ボールが三つに増えた翌々日。

 俺は久しぶりに体育館に足を運んだ。


「あれ……おかしいな」

 昨日は試験前日という事もあり体育館に寄らず、そのまま帰宅した。

 ようやく試験一日目を終え、明日は得意科目なので今日こそはと体育館に入った。

 そして、すぐにその異変に気付いたのだった。


「一昨日の時点だと三つしか無かった筈だよな……?」

 信じられない事に、天井のボールの数が更に増えているでは無いか。

 しかもモルテンのバレーボールの中に、茶褐色の一回り大きいボールまで混じっている。バスケットでボールだ。俺が投げたヤツじゃない。

 鉄骨に挟まる程の強さで、誰があの重いボールを放ったというのか。

 俺は昨日何もしていない。挟まったボールがこれ以上増える事はない。

 そう思っていた筈なのに……


「もうこれは……」

 疑問は確信に変わった。

 テストの結果などどうでもよくなっていた。焦燥感がそれに拍車をかける。

 今日はラストチャンスなのだ。明日の試験が終わると同時に、この体育館は運動部でごった返す。

 それまでには孝の置き土産+無数のボールどもを何とかしたかった。

 しかし……


 俺が日課を始めて三十分ほど経過した頃、体育館入口に新たな人影が現れた。


 どこか覚悟を決めたように俺は眼を瞑る。

 ――来たか。

 再び眼を開き、入口を見ると案の定唯衣が立っていた。彼女はいつもの長袖ジャージに細い太ももを露わにしたスパッツ姿だった。

 ごついバッシュに包まれた脚を小気味よく弾ませて倉庫に向かったかと思うと、バスケットボールの籠台車を引っ張り出しながら出てきた。

 その間も俺とは一切視線を合わさない。しかし、動きがどこか機械じみていてわざとらしい。


「なあ」

 近づきながら話しかけると、唯衣はまるで驚いた猫みたいにビクンと背筋を震わせた。


「な、なんですか……」

 露骨に動揺している。振り返る首の動きもぎこちなかった。

 俺は無言で頭上を指さした。

 その先の天井には無数のボールたち。


「し、知らないですよっ……⁉」

「うそつけ」

 両手を振ってあくまでも視線を合わせようとしない唯衣。

 俺は彼女の弁解を速攻で否定した。



「よし、ここらで休憩しようか」

「はいっ」

 体育館の隅に座り込むと、唯衣は自前のタオルで額を拭い始めた。

 彼女の額中を覆う汗粒が練習で流れ出た爽やかな雫なのか、俺への罪悪感に由来する冷や汗なのかは知る由も無い。

 片膝を抱え、わざとらしくバッシュの丸紐を解いてから結び直す唯衣。

 俺は外の自販機から買ってきたパックジュースを差し出す。


「まあ飲めよ」

「いいんですか?」

 バナナオレといちごオレ。黄色とピンクのパックを見比べる唯衣。

 目をぱちくりさせながら、俺に問う。


「手伝ってくれた礼だ」

「あ、ありがとうございます……」

 唯衣はいちごオレを手に取ると、おもむろにストローを差し込んだ。

 俺は左手に残されたバナナオレをじっと見つめた。


「同じ奴にすればよかったかな……」


 俺達はしばしの休息を過ごした。

 二人で眺めた体育館の中空はがらんどうとしているが、床を見ればあちこちにボールが散らばってとっ散らかっていた。少しでも窓辺に目をやると瞼が焦げそうな鋭い夕陽が差し込んでくる。

 矢のようなオレンジの光。その果てにある筈の夕刻の太陽を見ようとするのだが、何故か胸がもの悲しくなってくる。


「その友達ってそんなに仲が良かったんですか?」

 ストローを咥えながら、舌っ足らずな声で唯衣が問いかけてきた。


「ああ……多分、親友だった」

 俺は、バナナオレのパックを握り締め、未だ天井に挟まり続けるボールに視線をずらす。


「俺ってさ、小学校の頃から友達は少なかったんだ。内気だし……」

「そうは見えないですけど。先輩は変人ですし、皆好奇の目で寄ってきそうじゃないですか」

 俺の性格の破綻っぷりを指摘する唯衣。歯に衣着せぬ物言いとはまさにこの事だ。なかなか言うようになったなと思いつつ、眼を瞑る。


「でも、あいつはそんな俺に話しかけてくれた。だからかな……」

「?」

 横で小首を傾げる唯衣に先んじて立ち上がり、瞼を開いた。

 広がっている体育館、転がる無数のボール。何ひとつ変わらない世界。

 夕陽のオレンジと木目調の床のブラウンで構成された体育館を見上げれば、暗がりの白い鉄骨の影が白骨のように張り巡らされていた。その各所に垣間見える異物、挟まったボールども。


「いつまでもあそこにボールを残しておくと、アイツを思い出して辛いんだ」

「先輩……」

 唯衣はどこか憧憬と呆れを混在させた眼差しで見ている。

 だが、可愛らしい後輩にこうもじっと見られるのは悪い気がしない。

 不思議と自分がとんでもない正義を行っている英雄のようにすら錯覚してしまう。


 ――まあ、どれが孝のボールだったかはもう分かんねぇけどな!


