行き場のない母性

水の

行き場のない母性

娘と同じ学校に通う「〇〇 ま沙み」と名札に書かれている男の子が、うちで朝食と夕食を食べるようになってから随分経った。まさみは朝6時ごろにランドセルを持ってうちに来て朝食を食べる。娘と一緒に登校し、授業を終えたら、2人でうちに帰ってくる。家で絵を描いたりゲームをしたり、2人で近所へ出かけたりして遊び、暗くなり夫が帰ってきたら、2人も夕食の準備を手伝い、4人で食卓を囲む。風呂に入り、歯磨きを終えたら、うちから歩いて2分の古い集合住宅の6階に戻る。いつも23時から0時ごろに夫が送り届けているが、私は彼の両親に最近会っていない。両親は息子にかまっていられない事情があるらしい。苦情もお礼もない。全く音沙汰なしだ。


4人で朝食を食べている時、娘が学校の宿題で出された作文のテーマ「しょうらいのゆめ」について話していた。将来何がしたいか、誰になりたいか、こどもたちが真剣な顔で話している。大人の発想にはないこどもたちの夢の話につい目尻が下がる。ふ、と、お兄ちゃんがおとなになって何者かになった時、私はそれを見届けることができないかもしれない。私の子ではないこの子をいつか突然手放す覚悟しなければならない。そんな現実が心に押し寄せて嗚咽を漏らす。こどもたちに適当な言い訳をして別室で膝と手をついて泣いた。


夕食後、きゃあきゃあと楽しそうにしているこどもたちを眺めながら、どうにかなるべくながい時間わたしたち4人が一緒に居られるは方法がないものかを思案する。そういえば、この子の両親に私からも声をかけていない。話をするべきだろうか。それとも先に学校に相談するべきだろうか。このまま黙っているとどの問題がおこるだろうか。お兄ちゃんが私の顔を覗き込む。私は彼の肩を撫でながら、「まさみ…きみは、まさみという名前があったね。お兄ちゃんと呼ばれることに我慢してない?」わたしは娘の付属品のような感覚で彼と接していた。まさみの漢字が分からない。もちろん由来も知らない。彼を個人として接していなかったのではないか。食事と清潔な下着を提供しただけで、何もできていない。まさみは困ったような笑顔で「お兄ちゃんがいい。名前、好きじゃないから」と言った。また私は泣いてしまった。私は彼の心の悲しみを、何も理解できていない。

彼は私の手をとって「ぼくね、もうちゃんとわかったから大丈夫だよ」と言った。お兄ちゃんの手のひらは綿みたいに柔らかい。ずしんと身体が重たくなる。

「大丈夫だよ」

叫びたくなったけれど声が出ない。目を覚ます。寝室の布団の上だった。隣で3歳の娘が寝汗をかいていた。私な記憶からお兄ちゃんが消えていくのが悲しくてこれを書いた。

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行き場のない母性 水の @mizunomidorii

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