二.

 1854年、ジャーンスィー国王ガンガーダル・ラーオ死亡。

 王とラクシュミーの間に生まれた第一子は既に亡く、後継者のいない小国であったジャーンスィーはイギリス東インド会社に併合され、国家としての形を消した。

 シパーヒー、いわゆるセポイの乱に発端するインド大反乱、またの名を第一次インド独立戦争とするその大戦は、国家無き流浪の身となっていたジャーンスィーの民達に荒ぶる炎を灯した。シパーヒーと結託し武装蜂起した民衆は、駐留していたイギリス兵を退け、接収されていたジャーンスィー王城奪還に一時は成功する。

 身を潜めていたラクシュミーはジャーンスィーの民に強く推され、義勇軍の先頭に立つ。文武と美貌を備えた悲運の王妃は、多民族が成した義勇軍を束ねるに相応しい、独立戦争の為に掲げられた偶像であった。

 彼女の名は英国軍陣中にもすぐに広まった。王城を、そして彼女を守るジャーンスィー民兵達は苛烈な抵抗を続け、物量で勝るイギリス正規兵達に手痛い被害を負わせた。

 イギリス軍指揮官ローズ少将は、彼女の名を聞くたびに興味を強く持った。聞けば未だ二十そこそこの若き未亡人が、自らライフルとサーベルを手に最前線に立ち戦っているという。ラクシュミー・バーイー。この国に息づく教えにある美と幸福の女神が、彼女と名を同じくするとも聞く。あながちそれも出鱈目でも無いという事か。芳しくない自軍の戦果を耳にする度、ローズは心中にやりと笑っていた。小気味良いその活躍を、是非自身の目で直接確かめてみたいとも。


「相当に必死だったようだな、どちらも」

 ジャーンスィー王城陥落と敵将捕縛の報せを受け、ローズは自ら前線に赴き、感じたそのままを呟いた。

 白磁のような白い壁と天井を、赤黒い血染め文様が無遠慮に飾る。王城内はそこかしこに両軍の物言わぬ躯が伏し、血と硝煙の咽返るような匂いに満ちていた。

 城内を埋める死体の大半が反乱軍側、シパーヒーやジャーンスィーの民兵だった。勿論、自軍の被害も決して小さくは無いようだ。目に見える死者の数こそ少ないものの、陣へ戻った兵の大半は刀傷や銃創に呻き苦しんでいる。

「突入の際に待ち受けていた連中の反撃が、思いの外強烈でして……」

 サーベルを手にし周囲を警戒しながら、護衛の一人が苦々しげに伝える。

「セポイ共があの銃を嫌ってくれたのは救いだな、皮肉な事だが」

 べっとりと血のこびり付いた死体の損壊部を目にしたローズは、その余りの痛々しさに眉を潜める。反乱軍の死体の殆どは、身体の部位が引き千切られたかのように欠損する等の大きな傷を残し、無残に転がっていた。傷はほぼ全て、イギリス陸軍猟兵の狙撃による銃創だった。

 近代兵器、中でもイギリス軍に新たに制式採用された新型エンフィールド小銃は、各地の反乱軍相手にその威力を見せ付けていた。射程と命中精度、そして螺旋状の溝が刻まれ複雑に回転しながら人体を抉る新式ミニエー弾丸が、恐るべき殺傷力を実現した。兵器としてのあらゆる性能が、未だ反乱軍の主力兵器となっている旧式銃を圧倒的に凌駕しているのだ。戦の傷に貴賎などある筈も無いが、あの死に方はしたくないものだとローズはつくづく思う。

 まさかラクシュミーとやらも、この弾丸に抉られ無様に死んではいないだろうか。血と腐臭を吸わぬ様小さくため息をついた時、城壁の外から銃声が響く。件のあの銃に間違いなかった。

