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 義康の元に姉からの電話があったのは先月、三月も終わろうとしていた日曜の夜の事だった。両親の別居で離れて暮らしていた、八つ歳上の姉からの、実に八年ぶりだったその電話。それはあたかも、彼の国立大学受験失敗を見越していたかのような絶妙のタイミングで、彼の元に届いた。

「もし暇ならさ、就職しない? バイトでもいいけど」

 挨拶も思い出話も皆無なままの唐突な切り出しに、義康は耳を疑った。八年前の記憶にあったそれより涼やかで歯切れの良い、大人の女性の姉の声。選択肢の提示される順が「バイトしない? 就職でもいいけど」だったなら、まだこのお気楽さも辛うじてわからないでもなかったが、最低一年の受験浪人が確定した矢先にこうもさらりと社会人デビューを促されるとは。義康は、

「……何というか、元気そうだね。姉さん」

 と、毒にも薬にもならないワンクッションを滑り込ませる事しかできなかった。

「あ、うん。他にお願いする当てもなかったし、何よりちょうど良いかなって」

「実際ちょうど良くない事も無いんだけどさ、確かに!」

 正直に口を滑らせてしまってから、義康は僅かに後悔する。姉が昔からこんな感じだった事を思い出しながら、義康は頭をぽりぽりと掻く。義康が友達と遊びに出かけようとする時間と、姉が母にお使いを頼まれるタイミングが妙に一致していて、そのまま帰り道についでを頼まれたり。夏休みのリビングで宿題と最終戦を繰り広げている最中に、トレンディドラマが全話一挙再放送をするからと録画の番を頼まれたり。

 義康も義康で、渋々ではあっても大体の事を引き受けてしまっていた。思い返してみれば姉のお願いはいつだって、決して理不尽な押し付けや我侭ではなかったからだ。あくまで、義康が何かをするついででこなせるものばかりで、義康がどうしてもそれが難しいと言い張れば、姉は素直に引いてくれた。

 義康自身は、姉との仲は悪くは無いと思っていた。頼まれ事をこなした後には「ありがと、助かったよ!」と嬉しそうに言ってくれたし、おやつやおもちゃも、自分の手に余るようならちゃんと分けてくれた。

 姉が中学を卒業する頃には、彼女が人並み以上に魅力的な女性であるのだろうと、義康は何となく気付いた。そして言葉を交わすのが気恥ずかしくなってきた頃に、父緑兵衛ろくべえと姉は家から姿を消した。

 義康は自分の中に、確かに寂しい気持ちがある事をわかっていた。父は元々ほとんど家にいない人間で、正直義康はその存在をどうでもいいと思っていた。だが、姉も一緒にいなくなったと後から知ったその時には、義康は幾夜も一人布団に顔を埋め、目の周りが腫れるくらいに泣いた。だが、きっと自分の母はもっと寂しいのだろうと思い、しばらくして夜泣く事をやめ、父と姉の行き先も聞かずに堪えた。

「お母さんは今日いる? 元気?」

 少しだけ遠慮がちに、姉は義康にそう訊いた。

「仕事行ってる。まあ元気だよ、おかげ様で」

 義康も、少しだけ他人行儀に言葉を選んで、そう答えた。義康の実母である浅香あさかは父緑兵衛の後妻で、姉は言わば父の連れ子だった。前妻である姉の母が、イギリスだかどこかの外国人だったと、義康は母から聞いた事があった。ブラウンの地毛と濃いブルーの瞳がその面影なのだろうが、義康はその事は訊ねなかったし、姉からも話してくれる事は無かった。

 義康は子供ながらに、姉と母の間にうっすらとした壁がある事に気が付いていた。だがその頃にはまだ、それはきっと姉が「お姉ちゃん」だからだろうと、何となく自分を納得させていた。

 受験失敗のレッテルつきではあるが、十八歳。今でこそ義康も、その壁の意味をわかっているつもりだった。こんなに時間が経ってもまだ、お母さんとは呼び難そうにしている姉。そんな所が昔と変わっていない事を、義康は何故かほんの僅かに嬉しく感じた。

「もしヨシくんが引き受けてくれるんなら、ウチに住み込みで働いて欲しいの。だから、ちょっとお母さんにも訊いておいた方がいいかなって」

「住み込みって、姉さんの職場に?」

「そう。職場って言うか、ウチ。錦町わかる?」

 横浜市中区、錦町。義康にとっては、位置と行き方もわかる程度には知っている地名だった。今は義康が母と二人で、かつては父も姉も暮らしていたこのアパートは、同市内の金沢区芝町しばまち。どこか遠くへ行ってしまったと思った姉が、ほとんど目と鼻の先のような場所にいたという事に、義康は少なからず驚いた。

