このエピソードを読む
2024年4月7日 17:35
「マインドフルネス」は上座部仏教あるいはベトナム大乗仏教の「禅」であり日本の大乗仏教の「禅」とは大きく異なる物です。ヴィパッサナー瞑想と禅って全然違うんですよ。日本の場合は雑念を生じると座禅棒でバシーンとやられますからね。でも上座部仏教ではそれ自体が禁止です。超越し「無」になることで癒しを得ることと「罰を受ける」ではまるで発想が違うのです。ところがアメリカに持ち帰った「マインドフルネス」は無我どころか仏教が毛嫌いしたヒンズー教の「真我」の思想と化してしまいまったくの別物となってしまいました。やはりそこが「インド=ヨーロッパ語族→白人」の限界なのかなと。マインドフルネスは自己を中心に宇宙が回るという仏教的に否とする者に変化してしてしまいそれはヒンズー教の「真我=アートマン」説の物にほかなりません。「マインドフルネス」は無になることが最終目的であってビジネス目的なんて言ったら僧侶が激怒するでしょう。無、ですからBGMも雑念ですしひらめくことも雑念ですからダメなのです。貴殿の創作のご参考になれば幸いです。なお西洋人は「我思う、ゆえに我あり」=「真我」が原則ですから自己をも消す「無」という思想を恐怖に感じるようです。
作者からの返信
わあ、お詳しい。とても勉強になります。仏教関係は基礎しか知らないもので。確かにマインドフルネスと無は違いますよね。BGMは無ではないですよね。それはやはり波長を合わせてからの創作ですから、無では書けないww西洋的な後付けがマインドフルネスですから、西洋的な逃げになるのもうなづけます。
「マインドフルネス」は上座部仏教あるいはベトナム大乗仏教の「禅」であり日本の大乗仏教の「禅」とは大きく異なる物です。ヴィパッサナー瞑想と禅って全然違うんですよ。日本の場合は雑念を生じると座禅棒でバシーンとやられますからね。でも上座部仏教ではそれ自体が禁止です。超越し「無」になることで癒しを得ることと「罰を受ける」ではまるで発想が違うのです。
ところがアメリカに持ち帰った「マインドフルネス」は無我どころか仏教が毛嫌いしたヒンズー教の「真我」の思想と化してしまいまったくの別物となってしまいました。やはりそこが「インド=ヨーロッパ語族→白人」の限界なのかなと。マインドフルネスは自己を中心に宇宙が回るという仏教的に否とする者に変化してしてしまいそれはヒンズー教の「真我=アートマン」説の物にほかなりません。「マインドフルネス」は無になることが最終目的であってビジネス目的なんて言ったら僧侶が激怒するでしょう。無、ですからBGMも雑念ですしひらめくことも雑念ですからダメなのです。
貴殿の創作のご参考になれば幸いです。なお西洋人は「我思う、ゆえに我あり」=「真我」が原則ですから自己をも消す「無」という思想を恐怖に感じるようです。
作者からの返信
わあ、お詳しい。
とても勉強になります。仏教関係は基礎しか知らないもので。確かにマインドフルネスと無は違いますよね。BGMは無ではないですよね。
それはやはり波長を合わせてからの創作ですから、無では書けないww
西洋的な後付けがマインドフルネスですから、西洋的な逃げになるのもうなづけます。