第2話 孔明先生の誕生

 地元の人の協力により、諸葛家が誕生してから時代は流れ、前漢から新を経て後漢となった光和四年(一八一年酉年)。


 後漢王朝最後の皇帝(献帝)が生まれたこの年、瑯琊郡ろうやぐん陽都県内を一頭の駿馬が電光石火の如く疾駆しっくしていた。

 馬上の人は、諸葛豊の末裔まつえいで太山群の群丞ぐんじょう(副知事)である諸葛珪(字は君貢)。

 馬はまるで、矢のように疾走していたが、珪にはいつも以上に馬足が遅く感じられ、むちを入れずにはいられなかった。

 眉をひそめ、目を凝らす珪の緊張感は馬にも伝わり、十分に休むことなく、走り続けていたが、流石に人馬共に疲れを隠しきれなくなり、宿で体を休めることにした。


 しかし、体に反して、珪の心は休むことを受け入れず、少しでも体力を回復させようと目を閉じても、瞼に浮かんでくるのは愛妻の姿。

 四人目の子供を身ごもり、臨月に入って一ヶ月以上が経とうというのに未だ、生まれる気配なし。

 それは不吉な出来事の前兆なのか、難産となるのか、或いは・・・・・・。


 いつもは気丈な章夫人から「帰ってきて下さい」と初めて、珪にすがるような手紙が届いてから、気が気ではなく

「こうしている間にも・・・・・・」

 体を休めると動き出す不安の影は、坂道を下る雪玉のように大きくなっては、止まることを知らずに珪を襲った。


「家に着いたら、好きなだけ食べさせてやるから。もうひと頑張り、頼むよ」

 結局、珪は居ても立ってもいられず、僅か数刻の後、再び馬上の人となって家路を急いだ。


 赴任先から家までの道程が今日ほど長く感じられたことはなかったが

「兄さん!」

 星空が退散し始めた頃、珪はようやく家の門を潜った。

「玄!」

 乾いた唇で、弟の名を呼びながら

「大事は、なかったか」

 玄の目がひどく充血していることに、珪は一瞬戸惑ったものの、沸き上がってくる悪い予感を避けるように、敢えて、玄の瞳を真っ直ぐ視つめた。


黎明れいめいの時分には、生まれるようですよ。子供たちは待ちきれずに寝てしまいましたが」

 子供たち、とは長男の諸葛瑾と二人の姉妹のことだった。

あねうえも大丈夫ですよ、ご安心ください」

 玄は仕事を終えると毎日のように、母子の様子を見に来てくれている、と章夫人から聞いていたが、思いの外、玄の疲労感がはなはだしいのを見て、ここ数日、夜もろくに眠らずに夫人や子供たちの面倒を見てくれていたからなのだと察した。

「ありがとう、玄」

 

 珪が砂塵さじんと汗にまみれた衣を替えて人心地着いた頃には、朝日が昇り始めていた。


 と、その時―

 

「生まれました! 男の子です! 母子共に健康です!」

 夜明け前の静寂を破る、元気な赤ん坊の声が家中にとどろいた。


「ぉお! 聴いたか、玄!」

 珪は感謝と喜びを込めて、玄の手を強く握り

「兄上、おめでとうございます!」

 眠さも疲れも忘れて喜び合っていると、三人の子供たちも起きてきたので

「弟が生まれたぞ!」

 珪は、長男のきんをも歓喜の渦に巻き込もうとしたが

「それで、名は?」

 冷静で穏やかな瑾は、興奮する珪に落ち着きと、弟の名を求めた。

「名?」

 この時になって、珪はやっと気付いたのだった。

 夫人の体を心配する余り、生まれてくる子の名を考えていなかったことに!


 それでも珪は家長としての威厳を保ちながらおごそかに口を開いた。

「よく聴け。姓は、諸葛」

 玄も、子供たちも笑顔を漏らしてうなずきながら、次の一言を待った。

「名は―」


 珪がゆっくりと、しかし心中、密かにあせりながら、天に問うように外を見ると、暁の空はまるで、漆黒の闇夜にあなけてひかり燦爛さんらんと降り注いでいるかのようであった。


「名は、亮。字は、孔明」


 誰が言うでもなく、自然と異口同音に発せられた

諸葛しょかつりょう孔明こうめい

 その名は、諸葛家に大きく響いて、玄妙な雰囲気をかもし出していた。

 時に西暦一八一年、酉年、七月二十三日のことだった。


 そしてそれは、「諸葛」と言って思い浮かべる人物が、諸葛豊から子孫に世代交代した瞬間でもあった。

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