「なんだよ、意外と近かったんじゃん。じゃあ、母さん今日は帰ってくるの夜遅いかもしれないから、代わりに話しとくよ」

「って事はヨシくん自身は、ちょっとやる気になってるのね?」

 姉に言われてようやく、義康は既に自分が、姉のお願いを聞き入れる姿勢になっている事に気付く。まだ具体的に何の仕事をするかも、全く聞いていないのにだ。長く失われていた筈の、姉弟間コミュニケーションのフィーリングが、ものの数分の会話でこうも自然に取り戻されてしまうとは。義康はくすりと小さく笑う。

 ぎこちなくなるよりずっとマシかな。義康は思う。そして少しだけ間を溜めてから、

「考えとく、って今はまだ言っとく。えっと、この番号で姉さんと連絡取れるんだね? 50の……8101の、0810?」

 変わった番号だね、と義康が聞くと、何故か姉は、いいでしょ、と自慢げに言った。

「『810‐10‐810ハート・トゥ・ハート』よ? 覚えやすいでしょ」

「……その覚え方すると、途中で2を打ちそうだけど」

 あ、そうかも。と姉は笑った。じゃあまた、とお互いに言って通話を終了させた所で、義康の母がちょうど帰宅してきた。

「おかえり母さん、お疲れ」

「ただいま。ごはんどうする? ごはん」

 夜八時、五分前。大学病院の調剤薬局事務員として働く自分の母が、日曜はどんなに遅くとも大河ドラマが始まる前に必ず帰ってくる女性だと、義康は忘れてはいなかった。

「何にも用意してないや。そこのお弁当屋さん行って来ようか?」

「ああ、じゃあ私塩野菜天丼ね。今安いやつ」

 じゃあ行って来る、と、義康はサンダルを突っかけて、母と入れ替わりに家を出る。

 何となく、本当にただ何となくだが気が引けて、母が帰ってくる前に姉との電話を終わらせておいた自分の選択は、決して不正解ではないだろうと、その時の義康は思っていた。


「中古の社用車にねえ。区役所くらいしか充電できるとこないじゃない。せめてルート回る先々に、もうちょっと『増やして』からにしなさいよ」

「ああ、千歳飴のね。そう、それは……あ、じゃあ、ちょっと美容院から電話かけさすから待ってて……いいから待ってなさいってば、ね?」

「だーめ。天下の往来でそんなもの乗らすような事すんじゃないの。もっとスポーティな感じでそれ楽しめるとこなんか、いくらでもあんでしょ……だから、だーめ」

「ああ、今の時間だったら『あざみ食堂』行きなさいよ、横浜音大の教授がいるから。そう、ヒゲでハゲの」

 トーストを食べ終えた朝から、午後一時になろうとしている今この時まで、姉は片時もそのケータイを手離す事は無かった。ケータイ本体からぶら下がったあの黒いチェーンは、姉の右ひじ辺りでずっと、重そうにじゃらじゃらと揺れている。

「右耳にタコでも出来そうだね、姉さん」

 通話を終えた隙に義康がそう言うと、姉はふうとひと息付きながら小さく苦笑する。

「そのフリがまさにそうよ。誰に会っても大体言われるわね、それ」

 ケータイを開いたままデスクにことりと置き、右耳周りの髪を整える。そうしたところで再びケータイは鳴り、嫌な顔ひとつ見せない姉の手が、条件反射的にそれを取り上げる。

 姉は通話相手が誰なのか、何の電話なのかをいちいち教えてくれず、義康は姉と通話相手の会話と、目まぐるしく変わるディスプレイの表示物とを必死で追いかけながら、一体姉が何者と、どんな仕事をしているのか、ただ想像し推測する事しか出来なかった。

 名も知らない薬剤メーカーからの電話にやけに親しげに応えたかと思えば、明らかに業界最大手の玩具メーカーから来ている問い合わせを、仏頂面で手短にあしらって見せる。おそらく『ハートキャッツ江戸屋』の顧客層は、そして即ち姉の顔とは、途方も無く広いものなのだろう。義康はそうとだけは感じ取っていた。

