1-3

 義康はとうに解凍の終わったパスタをレンジの中で待たせたまま、慣れない左手で必死にマウスを走らせていた。

「新人君は大変だね。大丈夫かい? 本当に」

「ええ……ええ、すみません。お時間頂いてしまって……」

 もう何度、ケータイの向こうの男性に向かってぺこぺこと頭を下げたか、義康は覚えていなかった。ただひたすら頭を回し、手を動かし、役には立てなくともせめて納得してもらえる回答をしなければと、焦った。

 シャイン・エレクトロニクス株式会社。横浜関内に本社を置き、各通信キャリアに自社製国内生産端末を供給し続ける携帯電話メーカー。電話の主の名は芽付めづけといい、デジタル情報端末事業の本部長を名乗る初老の男性だった。

 レンジの合図と同時に鳴り始めたケータイを、義康は戸惑いながらも手に取り、二回ほど深呼吸をしてから受話ボタンを押した。ハートキャッツ江戸屋です、と名乗った瞬間、落ち着かせたはずの鼓動は再び早り、義康の喉をどくどくと打った。

「えっと……シャイン・サプライズ様、こちらなんかはスマートフォンのオプションには強いのでは」

「いやいや、そこはウチの系列だから紹介してもらうまでもないよ。それ以前に、周辺機器や後付け品でどうにかしようという話じゃなくてだね」

 苦笑交じりに却下され、義康はすみません、と小さく呟く。落ち込みそうな所を何とか踏み留まり、再びマウスの手を動かす。やけにずっしりと重いケータイとチェーンを、汗ばむ右手で必死に支える。

 冬期商戦に打ち出す予定の、新型スマートフォンについての相談だった。同メーカーの既存モデルは動作中の本体発熱がエンドユーザーの評判を落としていて、また故障とクレームの元になっているという。そこで、新型機はその対策をしっかりと施した上で、安全性と長寿命をアピールして行きたいから、いい知恵と技術を持ったサポート企業を紹介して欲しい、と。

 電話の主の要求を、何度か聞き直しながら義康がそこまで理解するのに、既に五分を使っていた。よく待ってくれるとありがたく思ったが、さすがに焦れて来たようだ。

「まあ、法子さんが帰って来てからでも構わないよ? 今すぐに回答をもらわなければならない話では無いのだし」

「そ、そうなんですか。でも……」

 もう少しで、と言いかけて、義康はぐっと飲み込んだ。モニターに映っているリストは、ようやく電子開発関係らしき社名にソートされた所だった。だがウィンドウ右上に出ている候補社数は三桁に上り、芽付氏の要求を満たす企業をそこから紹介する事など、自分に出来るとは到底思えなかった。

 黙りこんでしまった義康の耳に、小さな溜息が届く。

「気持ちはありがたいが、この電話もタダじゃないんだ。ただ待っているだけで繋いでおくのも、ちょっと厳しいんでね」

 大手のクセに電話代なんかケチるのか。自分の不甲斐なさから来る苛立ちに、そんな八つ当たりまでが義康の思考を乱す。震える手を、マウスからそっと離す。

「で、では……戻り次第、ご連絡させますので」

 不慣れが如実に表われた妙な敬語に、自分の頬がゆだるのを義康は感じる。

「君、名前は?」

「江戸屋、義康です」

 芽付氏に尋ねられ、ほんの少しだけ迷ってから、義康は素直に名乗る。後で名指しでクレームでも入れられるのだろうか。マイナス思考の想像ばかりが、頭を重くする。

「ほう、弟さんかな。まあ、そう気を落とさないで良いから。じゃあ、連絡を待っているよ」

 そして義康が、時間を割いて頂いたお礼も、答を返す事の出来なかった謝罪もとうとう言えないまま、電話はぷつりと切られてしまった。

「無理ゲーだろ、こんなの」

 義康はケータイを置き、頭を抱えてキーボードの上に突っ伏し、ぼそりとそう呟いた。ずっと耳元にケータイを固定していた右手が、やけに凝って疲れている。キッチンに昼食を取りに行く気にもなれず、嫌な汗で貼り付くシャツが不快でたまらなかった。


「ごめんごめん、遅くなったわ」

 三時手前になってようやく姉が帰って来たその頃、義康は脱力した手をマウスに添えたまま、呆けた目でモニターをぼんやりと眺めていた。

「みんなこの時間は結構遠慮してくれる感じなんだけど、どう? 電話は……」

 あったみたいね。義康の沈んだ表情を見て、姉は外出していた間にあった出来事をおおよそ理解した様子だった。

 義康は結局あの後の着信全てに、姉の不在と折り返し連絡入れる旨のみを伝え、対応を済ませる事にした。本題に入るのを怖がるかのように、すみませんすみませんと謝りながら、先方の社名と連絡先だけをパソコンのテキストエディタに打ち込み、通話を終えた。

