3月の金曜日、午後3時

不自然とう汰

  3月の金曜日、午後3時


 高崎と僕は駅のホームでベンチに座っていた。地元の小さな駅だ。


 高崎はもうここには戻ってこないって。

 もうこの町にはなにもないって言う。

 確かに駅にキヨスクもないし−


 平日昼間のホームは人がいなくて、西に傾いた日差しが暖かい。


「あと三十分後か。快速が止まらないからなここは。快速が止まればなぁ、全然違うのになぁ」


 僕はどうでもいいことを大事そうに言った。しかも二回。


「中学のときのこと覚えてる?いろいろあったな」


 高崎から中学時代の話をしてくるのは意外だったよ。触れちゃいけないのかと思ってたから。

 中学校の話、してもいいんだ–


「十年前になるのか。しんどかったなぁ」


 高崎はふっと笑った。


「俺が中二のとき……あの、あいつ死んだんだろ?」



*****

 


 強い日差しを何年も浴びた色あせたカーテン。そのカーテンとは不釣り合いなよく磨かれた教室の床–


 机に椅子を入れる音が響き、生徒たちが喋りながら廊下に出てくる–


 その日の四時間目は技術の時間で移動教室だった。女子は家庭科だから家庭科室へ。僕たち男子は時間に遅れることなく、全員びしっと席に座っていたんだな。技術室に。まるで自衛隊の訓練のようにさ。


 と言うのも、技術の教師はこの学校でベスト3に選ばれる、いやワーストっていうのか?とにかく一番か二番の恐ろしい暴力教師だった。顔からしてもやばかった。二重の大きな目はつぶらではなく、鬼のお面みたいにぎょろってしているし、顔中脂ぎっている。

 

 油取り紙があったら誰でもやつのおでこを押さえたくなるね。背も無駄に高い。全身からパワーあり余っています!みたいな感じを出していた。

 そしていつもジャージを着ているんだけど、背が高いからくるぶしなんかは思いっきり出ちゃってますって感じ。


 そんなことはまあいい。いきなりだった。僕は一列目の席で(出席番号順に前から座るからなんだ。僕は河井って名前なんだけど、悲惨にも先生の真正面だった)なので何が起こったか全然わからなかった。


「立て!出て行け!」


 ドスの聞いた声が技術室に響き渡った。何をしたんだろう?さっと振り返ったけど、高崎の机の上には教科書、ノート、鉛筆と筆箱が普通にあるだけ。多分おしゃべりかなんかだろうって思った。

 技術の先生は名前は清原っていうんだけど、そいつは高崎を見下ろしていて、高崎はじっと俯いていた。あいつに見下ろされたら俯くしかないだろうな。本当に鬼の形相だから。

 そして清原は出て行けってまた大声を出した。もちろん出て行けるはずがないんだ。それをわかっていて言っているんだ。


 他の中学校なんかじゃ本当に出て行っちゃうし、最近じゃ授業中でもふらふらとトイレに行っちゃう学校があるって知って、本当に驚いた。うちじゃありえない。そんなことしたら本当にまずかったんだ。

 しまいに清原は高崎の胸倉を掴んで立たせた。人形みたいに力が入らない高崎は、体重が十キロしかないように簡単に持ち上がってみえた。


「出て行け」


 ものすごく低い声で言って、高崎の制服をぶんぶんと揺さぶっていた。


「聞こえてるだろ~!ああ?!」


 見ていられなかった。といっても僕はもちろん凝視していた。教室にいる全員が釘付けになって二人を見ていたんだ。


「出て行けっていってんだよ~!」


 清原はそう言って制服から手を放した。高崎はふらっとしながらも、椅子に手をついて冷静に座ろうとした。そうしたら襟首をぐいっと掴まれて、また清原は高崎を立たせた。


「出て行けって聞こえなかったか?」


 高崎が固まっている。僕らも固まっている。

 教室は静まりかえっていた。移動教室ってところは結構広くて、たいてい薄暗い角にあるんだ。いつもうすら寒くて、もうそのときの冷えかたときたら北極にいるみたいだった。

 僕はそこまで言われたら出て行ってもいいんじゃないかって思った。今回ばかりは出て行っても怒られないって思った。

 多分、僕以外の生徒全員もそう思ったはずだ。出て行けと言われ、出て行くような生徒は当時のうちの学校にはいない。特にうちの学年には絶対にいないし、それを許す教師も一人もいない。出て行けって言ってもそれは「そんなわからず屋は家から出て行きなさい!」って親が子供に言うあれだ。


 でもあのときの清原の怒鳴りかたは、本当に出て行っちまえと言っているとしか思えなかった。だから生徒全員、高崎のやついい加減に出て行っていいよって気持になった。

「出て行け」ってもう一度、清原は言った。


 ろくでなしなやつが怒られるならともかく、高崎は真面目なやつで、先生に目をつけられるような生徒ではない。だからものすごく嫌な気分だった。


「聞こえてるかあ~?ああ?!出て行けと言ったんだ!」


 あのバカ清原はまた言った。バカにしたような言い方。

 高崎は首をあげて、初めて清原の正面を見つめた。決めましたって顔だった。睨みつけている感じではなかった。よく見えなかったけど、そういうやつじゃないから。そしてやつは踵を返して扉に歩いて行った。


 僕は嬉しかった。ガッツポーズをしたくなった。そうだ高崎!出て行っちまえ!皆絶対そう思ったんだ。そしてみんなドキドキしながら入口の扉を見つめていた。高崎が扉に手をかけたその時―