 自身もサーベルを抜き、護衛と共にローズは駆け出す。降伏を受け入れた数十人の捕虜を除き、この城の兵力は完全に陥としたと報告を受けていたが、未だ小競り合いが続いているのだろうか。

 大広間の裏手、小間使いが使うような細い裏口へ速度を落とさず走るローズ達。剣戟の気配が近い事に気付き、足を止め素早く壁に身を寄せる。いた。最初の一目で何者か、わからぬ筈も無かった。褐色の肌に纏った白いブラウスを血に浸し、銃剣を手にした戦列歩兵数人を相手に臆せず剣を舞わす、美しいその女性。

「あれです! あれがこの城を守っていた敵将の」

「言わずとも解る……よこせ」

 護衛の言葉の続きを待たず、ローズはライフルを引っ手繰る。一発しか込められない弾丸を天へと撃ち放ち、びくりと硬直した味方とラクシュミーに向けて間髪入れず叫ぶ。

「双方止まれ、剣を引けい!」

 自軍の兵が数歩退き完全に止まったのを確かめてから、ローズは改めてラクシュミーを凝視する。彼女は確かに美しく、かの如き戦場に在って尚、最上の気品を欠片も喪ってはいない。民や傭兵が彼女を崇め、命を賭して戦う理由を、改めて目の当たりにした気分だった。

「しかし、ローズ少将! 彼奴は捕虜の身でありながら見苦しくも我々に抵抗し、味方を……」

 銃剣を収めぬまま、必死の弁明を零す戦列歩兵の一人。見れば確かに彼らは、幾らかの手傷を負わされたようだ。彼女一人に。しかも捕縛はほとんど解けておらず、不自由に繋がれた両手でその剣を振るっていた様に見えた。

 ローズは微動だに見せず構える彼女の、この絶対不利の状況に全く萎える気配の無い気迫の重圧に、ごくりと唾を飲み込む。噂に違わぬ女傑、ということか。

 ローズはライフルを傍らの護衛に押し付け、サーベルを鞘に収める。大胆不敵。戦列を為す歩兵の誰よりも前に歩み出でて、ラクシュミーと相対する。明らかに他の兵と異なるローズの振る舞いに、ラクシュミーも僅かに警戒を解いたのか、切っ先を下げる。

 ローズは僅かに微笑み、口を開く。

「大人しく投降すべきではないのか、マハラニ。貴女が命を落としたとて、喜ぶ者は少ないはずだ」

 ローズの敵将らしからぬ言葉に驚いたのか、僅かに目を見開くラクシュミー。だが彼女はすぐに、流暢な英語で言葉を返す。

「サー・ローズ。生憎ですが、私は以前東インド会社の人間に同じ事を言いました。絶対に、祖国を棄てる事は無いと」

 微細な逡巡も見せる事無く、彼女はそう言い切った。今度はローズが驚かされる番だった。その身なりからある程度はと予想していたが、まるで古典の舞台劇のようなこれ程までに丁寧で淀みの無い英語が、異国の貴人、それも若い女の唇から紡がれるとは。

 ローズは率直に誉め言葉を選び、思ったままに伝える。

「素晴らしい発音だ、余程勉強したのだろうな。貴女の様な聡明な方がこの国にもっといるなら、我々の和平は遠くない未来、確かに実現しようという物だろうに」

「私などより尊い方は、このインドの大地には幾らでもおります。ですがそんな賢人が何人いようと、おそらく私は貴方がたと戦う道を選ぶでしょう」

 彼女の気配から殺気は既に消えかけているが、臆する気配も全く無い。揺ぎ無いその眼差しと語気に射貫かれ、ローズは思わず感嘆の吐息を漏らす。余りに毅然としたその佇まいたるや、正しく威風堂々。いずれ彼女ならば、このインド全土の反乱軍を強靭な士気と絆で束ね上げ、東インド会社どころかイギリス正規陸軍ですら侮る事の出来ない、恐るべき巨大な存在と育て上げるだろう。

