マー・フィーの法子さん

トオノキョウジ

1-1

 彼女のバタートーストがカーペットを汚す確率は、ゼロだ。

 ふんわり焼けた四つ切トーストを容赦なく半分に畳んで丸め、ホットドッグか何かのように端からかぶりつき、もきゅもきゅと口に押し込む。毎朝彼女のトーストを用意する義康よしやすの目の前で、彼の姉はいつだってそうするからだ。書斎窓際のOAチェアにスウェットのままの細身を預け、そもそも洗濯の手間を嫌ってフローリングそのままにしてある床すれすれに、スリッパの足をぶらぶらさせながら。

「もう一枚焼いてる?」

 姉は弟にしれっと催促する。トーストを乗せて運んできた皿を義康が引っ込める間も無く、だ。寝起きで渇いたままの義康の口から、あくびの混じった溜息が洩れる。

「焼いてるよ? 焼いてるけどさ、せめてもうちょっと味わうとかしないの?」

「やだ、味わってるわよ。部屋で待ってるだけで食パンが勝手にトーストになって手元に届くなんて、こんなに美味しいモノ無いじゃない」

 勝手になってるわけじゃないってのに。などと心の内でツッコむのにも、義康はそろそろ飽きていた。もう姉さんと何度かしているやりとりで、彼女はボケでもすっとぼけでもなく心底そう思っている事に、とうに気づいていたからだ。

 横浜は錦町にしきちょうのはずれ。バブルの名残ほのかに香る、少し古めの賃貸マンション。本牧埠頭ほんもくふとうの倉庫街を足元に臨む、十九階の〇〇七号室。この朝二枚目のトーストが、古風なトースターからやけに元気良く飛び出したあたりで、PCデスクに開きっぱなしで転がっていた彼女のケータイ電話が鳴る。

「ちょっと早すぎんじゃないの、鷹幡たかはたさん。まだ開店前よ」

 通話が始まるなり、彼女は不機嫌そうに文句を垂れる。ただし、ワンコール鳴り終える前に受話ボタンを押したその素早さと、ノンフレームグラスの奥でインディゴ・ブルーの瞳に宿す薄い微笑み。それらに嘘はきっと無いのだと、義康は姉を見て思う。

「がはっはー! わっりぃねぇ、法子のりこさん! 昼の放送までにちょっと聞いとかないといけない事思い出しちゃってさあ!」

「はいはい、わかったから何なの。無駄話だってタダじゃないのよ?」

 ケータイの向こうから聞こえてくるのは、悪びれ皆無の笑いが混じった、豪快な男の話し声。さらりとあしらう彼女の髪は、アイスティのようなブラウンのショートボブに、少し長めの姫カット。右こめかみにヘアピンを留めて耳をいつも出しているのは、きっと電話がしやすいからだろうと、義康は勝手に解釈している。

「わかってるって! 例の『まごナビ』サービス、今日から動かしていいんだよね?」

「ああ、それね。大丈夫よ、むしろ早く働かしとかないと面目立たないでしょ、一応公務員なんだし」

 やけに古い型のケータイ電話。丸みを帯びた白いボディは、アンテナを手で引っ張って伸ばすタイプの折り畳み式。今となってはそのメーカーもキャリアも既に存在しない、ほとんど化石の様なモデル。確か、メールにようやく写真が添付できるようになった頃のものではなかったかと、義康は思い出す。

 そしていつも義康の目を惹くのは、ストラップの代わりにつながっているガンメタルブラックの鎖。サイフやカギをぶら下げるようなファッショナブルな物よりも、一回り以上も太くて長い。

「ああ、おっしゃるとおりですわ! 了解了解、そう伝えておくよ」

「はいはい、じゃあまたね。毎度」

 お得意様とのやりとりらしく、横で聞いているだけでは何のことかもわからない彼女達の通話は、ただの数十秒でぷつりと終わった。キッチンに戻った義康は、トースターから熱々のパンをつまみ上げ、チューブ式のバターをくねくねと塗りたくり、バターナイフで平らに伸ばす。

