三.

「女性が眉間にそう皺を寄せる物ではないぞ、マハラニ」

 手渡した書簡を鼻先まで寄せて読むラクシュミーを見て、ローズは苦笑した。

「冗談を言っているつもりならおやめ下さい、サー・ローズ」

 ローズを振り返り、眉を潜めてぎろりと睨むラクシュミー。連戦の疲れからかその瞳は血走り、そして声はあからさまに苛立たしげだった。これは失礼、とローズは笑みを引っ込める。

 ラクシュミー逃亡より一ヵ月の後。カールビー城の会談室の片隅に、彼女とローズの二人はいた。

 幾多の民族が集い肥大化した反乱軍は、一時はイギリス軍に対して攻勢を保っていた。だがシパーヒー達がインド独立の象徴として擁立したムガル皇帝は、時を同じくしてシパーヒー達が自ら主導となるべく打ち立てた政治合議体『行政会議』と対立する事になる。さらには皇帝とその側近の関係の悪化、シパーヒー出身の総司令官バフト・ハーンの合流による内部分裂の複雑化により、指揮系統は乱れ、士気は落ちていった。

 四ヶ月に亘る攻防戦の後、王都デリーは陥落。アワド旧首都ラクナウやシャーアバードを始めとする各拠点の反乱軍も必死の抵抗を続けていたが、イギリス軍は順次これを鎮圧。ここカールビー城に集まった各拠点の指導者達は劣勢を案じ、何度かイギリス軍指揮官であるローズを迎えて終戦の落とし所を探る会談の場を密かに設けていたのだ。

「サー・ローズ、何故貴方は私にこうむやみに近づくのです。行政会議の連中にしたように、私を懐柔して、楽に戦いを終わらせようとでもお考えか」

 ラクシュミーはそう言い、ローズに書簡を突き返す。憤慨の色を隠そうともしない彼女の瞳を、ローズは黙って受け止める。ローズが彼女に読ませたのは、イギリス本国から受け取った密書だった。

 ローズを始めとするイギリス軍及び東インド会社上層部に命ぜられたのは、この反乱戦争に勝利した後イギリス王政による直接支配へと移行する為の、反乱軍上層部を形作る王族他有力者達への根回しをする事だった。ムガル皇帝以下反乱軍の軸となってきた者を廃し、懐柔に応じた貴族層に地域の統治権を与える事で、新たな反乱を未然に防ぐ。ローズは本国のこの意図を反乱軍指導者達にちらつかせる事で、懐柔に応じる者の炙り出しを図っていた。

「人死には少ないに越した事はないだろう、その意味では否定すまい。増して貴女の様に才気と人望に溢れた英傑を殺すなど、無闇にするべきではないと私は考えている」

 ローズは返された書簡を折りたたみ、胸のポケットへしまう。嘘はついていない。今日を含めた何度かの会談の中で、ローズはラクシュミーの聡明さと民への慮りの厚さを直接目にする事ができた。そして、イギリスへの擦り寄りを始めた反乱軍指導者達の中で、戦い抜く事を主張する彼女が孤立していく現状も。

 会談を終えたこの部屋から、ローズとラクシュミー以外の人間は既に退席していた。ローズはラクシュミーとひとつ席を挟み、自分も腰掛ける。

「思うに、既に東インド会社は役目を終えている。香辛料の貿易に始まった両国の繋がりは、今や互いに文化と法を熟知し尊重し合わなければ成り立たないものになって久しい。これからさらに互いの国が発展する為には、国家と国家が直接向き合い、歩み寄らなければならない」

 興奮の収まらないラクシュミーと対峙し、ローズは己の考えを語り始める。それは会談の中で、他の者の前では口にしなかった、彼自身の思惑だった。

「その為に、インドの民の総意を知る王たる者がいるべきだ。ムガル皇帝に器があればそれも良かったのだが、今ならばそう、たとえば貴女の様な」

「イギリスは女性を王に立てる国と聞きますが、まさか私にそうなれとでも? 貴方のその理想や綺麗言が悪いものとは思いませんが、大軍にこの城を囲ませ睨みを利かせながら言うような事では無いでしょう」