「これ、掛かって来たとこ。折り返し連絡しますって、言っておいた」

 十四件。最初の一社、シャイン・エレクトロニクス以外の相手との通話は、大抵が十数秒、数十秒で済んでしまった。むしろ最初からそうしておくべきだったと、義康はぐったりとした疲れの中でただ後悔していた。

「うん、わかった。ありがとね、ヨシくん」

 義康はよいしょと立ち上がり、普段と変わらずにこやかな姉に座っていた席を返す。姉は義康のメモにすぐさま目を通し、ふんふんとひとり頷き、再びケータイを手に取る。

「ねえ、姉さんの仕事……っていうか『ハートキャッツ江戸屋』って、何なの?」

 姉の細い親指がケータイのボタンにかかる寸前で、義康はそう訊ねる。「んー」と天井を見上げて少し考えてから、姉は答える。

「ビジネスマッチングサービス。企業同士がWinウィンWinウィンの関係を築く為の『模索』のお手伝い、かなあ」

「それってたとえば、そのパソコンにあるリストから選んで紹介して、って事なの?」

「大体そうかな、もちろんこの横浜市内事業者リストからだけじゃないけど。かけて来た相手の話を聞きながら、自分の知ってる所を含めて何となーく思い当たる所を、試しにつないでみたり……とか?」

 すごい簡単に言うけどさ、と義康が言い返そうとした所で、ケータイが姉を呼ぶ。暗くて目の粗い液晶に映った名前を見て、はいはい、とひどく軽い調子で応じる姉。

 シャイン・エレクトロニクスの芽付氏を待たせながら、必死でリストから検索をかけていた時の事を義康は思い出す。どんなキーワードで捜していたかももう思い出せない。社会人経験と言えば、高校時代に何度かした、自転車で年賀状を配るアルバイトくらいしかない義康だった。検索候補に挙がるどんな社名を見ても、その事業内容を見ても、どの企業ならばどんな要求のどれだけを、どう満たすのか、想像すらつかない。

「はいはい。じゃ、明日の午前中で。お世話様でーす」

 はっと義康が気付いた時には、姉の電話はもう終わっていた。しっかりと聞いておくべきだっただろうか。でも、聞いたところで自分に何がわかるだろうか。迷う義康に向かって姉はまた小首を傾げ、丸いアンテナの先っぽで頬をくりくりといじりながら「んー」と考え、そして。

「んじゃ、ちょっと出かけよっか」

 姉は義康の返事を待たずに椅子から離れる。PCラックの一番上、プリンターの傍らに置いてあった、黒い革製の携帯電話ホルダーを手に取る。

「え、どこ行くの?」

「んー? ドライブ。そんな遠くじゃないけど」

 カラビナ留めのホルダーを、腰のベルトにかちゃりと固定する。長いチェーンの端をもう一つのカラビナで留め、開いたままのケータイを縦長のホルダーにすっぽりと収める。そうまでして開いておかなければならないのかと、義康は面食らう。

 姉は壁の時計を見て、

「たぶん、帰りに晩御飯食べてくる感じでちょうどいいかな。ほら、仕度して」

 帰宅したそのままの格好で、姉は再び玄関まで戻る。義康も慌てて自分の荷物のある部屋に戻り、訳もわからないまま着替えを始めた。


 ダークブラウンマイカのミラクラシック・ターボ。父が買った中古車を、そのまま譲り受けて使っていると言う。平成九年式のそれは、小奇麗にはしてあるもののさすがに古さを隠す事はできず、義康が初めてそれを見た時には、まさに『いわゆる中古車』という印象を抱いた。

「そうねえ、今日の午前中の話で言うと……」

 姉は慣れた様子でハンドルを駆り、本牧埠頭ほんもくふとう入り口から首都高速に乗ったあたりで、思い出したように話し始めた。

「中古の社用車がどうとかって言ってたの、聞いてた?」

 窓の外を後ろへと流れていく赤と青のコンテナを見ながら、義康はこの朝、電話に応じていた姉の姿を思い出す。

「うん、充電できるところが少ないって」

「そう。電話してきたのは南区にある小さな医療品メーカー『新芝しんしば製薬』さん。今度新しく川崎に営業所を置くからって、最近のギョーカイの流行に乗って、社用車に電気自動車EVを入れちゃったんだって。んで、電気自動車用の200V充電スタンドは、横浜市内は中区が一番多くて二十二箇所、他の区もまあ似たり寄ったり。でも、川崎市内はまだ全然で、中央部にようやく十箇所あるかないかって所なのよね」