「出て行くやつがあるかー!」


 高崎はものすごい衝撃で壁に叩きつけられた。みんな叫んだよ、もちろん心の中で。


 えー!って大絶叫。高崎は拳でぶん殴られていたんだ。僕の横の生徒もあんぐり口をあけている。あれには僕もぶっ倒れそうだった。これがお笑い番組だったら笑えるかもしれないけど、あの場では笑えない。


 倒れてうずくまっている高崎を、清原は胸倉をつかんで起こして、もう一度拳で殴った。ゴンと鈍い音がした。顔をかばって床に倒れたやつの頭を今度は靴で踏みつけた。次に足で肩や背中、腹とか脚とか、清原は容赦なく蹴っ飛ばし始めた。少しは手を抜いて蹴っているのはわかる。当たり前だ。もしあのデカイ鬼に本気でぼこぼこにされたら救急車で即入院。

 っていうか、あのくそったれが病院に入院するべきだと本気で思った。


 高崎は蹴られるがままになっていた。二十分くらいに感じたけど、多分五分くらいだったんだろうな。

 でもあのときはこれが永遠に続くように感じたよ。このままずっと―


 清原のバカは高崎をぼこぼこに殴ったり蹴ったりして、その後椅子に座らせた。もちろんその後は誰一人、授業に集中することなんかできなかった。誰よりも清原が一番高ぶっていた。あいつは何ページをノートに書いておけとか怒鳴って、授業を放棄した。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

あの後のことはよく覚えていない。けど、ろくに字が書けなかったことはノートを見るとわかるんだ。僕の字は左手で書いたかのように、ひどく歪んで震えていたんだ。


 このとき見ていたのは男子だけなはずなんだけど、後々、女子連中がこぞって話をしていたから、あっという間に話は広がったのがわかった。


 次の時間は給食だったけど、準備中も高崎はじっと自分の席に座って動かなかった。ただじっと前を向いていた。その高崎の背中を僕はいまだに覚えている。

 あの授業のことは忘れられない。最悪な授業だった。



*****


「なあ健太、お前結婚するんだろ?」


「うん、まあね」


 勉強の嫌いな僕は、高校卒業後、進学はしないですぐ働いた。そこで彼女ができたんだ。


 線路の向こう側にある小学校の校庭から、子供たちの声が聞こえる。


「お前が結婚するなんてなあ」


「高崎、お前は?彼女とかいるの?」


「いないよ。やっと大学を卒業して……やっと働き始めたとこ。貯金もゼロ。彼女もいない…………なんにもない」


 高崎は大きなスーツケースに手をかけて立ち上がって伸びをした。

 言葉とは裏腹に高崎はなんだか穏やかな雰囲気を醸し出していた。


「俺、ずっと中学時代を恨んだよ。ほとんど暴力教師だったじゃん。健太も殴られて鼻血出したよな?」


「あー矢作に殴られたんだ、多分ね。男子は殴られてたよね。どうでもいいことで」


「うちの学年は特に酷かった。なんであんな酷い学年に当たったのかって。トラウマ過ぎて記憶に鍵閉めてた……でもさあ、最近思い出して。あいつは許せないけど、でも他の先生や学校は良かったかもって」


 僕は頷いた。


「高崎、そういや清原は癌でなくなったって」


 高崎は無表情だった。その後、数分の沈黙が続いた。


「あいつのせいで俺……俺は少し歪んだと思う。でもさ、人ってみんなそれぞれ辛いこと抱えてるんだよな。高校、大学行って楽しんだつもりだったけど、思い出すのは中学時代のことだったりして」


「あー、わかるかも。なんかみんなで廊下で正座させられて、ガスバーナーのホースで頭、引っぱたかれたのとか」


「矢作かぁ」


 二人で声を出して笑った。高崎はまた腰を下ろした。


「健太に連絡してよかったよ。なんだかお前に会いたくなったんだ」


「ありがとう、思い出してくれて……連絡するよ」


「ありがとう、でもそれはいいかな。そう言ってくれただけでもう十分。思い出はここに置いてく。なにもない駅だけど」


 高崎は少し悲しそうな顔で笑った。

 僕は、正面にある校舎を見つめた。うっすらと淡いピンク色になった木が、フェンス越しに並んでいる。


「もう小学校は下校かね」


 駅前の小学校の子供たちと先生の号令が聞こえ、温かい気持ちになった。

 高崎も前を見ながら言う。


「駅に近いこの小学校さ、俺は子供の頃憧れてたな。かっこよく思えて。俺たち山の上の学校だっただろ。でもこっちに行ったら行ったで、すごいことがあるわけじゃないし」


「うん、自分の学校じゃないとさ、よく見えたりするもんだよね」


「ああ……死んだ人は憎めないとかもよく言うけど」


 また二人とも無口になった。


「でも俺はまだ清原を恨むけどね」


 僕たちはまた笑った。苦笑いみたいな感じで。ふと、僕は思い出した。


「なぁ、無言清掃、覚えてる?」


「……あぁ、ひたすら床磨いてたよなぁ」


 僕たちは大笑いした。まるで中学校の休み時間のように。


 駅のアナウンスが聞こえた。次は快速、その次は回送列車が続けて通り過ぎるって。


 まだ各駅停車がこの駅で止まるまでは時間が少しあるみたいだ。


 この駅ではお決まりだ。

 通り過ぎる–


「健太、いいこと思い出した。今度住むとこの最寄り駅、快速も止まるんだ」


「それって最高じゃん」


僕たちは顔を見合わせて笑った。





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