわね、これ」
「ええ。いろんな所から、もうちょっと薄くできないかって、ずっとご意見頂いてましたからね」
感嘆の声を素直にあげ、姉はその板を手に取り、様々な角度からまじまじと見る。感触を確かめるように表面を指で触れる。
「これはですね、あるジェル素材に使われる物質の熱膨張を利用した、放熱板の試作品なんです」
状況に追いつけていない様子の義康を見て、松岡は親切に解説を始めてくれる。
「ジェルってあの……湿布とか、子供が熱出した時におでこに貼るやつ、みたいな」
「そうそう、それです。この板の中は空洞になっていて、それぞれに比熱の違う二層の物質が入っています。こっちの銀色の面の方はジェル素材、外側になる色の暗い方には、さらに薄い合金板が入っています」
松岡は散らかったデスクを漁り、パンフレットらしき一枚の紙をテーブルに広げる。色の違う板と板が重なり合っているようなその解説図を見て、義康は何となく、新築一戸建てのテレビコマーシャルを思い出す。あれも確か、断熱がどうのと言っていたか。
「普段はジェルと合金板の間は空洞になっているのですが、ジェルの方の温度が一定まで上がると、熱膨張が発生し、金属板に接触します。そうする事でジェルは温度を金属に逃がし、温度の上昇を抑える事ができるんです」
くの字に曲げた左手をジェルに、右手を金属板に見立てながら、松岡は解説を進める。
「テストした結果をざっと言いますとね……六十度の熱源のすぐ近くに、この大きさの板を置いた場合ですね、三十度だったジェルが熱膨張を起こす四十度になるまでは十分もかからないのですが、膨らんで合金板に熱を逃がし始めると、ジェルが五十度に達するまでなんと六時間。三十度の気温の中で使い続けていれば、合金板自体は五十一度から上昇しないですし、熱源の温度が十度下がると、ジェル側は一分かからず同じくらい下がるんですよ!」
まくし立てるようなその解説。そこに数字が多く入り混じるにつれ、松岡の語調はだんだんと熱を帯びてきた。研究者というキャラクターの、お手本のような人。義康は松岡にそんな印象を持った。
この合金側の比熱がですね、とさらに詳細に話を続けようとした松岡を、姉が手を挙げて制する。おっと、と松岡が言葉を口に押し込める。
「そ。これ自体がそのまま使えるかどうかはともかく、これを作り上げた松岡さんの技術を欲しがる会社さんは絶対たくさんあると、私はそう思ってるわけ。さて、どういう所が欲しがるか、もうヨシくんもわかるっしょ?」
義康は松岡の解説の、理解できた部分を頭の中で必死に整理した。熱しにくく、冷めやすい。まさに今日電話を受けた、シャイン・エレクトロニクスの芽付氏の話を、はっと思い出す。
「スマホの冷却、とか……」
「ま、そんな風にも使えるんじゃないかってね……松岡さん、来週いつ空いてる?」
義康の答えを肯定しながら、姉は既にケータイの電話帳のページを進め、その場で通話を始める。いいのだろうかと義康は少しためらったが、松岡を見ると、彼は期待に満ちた目で姉の様子を見守っていた。
「あ、ハートキャッツ江戸屋です。芽付さん? さっきはすみません……ええ、大体聞きました。ちょっと見てもらいたいモンがあるんですけど、来週とかお時間どうです?」
あれよあれよと言う間に、姉は芽付と松岡の都合を合わせ、彼らを引き合わせる段取りを組み上げてしまった。松岡は一人、小さく「よし!」と呟き、拳をぐっと握っていた。『
義康は目の前のあらゆる事にただただ感心しながら、手元の小さな金属板を、改めて尊敬の念を込めて眺める。ふと顔を上げると、姉とちょうど目が合った。
ぱちりとウインクする姉に、何故か義康はどきりとした。どんなリアクションをすればいいのかわからないまま、義康はまた金属板へと視線を逃がした。
「んー、ヨシくんのコーヒーの方が美味しいかなあ、これ」
大盛りのアラビアータをぺろりと平らげた姉は、食後のアイスカフェラテに口をつけ、そう呟いた。
義康と姉の車は、行きと同じ道に帰路を取り、本牧埠頭出口近くに新しくできたチェーンのイタリアンレストランに立ち寄った。普段の昼食を主に冷凍のパスタに頼る事が多い二人の食生活だったが、同じパスタとは言え、外で食べるそれにさすがに同じ評価を下す事は出来なかった。
義康はコーラを飲みながら、「じゃあさ」と姉に問い掛ける。前々からひとつだけ、姉の仕事について訊いておきたい事があった。
「今日みたいな感じのが仕事だとすると、『ハートキャッツ江戸屋』って、どうやってお金を稼ぐの?」
姉は結露のまぶしい大きなグラスをことりと置き、メガネのつるを指先でくいくいと玩びながら、「んー」と考える。
そして何を思ったのか、ケータイを取り出してぽちぽちと操作した後、古めかしい液晶画面を義康の方にくるりと向ける。表示されていたのは、午前中の『ジャックたかはた』との通話履歴らしきもの。通話時間5分27秒、39,240円。