 すらすらと喋りながら、姉の目は淀みなく前を見据える。左の車線から移らず、急ぐ車に先を譲りながら、海の上の湾岸線をゆうゆうと走っていく。

「んで、せっかくだから車両充電スタンドメーカーの『東川電設ひがしかわでんせつ開発』さんに話をしてみたら、って言ったの。『新芝』さんが回るドラッグストアチェーンの地方営業所に、共同出資でスタンド導入を提案するのはどう? って。『東川』さんは当然儲かるし、『新芝』さんや他の営業さんも回り易くなる。何よりドラッグストア側も安価でスタンドを導入できるとなれば、住宅地域のエンドユーザーに支えられる郊外型店舗には、十分なメリットよね」

 姉の口調は軽かったが、その中身は理路整然としていた。義康はしばらくぽかんと口を空けたままでいた後、その提案の実現で回るはずの人と商品の流れを、必死で考える。姉の言うとおりWinウィンWinウィンの関係が成立するのだろうと、義康は何となく想像できる。

「……千歳飴がどうとか、ってのは?」

 午前中、姉の横で聞き耳を立てていた会話の端々を思い出し、義康は再び訊ねる。

「みやこ製菓っていう、昔ながらの手作りで千歳飴作ってる工場があるんだけど、飴を裁断する刃物を手入れしてた職人さんがお亡くなりになってね。刃物の手入れが出来ないまま騙し騙しやってたら、とうとう飴の端っこが欠けてるってクレームが来ちゃったんだって。そんで、美容院の髪切るハサミあるじゃない。あれって何気に腕のいい研ぎ職人使ってたりするのよ。だから、横浜で一番おカタイ美容院に、お抱えの研ぎ職人紹介してやってって話したの」

「お、音大の教授が食堂にいるとか、なんとか……」

「今、四月でしょ。音大の在校生はきっと新学期の行事とかで、結構演奏のモチベ高いんじゃないかなって。だから、美術館でやるはずだったのに突如キャンセルされちゃったミニコンサートの代理なんか、割と喜んで引き受けてくれちゃうんじゃないの? ってお話」

 おお、と思わず義康は驚嘆した。

 高校の社会科だかで耳にした『要求ニーズ』と『提案シーズ』の概念を、初めて納得を伴って理解できたと思った。

 これらの話はどれも、午前中に数分ほどのやりとりで終えてしまった電話だった。初めて受けた話ばかりでもないかもしれないが、それにしても、突然の電話に応じてすらすらとリプライされる姉の思いつき、『要求ニーズ』と『提案シーズ』の結び付けは、ただの事業者リストや検索エンジンだけでは到底導き出せない提案ばかりのように、義康には見えた。

 そして、それがあまりに当然の事であるかのような、姉のライトな話しぶり。義康はつい、

「それ、そんなに都合よくいくの?」

 と混ぜっ返してしまう。だがそこへ返って来た、

「知っらないわよ、そんなの」

 というあまりに実も蓋も無い姉の即答に、義康は「ほえ?」と間抜けな声を漏らして唖然とする。

 そんな義康を見てけらけらと笑いながら、姉は諭すように続ける。

「私が、というか『ハートキャッツ江戸屋』が知ってるのは、どんな会社や人が、どんな生業なりわいでこの街を支えているのかって事だけ。んで、私がするのは、その生業なりわいの需要と供給が上手いこと引っ付く為の、ちょっとした口出しだけよ……っと」

 再び鳴り出すケータイを片手で取り上げ、早押しクイズ並みの反応速度で受信保留のボタンを押す姉。さすがに運転中は通話はしないかと、少し義康は安堵した。

『ハートキャッツ江戸屋』の事業が持つ機能は、いわゆる商工会議所そのものだ。地域の事業者間の仲介や斡旋でマッチングを手助けする、地域経済振興の為の公益経済団体。少なくとも義康が自身の知識を照らし合わせる限り、それに間違いは無いはずだった。

 だが、比較して驚くべきはそのレスポンスだろう。姉のそれは商工会等のそれと比べて、圧倒的に速いのではないか。

 そして、いつものあの親しげな話しぶりから義康が察するに、個々の企業や事業者についての実態や内情などの細かな情報についても、『ハートキャッツ江戸屋』は知り尽くしているようだった。それ故、普通に『要求ニーズ』に適うものを探していては見つからない、細かな『提案シーズ』を見つけ出し、つなぐ事が出来るのではないだろうか。

「飲み物でも買ってくれば良かったわね、喉渇いちゃった」

 義康がぐるぐると思案を巡らせていると、姉はそんな事を呟いた。いくつかの倉庫の並んだ埋め立て地を越えたあたりで、遠くに羽田空港が見えた。

「これから行くとこ、普通にアポ無しなんだけど。まあ、お茶くらい出してくれるわよね、多分」

 アポ無し、という言葉に義康は少しぎょっとする。普段から誰に対しても割り合いフランクな振る舞いをする姉だったが、仕事の場にまでそれが通じるというのだろうか。

 社会とはもう少しカタいものだとばかり思っていた。そんな義康には、姉が今からどこへ何しに向かっているのか、まだ想像も出来なかった。

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