六花とけて、君よ来い
尾八原ジュージ
蝶々
冬だというのにアパートの窓辺に蝶々が来た。羽が破れて気息奄々といった有様だった。
午後から雨が降るというので、わたしは蝶々を家に入れてやった。ありがとう、と蝶々はつぶやいた。
見たことのない蝶々だった。大きくてきれいな桃色の羽に白い斑点が散っていた。
「どこから来たの」
そう尋ねると、「ずっと南の方よ」と答える。
「どうしてこんな寒い時期にわたってきたの?」
「雪っていうの見てみたかったんだもの。まだ芋虫の頃に北へいくコンテナ船に乗って、蛹になってわたってきたの」
「幼虫だってのにすごい行動力」
わたしが褒めると蝶々はくるくると笑い、出してやった砂糖水を飲んだ。
「君ねぇ。そんな羽で外に出たら、雪が降る前に死ぬわよ」
「おっしゃるとおり」
それで蝶々はわたしの部屋に居着いた。
面倒なことは特になかった。一日一回小皿に砂糖水を作ってテーブルに置いておけばそれで食事は事足りるし、ほかにこれといって世話が必要なわけでもなかった。こちらとしては花を飾るのと同じような気分で、しかも蝶々は南国の話を御伽話みたいに語るので楽しかった。
蝶々の主人はお金持ちで、自分の子どもにつけるのと同じ家庭教師を、まだ芋虫だった蝶々にもつけてやったという。それで蝶々は雪だの日本だのというものの存在を知って、結局屋敷を飛び出してしまうのだけど――蝶々は時々思い出したように奥様はお元気かしら、坊っちゃんはちゃんと勉強してるかしら、とずいぶん老成した感じでつぶやいた。若気の至りで屋敷を飛び出したことを、蝶々なりに後悔することがあるらしかった。
「でもまぁ、一度しかない人生だもの」
蝶々は言った。「それに蝶々の後は別のものに生まれ変わるって決まってるからね。それも楽しみなの」
「ふぅん、そういうものなの」
蝶々はうなずいて窓の外を見た。その頃の蝶々は、よく窓辺に止まっては空を眺めていた。
砂糖水が減らなくなってきた。
蝶々はわたしが近所からもらった椿の枝を寝床にしていたけれど、窓辺よりもそこでうつらうつらしていることが多くなった。
いつまでもつだろうかと心配していたある朝、ようやく雪が降った。大きな牡丹雪が、灰色の空から白い羽根みたいに降ってきた。「蝶々! 雪!」
わたしが手招きすると、蝶々は寝床にしていた小枝の上で触角をふらふらと動かしたあと、よたよたとこちらに飛んできて、わぁと子どものような歓声をあげた。
わたしたちは並んで窓の外を眺めた。蝶々はとても嬉しそうだった。わたしもしあわせな気持ちになった。
「雪のことを六花というのよ。数字の六に花と書いて六花」
わたしはふと思い出してそう言った。花と蝶々であれば格好の組み合わせだと思った。
「きれいな名前ね」
蝶々はうっとりとつぶやいた。それから突然こう言った。「ねぇ、窓を開けてもらえないかしら」
わたしは耳を疑った。
「自殺行為よ」
「わたし、今夜にはきっと死んでしまうわ」
蝶々は悟りきったようにそう言った。
「ぺらぺらの死体になって机の上に落ちたのを、あなたに拾ってもらうなんて厭だわ」
触角が力なく震えていた。やはり死期が近いのだろうとわたしも思った。
「心配しなくても、生まれ変わったら会いにくるわ」
蝶々はわたしに誓った。
「世界中のどこにいてもたどり着くわ。行動力には自信があるの」
結局わたしはしばらくぐずぐずした後で、蝶々にむかってうなずき、窓ガラスを開けた。
びゅうと冷たい風が吹き込んだ。目を閉じた一瞬のうちに、蝶々は風に逆らって飛んだ。ありがと、と細い声が聞こえた。曇天に桃色の羽が舞い上がり、すぐさま地面にすいこまれるように落下して、わたしの視界から消えた。
わたしは窓を閉めた。蝶々はわたしに死骸を見られたくないだろう。すっかり冷えてしまった部屋で、わたしは膝を抱えて泣いた。
昼過ぎには積もった雪が地面を覆い隠した。蝶々は雪に埋もれてしまっただろう。雪解けの頃にはもうばらばらになって、もう蝶々とはわからないだろう。
空っぽになったような気持ちのまま、さもない日々が過ぎた。
もう砂糖水を飲む相手もいないのに小皿は出しっぱなしだ。梅が咲き、もう一度少しだけ雪が降って、それが溶けると春の気配が濃くなってきた。
ある夜、眠ろうとすると窓ガラスをはたはたと叩かれた。わたしはすぐに蝶々のことを思い出した。飛び起きてカーテンと窓を開けた。
ベランダの柵に緑の蔓を巻きつけた花が、桃色に白い斑点のある花弁を広げていた。蔦の先端が風に吹かれて窓ガラスに当たったらしい。見たことのない、けれどなつかしい感じのする花だった。
「ちょっと、ここ二階よ。すごい行動力」
わたしはひさしぶりに笑った。花は笑い返すように揺れた。夜風は春の匂いがした。
六花とけて、君よ来い 尾八原ジュージ @zi-yon
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