「そうやって血気盛んに、ジャンヌ・ダルクを気取るのも悪くは無い。だが、貴女は王族として民を率いる身であろう。見苦しくも敵陣の真ん中で、剣に頼って囚われの身から逃れようだなどと、下策にも程がある。現に私は今貴女を撃つ事も出来たのだ」

「私を撃てる時に撃つ必要があったのならば、そもそも捕虜になどするべきでは無かった。永らえるべくして生き延びたのだから、王族として私を求める民の元に帰る手段を選んだ。それだけです」

 ラクシュミーの反論は最後まで途切れる事は無かった。王城を揺らしていた戦の音は全て止み、黙したまま二人を取り囲むイギリス兵達の間に、彼女の言葉は流水の様に滑らかに通り抜けた。

 ローズは視線を逸らす事無く彼女を見つめたまま、ごく僅かの間考えに耽った。自分とは親子ほども歳の離れたラクシュミーに、何故ここまでこの心を震わされるのだろう。数多の民に称えられるその魅力の源は、気高さか、誇りか。或いは真摯な眼差しか、強い意志か。

 一足では切っ先も届かない遠巻きに、戦列歩兵達は銃剣を構え彼女を取り囲んだままだ。だが何時でもその刃を振るえるよう力を込めているべきその手は、明らかに戸惑いを覚えている。彼女の率いる兵達に、味方や戦友を少なからず傷つけられている筈なのに。兵としても個人としても憎むべき相手であって然るべき敵将に対し、兵たちは刃を向ける事を確かに躊躇っている。

 今ここで下す己の決断が、この戦争の大局に何を齎すか、考えを巡らせる事十数秒。だがローズが心を決めるのに、もはやそれ以上の時間は必要が無かった。ローズはラクシュミーから視線を外さぬまま、口を開いた。

「全員、道を開け。城内に捕らえた者を含め、反乱軍捕虜を解放しろ」

 騒然。指揮官の告げた言葉にどよめく、イギリス戦列歩兵達。眉一つ動かす事の無かったのは、当の敵将ラクシュミーただ一人のみだった。

「恩を売った心算ですか」

「元々貴女は、東インド会社と反乱軍との和解を目指して動いていたと聞く。互いの誤解があるなら、今後それを解く事に力を貸して欲しい。我々の間に貸し借りが出来るとしたら、それでご破算にしようではないか」

 疑いを拭い切れないラクシュミーの疑問に、ローズはあくまでその柔和な調子を崩さない。真意を探るようにラクシュミーはローズを暫し見つめる。自身の父親ほど歳の離れたその敵将には、恐れも、他意ある気配も微塵も見当たらなかった。今は甘んじてその慈悲を受けるべきなのだろう、ラクシュミーはようやく彼の言葉を嚥下した。血染めの乗馬ズボンの膝を折り、見張りの兵から奪ったサーベルを丁寧に足元に置く。

「頭を下げる事は出来ません。ですが、今は貴方のご慈悲に感謝を致します。ミスター・ローズ」

 ラクシュミーの語気から戦意が薄れ、兵達全てを支配していた緊張が僅かに解れる。ローズ自身も例外ではなかった。いかな誇り高き敵将であるとて、彼女の様な者が目の前で命を落とす始終など、わざわざこんなに間近で目にしたい物ではなかった。

 彼女の道を空ける様、ローズは手振りで改めて示す。兵たちの囲みが、いくらかの溜息と共にわらわらと崩れ、街道へ連なる裏門への道が開く。

「厩に残っていれば、馬も連れて行くといい。ただし代金代わりだ、行く当てだけ聞かせてもらえるかな」

 カールビー城へ。彼女はただそれだけを言い残し、くるりとローズに背を向ける。

 イギリス陸軍少将ローズ、そしてインド反乱軍ラクシュミー。この時彼らが感じていた再会の予感は、既に暗黙の約束にも等しいものだった。

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