「このケータイの番号、まあちょっと特殊なQ2回線みたいなモンなのよね。基本、これにかけて来た人は一秒あたりだいたい六十円、こっちからかけた場合は百二十円、通信費として請求が行くわ」
「……へ?」
これで今日、何度目の驚愕だろう。十秒で千二百円、一分だと七千二百円。義康は大雑把にそれだけ計算し、その余りに現実離れした料金設定に、義康の目が二桁のゼロの形になる。そして、シャインエレクトロニクスの芽付氏との電話で、自分がどれだけの時間を使わせたかを思い出し、ぞっとする。
「その、こっちからかけて一秒百二十円ってのは、こっちが払うの?」
「んーん、向こう。だってこっちからかけるって事は、大体のケースで向こうにとっては新しいお仕事のお知らせなんだしね。あ、ヨシくんのケータイとかは大丈夫よ、ホワイトリスト入りしてるから。でも他のお客さんの電話取れなくなっちゃうから、あんまり電話で話さないでね」
朝九時から、夕方はきっちり十八時。部屋にほとんどこもったままの、実働八時間。水曜と木曜を定休日にしているらしいが、それ以外の日は少なくとも実働時間の半分ほどを、ひっきりなしに掛かって来る電話の応対に費やしている筈だ。四時間。受信だけでも、一日で八十六万四千円。月二十日で千七百万円を超えている。少ない日を見ても一時間。一日で二十万円だ。
数字の桁を疑って、何度も暗算しては「うわぁ……」とひとり呟く義康。開いた口も目も塞がらない義康を楽しそうに眺めながら、
「受信の六十円が
腰に手を当てふふんと胸を張り、自慢げにそう言ってのけた。
義康は、感嘆と敬意を素直に込めて、姉に小さな拍手を送った。離れていた八年の間に、どうやら姉は途方も無い人物になっていたようだ。寂しさに似た何かしらが、ほんの僅かだけ心の奥底に淀んでいる事にも、義康自身気付きながらの、尊敬の拍手だった。
と、姉のその言葉に含まれていたある言葉の存在に、義康はふと気付く。
「私達、って事は、姉さん以外にも相談の電話を受ける人がいるの?」
「なーに言ってるの、ヨシくん。あんたもそうじゃない」
今度は姉が、瞳をきょとんと丸くする番だった。胸に湧いて来た嬉しい気持ちが、義康の頬をくすぐり緩ませる。と、そこへ。
黒い影が姉の横を通り抜ける。ん? と義康がそれを見上げると、
ひゅあっ。
聞き覚えのある風切り音が、イタリアンレストランのオレンジ色の照明を、揺らした。
「おふっ!」
黒い影がもんどりうって、義康の足元にどうと倒れ込む。びくりと身を強張らせ、義康はそこへ視線を落とす。姉の何が、どうなったのか、理解が追いつかない。
影の正体は、黒いスーツを着込んだ一人の男性だった。スキンヘッドにサングラス。決して貧弱ではない体躯とその出で立ちは、明らかにカタギな職種の人間のそれでは無いように義康には見えた。片方の手で右耳あたりをかばい、もう片方は内股をぎゅっと閉じた股間を痛そうに押さえている。
「またあんた達なの? ご飯くらいゆっくり食べさせてよね、ったく……」
うんざりと言った様子で姉はそう言い放ち、テーブルの隅のコールボタンを押した。お待たせしました、と駆け寄って来た学生らしき若いウエイトレスが、義康の足元に転がっているそれを見てから、一瞬遅れてひぃ、と小さく悲鳴を上げる。
「引ったくりの現行犯。悪いけど警察呼んどいて。これ、何かの時の連絡先」
状況を理解できないウェイトレスに、姉はてきぱきと指示をして、名刺を渡す。カフェラテのストローをずいいと吸い上げ、まだ呻き声を漏らしている男をひょいと避けて立ち上がる。義康が影に気を取られたあの一瞬で、姉は一体何でどんな攻撃を、男に加えたのだろう。一瞬想像しただけで、股間が縮む錯覚を覚える。
「ね、姉さん。大丈夫なの……?」
「ん? 私は大丈夫だけど。何でか知らないけど、最近どうもこのケータイ欲しがってる奴が、どっかにいるっぽいのよね」
レジで会計を済ませ、二つ折りにした領収書をサイフに入れながら、姉はさらりとそんな事を言う。チェーンをちゃらちゃらと躍らせながら、さあ帰ろ帰ろと駐車場の車へ戻ってゆく姉を、義康は慌てて追いかける。
夜の横浜をゆるりと駆ける車の中でも、義康の動悸はまだ収まり切っていなかった。
『ハートキャッツ江戸屋』がしている事は、本当にただのビジネスマッチングなのだろうか。義康は口に出さずそれを考える。
あまりに数の多い依頼者や、その報酬額。そして、ケータイを狙った突然の襲撃。少しずつ正体が見えてきたとは言え、義康の目から見た姉の仕事には、まだ謎の部分の方が多かった。
これから自分がそんな姉の手伝いを、本当に出来るのだろうか。疑問が不安に変わりかけた時、義康はふと、まだ他にも謎のままになっている事に気が付いた。
『ハートキャッツ江戸屋』初代であるはずの、姉と自分の父親は、今一体どこにいるのだろうか、と。
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