 今の電話って何、どういう事? と義康は何度か姉に訊ねてみたが、姉は決まって「んー」と小首をかしげるだけで、何も教えてはくれなかった。彼女が口を開く前に次の電話が来てしまう事も教えてもらえない理由のひとつだったが、姉がただ説明を面倒くさがっているようにも見えた。

 結局、姉の横に待機するようになって四日目で、義康は彼女から答を聞くことを半ば諦め、その分観察と推測に意識を注ぐ事にした。しばらくはそうしていろと、姉自身が言った事ではあった。それでも義康の心中から、小さく悩み焦る気持ちは消えなかった。

 今の義康に姉が頼む作業は、時折砂糖抜きのカフェオレをインスタントで入れる事と、姉が中座している間の着信に、黙って保留ボタンを押す事くらいだった。

「やれやれよね。みんなもうちょっとしっかりググればいいのに」

 午後一時。姉の昼休みが始まる時間だ。正午をわざわざ避けているのは、昼休みにかけてくる上客が多いからだと、義康は聞いていた。

「え、それ言っちゃったら、姉さんの仕事無くなっちゃうんじゃないの?」

 言い返した義康に、姉は「んー」と首をかしげてから、

「確かに稼ぎマージン半分くらいにはなっちゃうかもだけど。ぶっちゃけそのくらいで丁度良いわ。というか実際何度か、そんくらいググんなさいよって言った事もあるわね」

 と、平然と言ってのける。軽く言葉を失った義康を尻目に、姉はパソコンをスリープにし、床にひっくり返っていたスリッパを足でつまんで直し、椅子から降りる。細いウエストを握り拳でぽんぽんと叩きながら、背筋をくっと伸ばす仕種しぐさを、何となく義康はじっと眺めてしまう。

「大丈夫よ、冗談わかってくれる相手にしか言わないし……あ、今日はお昼、ちょっと出てくるから」

 両肩をぐりぐりと回しながら、姉は義康に向かって、追い払うように手をしっしっと振る。はっと気付いた義康はそそくさと退室し、ドアを閉める。姉がスウェットのままでランチに出るような人で無かった事に、何故か僅かに安堵を覚える。

 耳に届いた衣擦れの音を誤魔化すかのように、義康はキッチンへ移る。義康が来るまで姉は一人でここに暮らしていたと聞いていたが、それにしてはやたらに大きい冷蔵庫だと思った。テレビコマーシャルで見るような、ファミリー向けの両開きのそれ。買い置きしてあった冷凍のパスタやチャーハンを目の前に、義康は冷凍室の引き出しを開け放したまま、ぼんやりと考えにふける。姉は料理をする人でも、夜毎晩酌に明け暮れるような人でもないのに。

「悪いけど、お昼適当に済ませてね……あ、ほら。あんまり開けっ放しにしない」

 いつの間にか着替えを終えた姉が、義康の背中に声をかける。慌ててたらこパスタを取り出して冷凍室を閉じ、玄関へ向かう姉の背を見送る。紺のレディスチノに栗色のジャケット。以前山手駅へ迎えに来てもらった時にも、そういえば同じ格好だったような。そんな記憶が義康の頭をかすめる。

 タウンシューズを突っかけながら、シューズボックスに置いた鏡の前でちょいちょいと髪を正した姉は、

「あ、電話鳴ったら出てね。パソコン使っていいから」

 さらりとそんな言葉を義康に投げ放して、外へ出た。

 一瞬、それがどんな意味を持つ言葉なのか、義康は量り損ねてきょとんとする。電話出てね、だって?

「え、うそ。ケータイ持ってかないの? ちょっと、姉さん!」

 慌てて引きとめようと伸ばした義康の手は、閉じ始めたドアにごんとぶつかる。慌ててそれを押し退けると、思い出したように立ち止まってくるりと振り返った姉が見えた。さすがに思いとどまったのかと、義康が一瞬安堵した直後、

「あ、ねえ! そのケータイ畳まないでね。関節んトコがアレんなってて、一発でダメになるから!」

 助言だか警告だかも義康にはわからないそんな言葉を残して、エレベーターホールへ小走りに消えていった。

 姉の背中と室内とを二度ほど交互に見比べた後、義康は仕方なくドアを閉じる。そして、ばたばたとキッチンへ戻ってパスタをレンジに放り込み、素早く500W6分半を設定してから、姉の部屋へと飛び込んだ。


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