「姉さん、今の何? 『まごナビ』って」

「『孫の手をわずらわせる事無く老人同士でがんばろうナビ』だってさ」

 姉の部屋とキッチンとの境を挟んで返って来た解答に、義康は耳を疑う。長い、そして妙に寂しさ漂うその正式名称。

「基本は簡易操作型のシニア向けスマートフォンだけど、端末の遠隔操作が可能なアプリケーションがプリインストールされてるの。画面のデカいボタンを押すと、シニア人材で構成されたコールセンターにヘルプ要求が届いて、スマホ操作のお手伝いやら公共機関サービスのご案内なんかを、オンライン上で受けられるわけ」

「ああ、それで公務員……っと、わっ!」

 姉の口からすらすらと淀み無く施されるその解説に、義康は少し気を取られた。部屋の境をまたいだあたりで、持っていた皿が傾いているのに気づかず、トーストがずるりとはみ出し落ちる。と。


 ひゅん。


 風切り音と共に閃く、姉の手元。重力通りに落下するはずだった二枚目のバタートーストは、見えない何かに弾かれて、ぽん、と再び浮き上がり、義康の皿にふわりと戻る。

 続いてぱしり、と鳴ったのは姉の左手。右手のケータイから伸びた鎖の先端が、いつの間にかそこにしっかりと収まっていた。台無しにしかけたトーストを救ったのは、すかさず姉が放った鎖の一撃だったのだ。

「うわ、ご、ごめん」

 義康の口をついて出た謝罪の言葉を、姉は事も無げに笑って受け取る。

 船の錨鎖びょうさに使われる鋳鋼ちゅうこう製のリング三つに対し、工業用高弾性ゴム製のリング一つの割合で組まれたそのチェーンは、重くて強く、そしてよく伸びるという。父から護身用に譲り受けたと姉は言うが、こうも使い慣れるまでに果たしてどんな過程があったのかと、義康は常日頃から疑問に思っている。

 ケータイを再びデスクに置き、おかわりの手を彼に向けて伸ばしたところで、再び鳴り出す着信音。伸ばした手は再びくるりとケータイを拾い上げる。きっちりとワンコールで止まる、飾り気の無い単音ビープ。

「ねえちょっと鷹幡さん、わざとなの? 私まだ朝ごはんの途中なんだけど」

「がはっはー! 社会は常に三十分前行動、もうちょっと早く起きたほうがいいよ、法子さん!」

 陽気で逞しい男の声。先ほどと同じ相手だと、義康にもすぐにわかった。朝八時五十二分。世間様相手に九時開店の看板を掲げるなら、彼の言う事も一理あるかもと、義康はひとり小さく頷いた。

「ねえ、もう一枚焼いてる?」

 リビングの時計が九時になった所で、今日二本目の電話は終わったようだ。冷めてしまったトーストを丸めながら、姉は三枚目のトーストを要求してきたのだ。ちょうどいい塩梅にバターを塗り終えた自分の分のトーストに、まさに義康がかぶりつこうとしたその時にだ。

「焼いてないよ? そんな味わいもせず詰め込むんだったら、そもそももう焼かないで食べてればいいんじゃないの?」

「何言ってんのよ。ヨシくんのトーストが美味しいから、冷めないうちに一気に食べてるんじゃない」

 当然じゃない、とでも言いたげな姉の顔。どうだか、と返す義康に、さらに真面目な顔であのね、と続ける姉。

「美味しいものを食べようとする時ほど、そこに電話がかかってくる確率は高くなるの。それが美味しければ美味しいものであるほど、その電話が長くなる確率が上がる。つまり、今鷹幡さんと長電話になったってことは、このトーストは美味しいってことよ」

「……その帰納法はちょっと無理があると思うよ」

 姉はぺろっと舌を見せて笑う。そして、義康の手から受け取った三枚目のトーストを、やはりぺたんと二つ折りにする。

 ビジネスマッチングサービス『ハートキャッツ江戸屋えどや』。その二代目、江戸屋法子えどやのりこ。義康の姉である彼女が、この春からの彼の同居人であり、上司だ。

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