 深く皺の刻まれた手のひらを振るって真剣に語るローズ。だが言葉を重ねるたびに熱を帯び芝居がかるその口調に、ラクシュミーは目を伏せ、ごく僅かふっと笑う。

「貴方自身もうお気づきでしょう、ローズ卿。総指揮官と言えどただの軍人。互いの文化を誇りを尊重した対等の交流など所詮夢物語に過ぎず、武力によるインド併合と支配の波はもう止められはしないと」

 薄い、だが確かな悲しさに満ちたラクシュミーの笑み。ローズは息を飲み、視線を逸らす。なるほど、とうに見透かされているのだろう。自分がただ彼女一人を救いたい、それだけの理由で、到底叶うと思えない絵空事を並べ立てている事に。

 紳士的な敵将が肩を落とすのを、ラクシュミーは見た。だがその指摘の言葉に彼女自身もまた、絶望的な現実を再認識させられた。イギリスとの戦争になった場合、インドに勝利の未来は無い。そもそもそう気付いていたからこそ、彼女は争いを避ける為にジャーンスィーとイギリスの間を奔走していたのだ。必死に英語を学び、イギリス王室宛の嘆願書を何度も使者に託した。

 だがその行動は結果として、ジャーンスィーがイギリスに危険視されるきっかけとなり、粛清の口実を作ってしまった。ラクシュミーが自ら前線に立ち民兵を率いて戦うのは、争いを招き国を戦火に曝してしまった事への、せめてもの償いの為でもあったのだ。

「この私とて、己の綺麗言を貫く為に戦っていると言われてしまえば、否定はできません。引き際を見失っているように見えるかもしれない。だが我らが民にあなた方が銃を向け、力と恐怖で虐げようとする限り、私は最後まで抗うでしょう」

 しかし、とローズは言いかけて止める。既に彼女に欺きの言葉など通用しない。たとえそれが、彼女の命を案じ、彼女の身を救う為のものであっても。ローズは彼女の揺ぎ無い決意を悟っていた。

 沈黙。それでは、とラクシュミーは疲れた様子で席を立つ。潮時かとローズも椅子から腰を浮かせた時、彼はふと思い出し、彼女を呼び止めた。もう一つ、彼女に見せるべき物を持って来ていたのだ。

「これは、一体?」

 ローズは赤い軍服の胸のあたりから、何かをかちりと取り外しラクシュミーに手渡した。彼女はそれを、ごてごてと彼の上半身を飾る勲章の一つかと思ったが、違った。

 質素な銀色の金属で出来ている、二つの輪と円盤上のガラスが連なった、不思議な形をした物だった。

「貴女は読み物をしているといつもしかめっ面をするから、ひょっとしたら目が悪いのではないかと思ってね。きっと勉強熱心のせいなのだろうが」

 ローズの渡したそれは眼鏡だった。耳にかける弦は無くブリッジを鼻筋に挟んで固定する、所謂鼻眼鏡。ローズは親指と人差し指で自分の鼻をつまむ仕種を見せて、こう使うものだとラクシュミーに教える。

「その、昔知人が使っていたものなのだが、その人も本を読む時には貴女と同じ顔をしたものでね。都合よく度合いが合えばいいのだが」

 ラクシュミーは言われるまま、眼鏡を鼻に乗せようと試みる。しばらく焦点が合わせられず涙が出そうになったが、少し眼窩の骨に押し付ける程度の場所に置いて固定すると、途端に曇っていた視界がさっと開けた。彼女はレンズ越しに、何となくローズが気恥ずかしげにしている様に見えた。

 ラクシュミーは鮮烈な驚きに溜息を漏らす。自分の近眼が進んでいた事と、それがこうもあっさりと回復してしまう事にだ。目の前で初老の紳士が、やや上目遣いで彼女の様子を伺っている。初めてはっきりと目にした敵将の顔に、彼女は素直な感想を口にした。

「もっと険しいお顔をした方かと思っていましたよ、サー・ローズ」

「度合いが目に宜しくないなら返していただくよ、マハラニ」

 ラクシュミーは黙って首を横に振った。眼鏡のブリッジはよく安定していて、頭を動かすにも苦は無かった。差し伸べられた救いの手を取る事の出来ない彼女は、せめてその心遣いを喜んで受け取る事にした。

 仕えるべき祖国を別ち、明日にも銃口を向け合うやも知れぬ男と女だった。だが確かにその時だけは、共に微笑み合う事が出来たのだ。

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