第52話

自分にまた親ができる。胡蝶との今までの時間を振り返り、両親や御堂らのような行為をしないと言いきれるだろうかと自問しつつ、心が胡蝶を求めているのにマリアは気付いた。

 今までマリアが見てきた胡蝶の目は、いつも愛情に満ち溢れていて、温かくいつも抱きしめてくれた。今もそうだ。マリアが出す答えに怯えているのか、マリアの肩に置かれた手が微かに震えている。

 今までマリアに触れてきた手は、強引で力でねじ伏せるものばかりだったのに対し、相手の手が震えているのは初めてだった。

 何度もマリアを抱き寄せていた手が、今になって震えているのか意味がわからなかった。でも、胡蝶の目を覗き込んで、自分の出す答えが怖いんだと感じたのと、何か別のことに怯えていると伝わってくる。

 もう一度、もう一度、胡蝶なら信じてもいいかもしれない。いや、信じられると、揺れている胡蝶の瞳を見てマリアは答えを出した。

「もし嫌なら、無理をしなくてもいい。ここにいても……」

 マリアは首を振った。

「胡蝶さん、おじさんと一緒がいい」

 苦しいほどに、今度は抱きしめられたが、マリアは抵抗をしなかった。

「じゃあここから逃げよう」

 握られた掌は先程感じた熱はなく、氷に漬けていたかのように冷たくなっていた。いつもゆっくり歩いていた廊下を全力で走り抜ける。

「本当の名前は村雨慎二。だからこれからは村雨マリアになるかな」

 村雨の歩幅に付いて行けず、半ば宙を走るみたいにマリアは引っ張られていた。正面玄関に着くと丁度、鳥坂が出て行こうとしていた。

「はいはい。徒競走はここまで」

 だが突如、反対側の通路から、四人の男が現れた。その一人は三船で、手に黒い鉄の塊を持っている。それが銃だと気付くのに、マリアはかなりの時間がかかってしまった。

 走って来た後ろを振り向くと、銃は持っている柄の悪い男が四人いる。ガラスの玄関の前には、出られずに閉じ込められたしまった鳥坂が、溜息を吐いていた。

「掃除屋さん、あんたグルかい?」

「グルではないな。まあ大丈夫だろうと、一服していた俺のミスには違いないかもな。で、そのガキも処分対象か?」

 鳥坂は顎マリアを指してきた。村雨の手が、マリアを必死で守ろうとしている。マリアは村雨の後ろに隠されているために表情は見えないが、鳥坂の涼しげな顔とは違っているなと、張り詰めた空気で感じ取れる。

 守ってくれる村雨には申し訳ないが、マリアは自分が傷付けられないと分かっていた。それに気持ちは村雨との未来にへと向いている。

 しかし『ガキも処分対象か?』と鳥坂の発した言葉が気になった。鳥坂も力のことを知っている。そしてここにいる大人全員がその価値を、マリアを含め分っているのに、鳥坂にとってはどちらも不要というように聞こえた。

 今まで大人は、自分の欲求のためにマリアを扱った。父親、母親、親戚の中学生、伯父。自分でも容姿がそうさせていたのも理解していた。そして折角出来た友達をも巻き込んでしまい、初めて自分の容姿がイケないものだと思った。

 汚れという鎧を身に纏って、それまでの大人達の反応は一八〇度変わり、持て囃されることもなくなって見向きもしなくなった。

 自分から周りを遠ざけたのに、初めはギャップで辛かった。

 でも次第に一人でいる気楽さに気付くと気にならなくなった。むしろ今まで過干渉に思えるほどだったので、自由になった気持ちになっていた。

 気楽になったと喜んでいたけど、大人がマリアをどっぷりと蜜壷に漬けていたため垢は取れず、自分を理解し甘やかしてくれる心の底で求めていた。

 初めは鳥坂だと思ったが、彼は病院で傷を治してから、冷や水のような視線しか投げて来なかった。理由はマリアにはわからない。ただ嫌われているという雰囲気だけは分かっていた。

 汚れていないこの姿で、そこまで嫌悪される体験は初めてだった。だから尚、鳥坂は別格に映っていた。

 そしてそれは今も向けられたままだし、顔からマリアをここから連れだす気がないのが伝わってきていた。

 村雨が盾になって自分を守ってくれているのに、冬山の頂きに一人取り残されて、辺りにはもちろん何もなく、吹きつける雪と風に体をありのまま晒しながら吹きつけられ、数センチ先も見えない場所に立たされているような恐怖と寂しさや悲しさが入り混じっていた。

 両親が死んでも、性的悪戯をされ母親が見て見ぬふりをしていても、今みたいな気持ちになった過去はない。大人はマリアを守り弄んで当然だったのだ。

 部屋に乾いた短い大きな音と、火薬の匂いがした。村雨の足元に、黒い点が出来上がっている。

 マリアは体に当てられている村雨の手を握った。大きくて温かく少し汗ばんでいる。園のシスター達とは違い今、自分を必要とし何より守ってくれている。

 身体からスーッと体温が抜けていく感覚がして、村雨から流れ出る血が怖くなった。血が怖い訳ではない。一人になるのが急に怖くなった。

 今まで、自分の身を守るために、沢山飛び散った血と肉片をみてきても、何も感じなかった。むしろ当然だと思っていた。でも村雨の身体から流れている血は、マリアに孤独という恐怖を感じさせた。

 大人が子供を守るという意味。その感覚を初めて知った気がした。

 村雨はマリアの温もりを感じ、まるで心配するなというように強く握り返してきた。撃たれて怪我をしているのは村雨なのに、なぜ無傷のマリアを案じてくれるのか。

 マリアが感情を処理しきれていない時に、鳥坂の声が耳に入ってきた。

「三船さん。血を流されると車が汚れるんで、勘弁してくれないか?」

「なら、あんたが落し前を付けてくれてもいいんだぞ?」

 鳥坂が「もちろん」と言いながら不敵に笑った。



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