 鉄骨の随所にねじ込まれた無数のボール。未だその一つも地上に落とす事が出来ないでいた。

 それなのに、今の俺は高揚感で満ちている。

 これまでの惨状を前にしても落とせない気がしなかった。俺とこのバスケット少女なら……或いは。


「そうですか……それなら」

 呆気にとられた顔で唯衣も立ち上がる。ちらりと俺を一瞥する彼女の視線はどこまでも不敵だった。


「速く終わらせましょう、先輩」

「そのつもりだ。どっちが多く落とすか競争だ」

 俺が発破をかけるつもりで大口を叩くと、


「私のシュート成功率知ってますよね? 多分、勝てませんよ?」

 唯衣も好戦的な笑みを浮かべてこちらを見返す。

 俄然、戦意高揚だった。

 最早、彼女がどう思っていようと関係ない。俺は為すべき事をするだけだ。


「全て落とす。今日がそのラストチャンスなんだ」

 俺と唯衣は小脇にボールを抱えて歩を進める。

 まだ一日残っている。このくだらなすぎる挑戦は終わらない。



 6

 翌日、テストの最終科目がようやく終わった。

 帰りのHRを待っている間も同級生たちは肩の荷が下りたと口々にぼやいている。何とも開放的な教室の空気。しかし、そんな彼らを尻目に俺だけが憂鬱に包まれていた。

 殆ど勉強が出来なかったので試験の自己評価は惨憺たるものだった。

 おまけに、ボールはまだ一個も落とせていない。テストの疲労感だけで無く、ボールを投げ続けたせいで腕と腿は筋肉痛でパンパンだ。

 心も体も完全に擦り切れている、そんな状況に陥っている。


「くそ……全部あのボールのせいなんだ」

 皆に聞かれないような小声で自分に言い聞かせた。

 こんな経験は初めて。なんもかんもあのボールが悪い。

 体育館の天井には俺と唯衣が投げ続けた合計十数個のボールが挟まり続けている。

 そういう状況で、落ち着いて勉強なんてできる訳ないじゃないか。

 結局昨晩は恐怖と不安と絶望で枕を濡らした。というか睡眠すら殆ど取れなかった。

 睡眠不足からくる吐き気が今になって胸元を襲い始めた。試験の緊張のせいですっかり麻痺していた不快感だった。


「おい佐藤。お前何をしたんだ?」

 ハッとして見上げると、 いつの間にかHRが終わっていて、周囲の連中は帰りの支度に入り始めていた。

 席の前には俺を見下ろす若い眼鏡の男教師がいた。彼は名簿を小脇に抱えたまま怪訝そうな顔で首を傾げている。


「何って……何が?」

 唐突に話しかけられて我ながら寝ぼけたような反応。担任教師はやれやれと溜息をつく。


「体育の小森先生から呼び出しだ。……お前ら試験前に何しでかしたんだ?」

 え……え……

 開いた口が塞がらない。俺が呼び出しを喰らう理由。

 一つしか見当たらなかった。

 しかも、――だって?




「全く、お前らときたら……」

 堅苦しい背広に身を固めた教師たちが行き交う職員室。体育教師の小森だけがラフなジャージ姿でコーヒーを啜っていた。落ち着きをもたらす筈のモカの匂い。しかし、何故か今は心をムズムズさせる。

 俺は小森の机の前で、唯衣と共にお叱りを受けていた。

 すぐ横で項垂れる唯衣は珍しくセーラー服姿。彼女とは体育館以外で初めての対面なので制服姿を見るのは初めてだった。しかし、今はそんな感傷に浸っている場合じゃない。

 小森は俺達が何故、天井に挟まったボールをひたすら増産し続けたのかを問い詰め、理由を聞いて呆れかえった。


「馬鹿なヤツだな。テスト期間中に何をやっているんだ」

 転校していった孝が残していったボール。それを落とす為にやったのだと告げた所で、小森は頭を抱えた。

 気を取り直すようにマグカップに口を付ける。熱くなった頭をカフェインで冷ましている、俺にはそう見えた。


「分かった。天井のボールは俺が業者に頼んで何とかしとくから……もう忘れろ。篠崎も」

「はい……」

 力ない声で今度は唯衣が頷く。スマートな体つきも相まってしおれた野菜みたいだ。項垂れたせいでサイドの髪がはらりと垂れて輪郭を隠している。

 表情は窺い知れないが、相当に落ち込んでいるのは明白だった。

 小森は俺と唯衣の肩を叩き、反省しているならそれでいいとだけ告げて退室を促す。

 後に職員室を出た俺が扉を閉める。二人並んで昇降口に歩を進める間、俺達は沈黙を貫いていた。


 後日、小森の計らいで呼び出した業者によって体育館天井のボールは全て撤去された。

 費用の方は学校の予算で何とかなるという話だったが、こういった特殊な高所作業は割に合わないコストが掛かるという。

 俺達はそれぞれの親、担任からもお叱りを受け、酷く反省した。

 おまけに、テストの結果は最悪に終わり講習と追試を余儀なくされたのだった。

 孝が置いていった置き土産の代償はあまりに大きかった。

 しかし、秋が深まって面倒事が全て終わった頃には、俺の心は不思議と漂白されたようにさっぱりとしていた。


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